「ねえ、ジン」と笑いながら言ったのは、キャンティと呼ばれていた女だ。
キャンティは挑発するような目つきで私を見やる。
私は彼女を見返し、そして左目周りに彫られた蝶のタトゥーへと視線を移した。
「自然発火する化け物と、麻酔銃避ける化け物なんて連れてきて、いったい何するつもり?サーカスでも開くのかい?」
言うと甲高い声を上げて笑ったキャンティの肩にはライフル銃が仕舞われたケースが掛けられている。
先程、彼−−キャンティ曰く自然発火する化け物−−と私を狙った狙撃手の一人だ。
二人いると睨んでいた狙撃手の内あと一人は、コルンと呼ばれていた、キャンティとは対照的に口数の少ない男。
目隠しをされ車に乗せられた先にあった施設−−どうやら黒づくめの組織が持つアジトの一つのようだ−−に着くと、仕事は終わったとばかりに、すぐにどこかへ去っていった。
しかしどうやらキャンティは、未だ私を標的から外していないらしい。
「アタイの弾を避けるなんて、あんたすっごいムカつくけど、練習台には丁度良いじゃん!最近バーチャルばっかで退屈してたんだよね」
「−−キャンティ、詮索はなしだ」
低く言ったのはジンだ。
帽子の下に、冷たい目が据えられている。
「これはあの方直々の御命令だからな」
キャンティは不満そうに、けれど確かに了承の意を示すと、詰まらないといった様子を隠すことなく肩を竦めると去っていった。
ジンは「来い」とだけ言うと踵を返して歩いていく。
私は大人しくその言葉に従い、ジンの後を追った。
目隠しをされていたから、この施設がいったいどこに建っているのかは分からない。
しかしそう時間も経っていないことからして、あのキャンプ場から遠くない場所にあるのだろう。
施設内ですれ違う人たちは様々な反応を見せた。
ある者は興味深そうにじろじろと視線を向けてきて、またある者は、こちらの存在を認識していないかのように無反応だった。
だがそんな組織の者たちも、ジンの後を追い施設内を進むにつれいなくなっていく。
まるで人気のない廊下を抜けた先にあった部屋の前でジンは立ち止まった。
壁に取り付けられたパネルを何やら操作したかと思えば、セキュリティロックが解除されたらしく扉が開く。
そこは言うなれば病室であり、或いは研究室だった。
室内は二部屋に区切られており、ガラス一枚に隔たれた向こう側では、白衣を着た者たちがパソコンやタブレットを見ながら何やら議論している。
その中心でベッドに寝かせられているのは、先程の彼だ。
恐らくは−−いや、きっと私と同じ異界の者。
先程の麻酔のためか、はたまたまるで違う理由からかは分からないが、その目は閉じたままだ。
「現れる化け物たちは、大抵いつもこうだ」
すると言ったジンを、私は見上げる。
「……不安定、っていうこと?確かに、前にウォッカがそんなことを言っていたね」
世界を超えるのだから、肉体や精神が不安定になるのも当然のことじゃないかと思うけれど。
「ああ ーーお前は化け物の中でも、特に能力が高いんだろうな」
その言葉に私は、どうも、とだけ返すと、視線をジンから彼へと戻した。
冷たいガラスに触れて、問う。
「これから彼を、どうするつもり?」
「……気になるか」
ジンの視線がこちらに向いたのが分かった。
「似た境遇同士、仲間意識でも芽生えたか」
眠る彼の姿に、ガラスに映る自分の姿が重なって見える。
ーー仲間意識、と私は心中でその言葉を転がしてみた。
彼の行く末が気になるか、と問われれば答えはイエスだ。
だがその理由は仲間意識から来るものではない、と思う。
だからと言って、では何故なのかと訊かれれば、上手く答えることはできないが。
彼は私と同じく、この世界の人間ではない。
しかし元いた世界もまた別なのだ。
彼は私にとって赤の他人で、たとえ世界旅行者という点で似たところを持っていたとしても、惹かれるものが何かあるというわけでもない。
ただーーと私は横目でジンを見やる。
黒づくめの組織が、私たちのような存在を重宝するのは当然、何か利益が得られるからだ。
しかしいま現在、彼の使用する言語はこの世界の人たちに通じていない。
その状態が今後も変わらないのであれば、異世界について記されたものを例え彼が理解できたとしても、それを伝える術がない。
そしてもしも彼の不安定さが今後も続くようであれば、組織は迷わず彼を排除するだろう。
利益を得られず、ましてや損害を被るようならば、問答無用で切り捨てるーーここはそういう組織なのだと思う。
同時に私はこうも思うのだ−−そんな目には遭わせたくない、と。
目を閉じれば浮かぶのは、苦しみに呻く彼の姿。
ここはどこだ−−と彼は言っていた。
