「...何も印がなかったから、来てないと思ってた」
「確か砂場になんか書いたよ」
「馬鹿野郎、んなもんすぐ消えるだろ」

冬獅郎も余程驚いたのか、初めて見せる表情だった。その姿に私は笑った。
長年のお互いの誤解は晴れた。会いたくて会いたくて仕方のない人に会えた。

「花音、改めて久しぶりだな」

冬獅郎は、初めて笑みを見せる。私はその姿に心を奪われた。あまりにも、綺麗だったから。
...だから、一回だけ。
そう、思ってしまった。冬獅郎に今だけ、心を奪われたいと。明日になったら、修兵をまた一生懸命好きでいるから。だから...

「会いたかったよ、ずっとずっと」

この言葉を言わせて下さい。





ようやく雨が弱くなり、また歩き出す。さっきよりもずっと心なしか空気が軽かった。

「携帯鳴ってるぞ」
「あ、うん、ごめん」

でも、その空気を壊したのは、修兵からの着信。当たり前の事なのに、今だけはすごく邪魔に感じて。いつも電話をしている時間なのだから、当然の筈。通話ボタンを押すと、相変わらず元気な修兵だった。

『花音、今日は...「ごめん、また後で掛け直すね」

そんな事を思ってしまう自分に激しく嫌悪した。修兵の事が大好きな筈なのに。なぜ、こんな言い方をしてしまったのだろうと。...それは全て、隣に冬獅郎がいるから。

「どれくらいだ」
「2年くらい付き合ってる...」

空気が重い、と感じたのは私だけだろうか。
その重い空気がずっしりと肩にかかる。

当たり前なのに。
あんなにも好き合っていたのに、私がそれを無かった事のように恋をしていたのだから。
冬獅郎は、怒るだろうか。そう考えるのは私のただの傲慢だろうか。

「...裏切るなよ」
「え?」
「そいつを、な」
「......うん」

しかし冬獅郎は、私が思う更に上をゆくほどに大人だった。
きっと私の心の揺らぎに気付いて、そう言っている。...私を正そうとして。私の心の在り処は冬獅郎ではないと。

「ありがとう、もう大丈夫」
「帰れるのか?家まで送...「彼氏に早く電話しないと拗ねちゃう。あんな切り方しちゃったから」

これ以上一緒にいると、きっと心が迷ってしまう。心が冬獅郎に全て食い潰されてしまう前に、私は戻らないと。
「ここからはもう、自分で帰れるから」と付け加えると冬獅郎はすんなりと受け入れ、分かれ道で私と逆方向へ向かおうとした。

「今日はたくさん話せて嬉しかった」
「ああ、じゃあな」

冬獅郎の後ろ姿を見た。
その肩には一体何がのしかかっているのだろうか。その瞳にはどんな悲しみを映しているのだろうか。...そして、その心にはどんな痛みがあるのだろうか。いつか、私にそれらを見せてくれるのだろうか。

「......修兵?さっきはごめんね、うん、学校の友達といて...」

そしてそれらを掻き消すかのように、私は電話をかける。...誰よりも大好きな修兵に。





次の日の学校は、どこか緊張した。冬獅郎はまたいつものような顔をするのだろうかと。私が見えていないかのような、そんな顔をするのだろうかと。

...やはり、そうだった。下を向き頬杖をついて、決して周りは見ない。何故、といういつもの疑問は以前より強く私にのしかかる。
昨日は嘘だったのかというのだろうか。

そんな中、教室のドアが大きな音を立てて開いた。黒髪の可憐な女の子がドタドタと大きな足音でこちらへ向かってくる。
初めて見る顔。なんて思っていると、その女の子は私の前で止まった。私はただ呆然としていたが、その女の子の目線は冬獅郎以外を捉えてはいなかった。

「日番谷くん、おはよう」
「おは...っ、」

ピチャピチャ、と嫌な音がした。
隣を見ると、冬獅郎が濡れている。座席の周りには水溜りがみるみると出来ている。いきなり現れた女の子は、冬獅郎の頭上でペットボトルを逆さに向けていた。もちろん、キャップなんかついていない。この水溜りも、冬獅郎が濡れているのも、この女の子の仕業だというのを理解するのに時間はかからなかった。





アンパレ
占領






「ちょっと、何して...、」

止めに入ろうとする私の腕をぐっと引っ張ったのは、冬獅郎でもなく、その女の子でもなく、クラスの友人だった。

「関わったらだめ、絶対に」

その子の顔は、本気だった。これがクラス全体の意思とでも言うかのように、周りはなにひとつこの2人に関与しない。
完全に、ここは2人だけの世界だった。


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