「...私?」

「ああ、...そうだ」

空気が張りつめた
花音は俺をただ見つめて、そしてまた髪を耳にかける
...本当に、分かり易い奴だ

「............それは、なんで?」

「何故だと思う」

逆に聞き返す
花音の答えが聞きたいから、花音が何を考え、何を感じているのかを少しでも知りたいから

「...うーん、.........あのね、私ここ数年の記憶しかないの」

「 .........」

「...ごめんね、だからあの時君もわからなかったの、悪く思わないでね」

当然ながらの答えと、花音の口から直接突き付けられた現実
それでも花音は俺に悲しく笑ってみせる
本人は気づいてないんだろう、上手く笑えていないことに

「そんな複雑な顔しないで、...それとも怒ってるの?」

そう言ってまた笑う
誰かに自分の辛い、悲しい気持ちを言えない、伝えられないのは今もなのか
花音のか弱い心を守ってくれる人はいるのだろうか

「...俺はいつもこんな感じだ」

「そっか、...でも君はいつも悲しそうな顔してるよ、私と会った時だけかな?」

花音は変わっていなかった、なにひとつ性格はあの頃のまま
自分よりも、人の事ばかり考えている奴なんだ

「.........俺とお前は高校の時の同級生だ」

「ということは、私と仲良くしてくれてたんだね」

本当に跡形もなく消えている花音の記憶の前に、なす術はあるのだろうか

授業はとうに始まっている時間でもあったためなのか、大学の敷地内にはほとんど人はいなく、俺と花音の間を通る風の冷たさを否が応でも感じた

「...ねえ、話聞かせて欲しいな」

「...話?」

「私の高校時代の話、もしかしたら、私の探している人も見つかるかもしれないし」

花音の記憶の欠片を集める助けになるならば、出来る事は全てしてやりたい、それが花音の望みなら
今度こそ俺は花音を守らなければならない、それが俺の生きる意味なんだ、たとえ花音が俺を知らずとも花音の為に生きると決めたんだ、花音が病気をあの日打ち明けてからずっと。

「...ここじゃ寒いだろ、俺の研究室に来いよ」

「ありがとう、君って...「君じゃねえ、日番谷冬獅郎だ」

そう言うと、花音は笑った

「ふふ、なんて呼べばいいかな?高校の時は何て呼んでた?」

「なんでも好きに呼べばいいだろ」

そういうと少しの間考えた後

「...じゃあ、冬獅郎で!」

と、初めて会った時と同じように花音は図々しくも俺の名を呼んだ
やはり、花音は花音だ、俺の知っている花音に変わりはなかった

「冬獅郎、」

「なんだ」

「呼んだだけー」

「ぶっ殺すぞ」

人懐こく俺にちょっかいばかり出す
さっきまであんなにかしこまっていたのが嘘のようだ

「...変わんねえな、」

ふと、こぼしてしまった
花音と話しているうちに、分からなくなっていたんだ
夢か現実か、あの頃の花音か今の花音かを。

「昔から私は私だったんだね、...よかった」

「.........、なあ、今は幸せか?」

花音のその言葉に、俺はずっと気になっていた事を意を決して聞いた
花音はそれまでの表情とは打って変わって、しばらく考えこんだ

「......ここ数年の記憶じゃ、幸せか不幸せか判断出来かねるかな、だってその判断基準がないんだし」

「...そうか、悪い事聞いたな」

「ううん、でもこうして冬獅郎と話してると、きっと昔は幸せだったのかなって思うよ」

また悲しく笑う
それが偽物の笑顔だとは気づかずに
時々見せるその笑顔が、俺の胸を痛ませる
今すぐにでも抱きしめたいのに、それすらも出来ない俺の無力さに。

「...冬獅郎またそんな顔してる。...そういえば、冬獅郎って実家?」

「いや...一人暮ら...「じゃあ今日のお礼にご飯作らせて?」

「はっ?!ちょ、お前何言ってんだよ」

いきなりの提案に驚きを隠せない俺
何を言っているんだこいつは。
仮にもあいつからしてみれば、俺は今日初めて会ったと言っても過言じゃない男だ
そんな男の家に行こうだなんて、あまりにも無防備ではないか

「...だめ?あ、もしかして彼女いるとか?」

「そういう訳じゃねえけど、...見ず知らずの男の家なんか行っていいのかよ」

そう言うと、花音は何の気にする素振りもなく

「見ず知らずじゃないでしょ?冬獅郎は私を良く知っているもの」

と、俺に笑ってみせる
......なんで、花音はこうも花音なのだろうか。当たり前の事なのに、そのひとつひとつが俺の心に響くんだ、...色を失ったはずの世界に。

「......もう、こんな時間か...腹減ったな」

わざとらしく時計を見ると、花音はその意味を察したらしく、

「素直じゃないなあ」

と言いながら、上着を着て俺を待つ
そして俺が「行くぞ」と言うと、花音は微笑んで俺の横を歩いた

何故か、違和感がなかった
こんなにも久しぶりで、そして花音は俺を知らないはずなのに、お互いが安心しきったような雰囲気で。

午後くらいに現れた花音と話すこと数時間、たったこれだけの時間なのに俺たちの埋めようのない距離が一気に縮まった気がした


「着いたぞ、ここだ」

「...............」

鍵を開けて、先に入るが、花音はそのまま動こうとしない

「おい、何やって...」

花音の方へ振り向くと、泣いていた
拭うこともせず、涙はそのまま頬を伝い、どんどんこぼれ落ちている

「......なんでだろう、涙がとまんない」

「............」

「この匂い、...なんでだろ」

花音は、よく俺の匂いがどうのこうの言っていた
いつも俺の匂いを嗅いでは良い匂いと言ってはまた俺の首に顔を埋めたり、シャツの匂いを嗅ぐ変な癖があった

「.........でも、良い匂いだね」

捨てたはずの希望も、無くなったはずの色も、聞こえなくなったはずの耳も、全て花音によって少しづつ取り戻されていく

また、信じたくなったんだ

花音との日々を、花音との思い出を。





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