家へと戻ってきた私は、そこに灯っている明かりを認めると足を止めて邸を見上げた。
透の車から降りて路地裏を適当に走り、恐らくは追ってこようとしていた彼を撒いている間に頭は冷やしておいたつもりだ。
だが念のためにもう一度だけ深く呼吸すると、私は門を潜り玄関の扉を開けた。
鍵を掛けて、靴を脱げば、居間の方から走ってくる足音が聞こえる。
勢いよくドアが開いて、顔を出した快斗は安堵したように息を吐いた。
「良かった−−お帰りなさい、名前さん」
「ただいま、快斗。ごめん、戻るのが遅くなったね」
「あと少し遅かったら発信機を確認してましたよ」
悪戯気に言った快斗は、すぐに優しく微笑う。
「でも良かった。ちゃんと帰ってきてくれて。また何かあったのかと思いましたよ」
「うん……ごめんね。いまからご飯用意するから−−」
言いかけた私に掌を向けて言葉を遮った快斗は、得意気に笑って胸を張る。
「大丈夫です。夕飯の支度は俺がしておきましたから」
「……快斗が?」
ぽかんと口を開いて見上げれば、快斗は拗ねたように唇を尖らせる。
「俺だって、料理くらい出来るんですからね。もちろん名前さんの腕前には到底及ばないけど」
私は、いや、と小さく笑う。
「職務放棄してごめんね。けれどとても楽しみだよ」
礼を言って、荷物を置いてこようと歩き出せば、すれ違い様に快斗に腕を掴まれた。
動きに支障は出ていないはずだけれど−−と思いながら火傷に気づかれたかと、どきりとする。
首を傾げて見れば、快斗はどこか探るような眼差しを私に向け問うた。
「……本当に今日は何もなかったんですよね?」
−−ああ、今日はもう駄目だな私は。
「あったよ」
心中で溜息を吐きながら、さらりと言えば快斗は血相を変えて私に詰め寄る。
「まさかまた、何か事件に?」
「ううん、違うよ」
「それじゃあ何が?」
私は、おや、と眉を上げて笑う。
「さっき自分で言ったじゃないか」
「さっき?」
「夕飯、作ってくれたんでしょう?」
快斗はぽかんと口を開くと、ややあって首を傾げた。
「まさかそれが、今日あったことですか?」
「おや、まるで些事だとでも言いたげだね。私にとっては快斗がご飯を作ってくれたことは何にも勝る重大事だというのに」
「そこまで言います?心配しなくても、味は保障しますって」
「心配しているんじゃなくて、楽しみにしているんだよ」
言えば快斗は目を丸くして、すぐに笑った。
「本当にもう、名前さんは俺を喜ばせるのが得意なんだから」
「ふふ。それじゃあ私は荷物を置いてくるよ。すぐに手伝いに行くから」
微笑って言えば、快斗は少しだけ私を見詰めた後、折り目正しく返事をして居間へと戻っていった。
廊下を歩き、自室へと入った私は深く息を吐いた。
鞄を机の上に置くと中身を開き、何かを報せるランプが点滅した携帯を取り出した。
サイレントモードにしていたため分からなかったが、思ったとおり透からの着信が何件も入っている。
(後で一応、謝罪しておこう……メールで)
思っていれば、画面が着信を知らせるそれに切り替わった。
表示された発信者の名前に、私は僅かに目を瞠る。
江戸川コナン−−表示された小さな探偵さんの名前を眺め、そうして私はそれを鞄の中へと仕舞い戻した。
それから数日が経った休日、珍しく家にいた快斗に私は問う。
「快斗、いま少しだけ時間ある?」
「大丈夫ですけど、どうしたんですか?」
「うん、ちょっと話があってね」
言えば快斗は不思議そうな顔をして居間のソファに腰を下ろした。
紅茶の入ったティーカップを差し出せば、快斗は礼を言ってそれを受け取り首を傾げる。
「それで、話って?」
私は、うん、と呟くと、快斗を見詰めて微笑んだ。
「そろそろ君の家を出ようと思うんだ」
快斗は目を見開くと動きを止めた。
ややあってカップをソーサーに音を立てて置くと、勢い込んで問うてくる。
「どうしてですか?なんで、いきなり」
私は、いきなりじゃないよ、と苦笑する。
