次の日、花音は本当に外出届けを取ってきた

俺は花音の担当医に厳重注意された
花音の余命が更に縮まると。
それでも俺は花音との約束を果たすため、花音が行きたいと言った温泉へ行くことにした

花音のためにも、...俺自身、もう後悔しないためにも。



「まだ準備出来てねえのか」

「洋服決まってないの」

「そんなの適当でいいだろ、毎日会ってんだからよ」

「そういう問題じゃないでしょ?」

早朝からくだらないことで喧嘩をする
花音と付き合う前からいつも些細な事で言い合いをしていた

そんな事も花音はもう覚えていないんだろう
俺と花音の大切な思い出は、俺だけの思い出になっている
...俺が忘れてしまえば、無かったも同然のものになるんだ

「具合悪くなったらすぐ言えよ」

「分かってるよー、平気平気」

この適当な二つ返事も花音の悪い癖だ
俺の良く知る花音がここにいるような気持ちになる、入学してからの姿に。

「よし、行こう」

花音は俺に手を差し出した

「...遅せえよ」

俺はその手を握った

きっとこれが最初で最後の遠出になる

だから、花音の記憶に、俺と花音の思い出になるように
それが当たり前の望みすらもままならない俺と花音の最後の儚い希望だ


「ねえ、冬獅郎」

「なんだ」

「すごい幸せだね」

「...っ」

バスの中で花音は俺の肩に頭を乗せ、目を瞑りながら俺に語りかける

具合はやはり悪いんだろう、でも今の花音はとても楽しそうで、とても嬉しそうで。

「...もう思い出は増えないと思ってたから」

そう言う花音の表情は何ひとつ変わらない

「増やすんだよ、そのための俺だろ」

そんな花音の姿が儚く見えて、花音の冷たい手を握った
そうすると、ゆっくりと目を開けて俺に優しく微笑んだ
...この冷たい手を温める事が出来るのは俺しかいないんだ





「冬獅郎、客室露天風呂だよ...すごい」

「大浴場行かせられねえだろ、これで我慢しろ」

「十分過ぎるよ...ありがとう」

花音を1人で歩かせるわけにはいけない
それでこの宿を昨日急遽予約した
露天風呂から見える景色は最高に良い
花音はその景色を写真に撮っていた

「そのカメラ貸せよ」

「え?なんで?」

カメラを受け取り、レンズを花音に向けた

「お前も撮ってやる」

「いいよ、私は。だったら一緒に写ろう?」

「そしたら誰が撮るんだよ、ほら笑え」

「ハイチーズとかそういうのはないわけ?」

そう言いながらも、綺麗に笑った
それは今まさに余命が迫ってきているような人の姿には見えない
何もかもが嘘のようで、目を覚ましたら全てが夢だったのではないかと勘違いするくらい、花音は今輝いていた


「日も暮れてきたし、早速風呂入るか」

「冬獅郎が先に入っていいよ」

「は?一緒に入るに決まってんだろ」

そう言うと、花音は顔を真っ赤にして

「絶っっ対に無理、嫌だから。早く先入って」

「何のための客室露天風呂だよ」

「そういう為だけのものじゃないでしょ?」

結局何度か粘ったものの、花音の許可が下りる事は無かった
そして花音が入る時も

「絶対に入って来ないでね、絶対に覗かないでね」

「...わかってる」

徹底して俺と入ろうとしなかった


「...冬獅郎、いる?」

「ああ、どうかしたのか?」

花音が風呂に入ってしばらくすると俺を呼ぶ声が聞こえた

「こっち来て」

風呂のあるバルコニーに出ると、旅館の浴衣に着替えた花音が小さな袋を持って

「今日は何の日でしょう」

と、珍しくにやにやしている

「今日...、......っ」

俺は奇跡を見たんだ

「誕生日、おめでとう」

花音が、俺自身ですら忘れていた誕生日を覚えていたということに

「何も用意できなかったけど...」

そう言いながらも、持っていた小さな袋を俺に渡した
中には桜の押し花が台紙に貼られているものが入っていて、その桜は花音と付き合った日に一緒に見た桜だ

「私の宝物なんだ、冬獅郎にあげる」

俺はこの奇跡に、俺の人生の全ての奇跡を使ったのではないかと思う

今日が何曜日かも把握できない、昨日の出来事すらもほとんど記憶にない花音が特定の日にちを覚えているなんてあり得ない

「冬獅郎と付き合った日、一緒に見たよね」

そして、こうして過去を語る事も

「いつも冬獅郎に笑顔にさせてもらってるでしょ?たまには私も冬獅郎を笑顔にしたいよ」

「...馬鹿野郎......、」

俺は花音の細い腰を思いきり引き寄せ、抱きしめた

「これじゃあ、冬獅郎の笑った顔見えな......っ、」

そして、風呂上がりで少し火照った頬に手を添え、唇を奪った

「...花音、ありがとう」

花音は分かっているんだろうか、俺はただ花音さえいれば幸せだと言う事に
ただ花音さえいれば花音のために笑えるということに

「..大好きだよ、愛してる、だから私を忘れないで」

「ああ...」

花音は、この言葉を良く言う
寂しいのだろうか、怖いのだろうか、俺の愛を確認しているのだろうか
俺には分からない、ただひとつ言えるのは
俺を求めていて、俺を欲しているということだ

「ずっとこうして笑っていようね」

花音は、いつも笑っている
俺も笑うと、さらに花音は嬉しそうに笑うんだ

愛する人と、こうして一緒にいる事が出来る
愛する人が、こうして笑顔でいる


...俺は、俺達は、今最高に幸せだ








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