「前々から思っていたさ、早く自立しなきゃ、とね。それにようやく生活費、迷惑料、謝礼等々を渡せるくらいにお金が貯まったから」
快斗は呆然としたように口を開いたまま私を見詰めると、やがてぽつりと呟いた。
「……どうしても」
「−−うん?」
「どうしても出て行かなきゃ、駄目なんですか?」
どこか寂しそうな色をした眼差しを向けられれば、胸が痛んだ。
私は、ごめんね、と苦く微笑う。
「……遠いところに行くんだ。だからこのままここには、いられないんだよ」
快斗は、え、と目を開く。
「遠いところって、どこですか?たとえ家を出ていったとしても、また会えますよね?」
私は顎に手を添えてわざとらしく唸ると、困ったように笑う。
「世話になっておきながら、こんなことを言うのは大変心苦しいのだけれど……ごめんね、秘密なんだ」
言えば快斗はぽかんとした後、拗ねたような悲しそうな目を向けてきた。
私は苦笑を零すと、腕を伸ばして快斗の頭を撫でて言う。
「そんな捨てられた子犬のような顔をしないで。そもそも飼われていたのは私の方なんだから」
そうして私は首許のネックレスに手を触れた。
発信機だなんておよそ物騒なものが内蔵されたそれは、しかし不思議と心を落ち着かせる。
このネックレスは快斗に対する忠誠の証−−この世界で誰も知らず、誰にも知られず、何も持たない異質な私に、それでも居場所をくれたもの。
−−欲しいんだろ。その安寧の地とやらが。
だがもう、この綺麗な綺麗な首の輪っかともお別れだ。
小さく笑えば、快斗が私の腕を掴んだ。
「一つだけ訊いてもいいですか」
「一つと言わず、何個でもどうぞ。答えられるかは分からないけれど」
それじゃあ−−と快斗は真っすぐな眼差しを向けて問うた。
「名前さんはその遠いどこかで、ちゃんと幸せに暮らせるんですよね?」
私は思わず息を呑むと、言葉を詰まらせた。
そんな私を見て快斗がぴくりと眉根を寄せる。
「名前さん……?」
「いや……可笑しなことを訊くなと思ってね」
「可笑しくなんかないですよ。大切なことです」
私は、そう、とだけ呟くと沈黙した。
見定めるような快斗の目を見つめ返して、私は微笑んだ。
「大丈夫だよ。きっと幸せに暮らせるさ」
言えば快斗は目を見開いた。
そしてぽつりと、嘘だ、と言う。
私は怪訝そうに眉を顰めた。
「快斗……?」
「いまの言葉、嘘ですよね」
「突然、何を言って−−」
「いったい何があったんですか?」
「君の方こそ、どうしたというんだ。いまの言葉が真実でないと、どうして思う?」
「自分でも、よく分かりません。強いて言うのなら直感です」
ただ−−と快斗は強く言った。
「この直感は、当たってると思います」
唐突に割って入ってきたのは着信を知らせる携帯の音だった。
ポケットから携帯を取り出した快斗は画面を見ると眉根を寄せて、そうして私に向き直る。
「すいません、出なきゃ」
言うと快斗は立ち上がり、ドアへ向かって歩いていく。
居間を出ようとしたそのとき、快斗は振り返ると言った。
「とにかく、名前さんがここを出ても幸せになれないんだったら、何が何でも出て行かせなんかしないですからね」
そう言葉を残すと快斗は部屋を出て行った。
玄関の扉が開閉する音が聞こえて、私は息を吐くとソファに倒れ込んだ。
−−結局、失敗してしまったな。
快斗の家を前から出ようと思っていたことは確かだ。
それを伝えようと思ったのは、先日の事件の夜−−透から逃げた後の帰路でのことだった。
しかし帰宅すれば快斗にも不審を察知されて、私は日を改めることにした。
そうして今日、伝えてみたはいいものの、直感とやらで嘘を見破られてしまった。
この世界の人たちが鋭いのか、はたまた私の嘘が下手くそなのか−−そう思い笑った私は立ち上がると食器を下げる。
自室に下がると鞄の中から、用意していた茶封筒を取り出した。
厚みのあるそれを開けば現金が入っている。
私は快斗に宛てた手紙を綴り、それを茶封筒の中に入れると、引き出しの中に仕舞っておいた。
160321