詳しいことはまだ分からない、けれど彼がこの世界へとやって来たのはもしかして自分と同じ−−不可抗力なのではないだろうか。
だとすれば降りかかる理不尽を払いたい、と思う。
(これは仲間意識、なのかな……)
再度考えてみるも、仲間意識、という言葉はやはりそぐわないように思えた。
そのときジンの気配が近づくのを感じて、私は不審に思って目を開いた。
するとジンは私の首許に顔を寄せていて、ぎょっとすると共に後ずさろうとすれば、しかし腰に回された手がそれを許さない。
「ジン、何−−」
言いかけて私は息を呑んだ。
ジンに首筋を噛まれたのだ。
それも甘噛みなんて可愛いものじゃない。
……いや、甘噛みなんてされていたら、それはそれで気味が悪いが。
私はジンの体を押し返そうと肩を掴み、しかし思い悩んでしまう。
ジンの体を押せば、それと一緒に首の皮を食いちぎられそうだと思ったのだ。
それほどまでにジンの力は強い。
痛みと困惑に耐えていれば、ジンはやがて体を離した。
笑みを浮かべているその口許が僅かに赤く濡れているのを認めて、私は恐る恐る自身の首許に触れる。
指に付いた血と、ジンとを見比べる私の困惑しきった様子が可笑しかったのかは分からないが、ジンは笑った。
「いや……いきなり何をするのかな、君は」
「ふわふわと、いまにも自由気ままに飛び立ちそうな顔をしていたからな。お前の立場が何であるか、思い出させてやったのさ」
その言葉に、私は首から下げたネックレスを握りしめる。
「私は君とも組織とも、主従の誓いを交わした覚えはないのだけれどね」
それともーーと私は首を傾げて微笑む。
「てっきりこれは私に付けた首輪を意味しているのかと思ったのだけれど、ひょっとして、飼い主に噛みつく躾のなっていない犬を表した行為だったのかな」
言えばジンは短く笑った。
「相変わらず、よく口の回る女だ」
ジンはそう言うと、踵を返して扉の方へと歩き始めた。
来たとき同様、大人しく後を追おうとして、しかし何となく後ろ髪を引かれるような思いで私はガラスの向こうを振り返る。
「今日は帰れ」
歩みを止めぬままにジンが言った。
「奴を殺されたくなければ、お前がその分働くんだな」
私はため息を吐くと、ジンの後を追った。
部屋を出て、来た道を戻りながらジンが携帯を手に取る。
「待っていろ、いま車を−−」
「その必要はありませんよ」
すると曲がり角に差し掛かったところで突如した声に、ジンは珍しく驚いているようだった。
しかし驚いたのは私も同じ−−いや、私の方が上だろう。
別に張り合っているわけではないが。
幸い私はジンの後ろを歩いていたから 驚いた顔を見られることはなかったのだけれど。
「彼女のことは、僕が責任を持って送りますよ」
「バーボン、お前……」
バーボンと呼ばれた彼−−安室透は私を見詰めて笑みを浮かべた。
「はじめまして。僕はバーボン−−」
続けようとした透の言葉を、ジンが遮る。
ジンは透の頭に拳銃を突きつけながら、鋭い目で彼を見据えて問う。
「バーボン、お前、どこまで調べた」
「調べた?何のことです?」
「惚けるな。こいつのことだ」
ああーーと透は私に目を向けると、
「彼女のことなら、何も調べていませんよ。−−まだ、ね」
尚も向けられたままの銃口に、透は笑うと肩を竦める。
「僕も昨日、ここで仕事をしていたでしょう。そのまま今日も近くにいたんですが、君が何やら見慣れない女を連れて来たらしいという噂を小耳に挟んだもので、気になって来てみたんですよ。まああわよくば彼女を送る道中、色々と聞ければいいなと思っていることは確かですが」
ジンは鼻で笑うと、ようやく拳銃を下ろした。
「いくらお前でも、こいつのことを真に探るのは無理だろうよ」
「そう言われると、ますます燃えますねえ」
「首突っ込むのも程々にしておかねえと、喰われるぜ。まあ別に、俺はそれで構いやしねえがな」
「ほう……?彼女は随分と、組織にとって貴重な存在のようだ」
「喰うのは何も、俺たち組織だけじゃねえよ。一番鋭い牙を持っているのは、こいつ自身だからな」
私を見ながら笑ったジンに、ため息を吐きつつ「……心外だね」と呟く。
「言われるまでもなく、何も話したりしないよ。彼にも……誰にもね」
ジンは満足げに笑うと、私をその場に残して去っていった。
透が私を見てにこりと笑う。
「それでは行きましょうか。とは言っても、ここから出て少しするまでの間、目隠しを付けていただかないといけないのですが」
「構わないよ。来る道中もそうだったからね」
私は透を見詰めて微笑んだ。
「よろしく頼むよ、バーボン」
「……本当に驚いたよ。声を出さなかった自分を褒めたいね」
「それじゃあ僕が褒めてあげますよ。よくできました」
「ふふ……どうもありがとう」
「名前なら大丈夫だと思っていたから、僕もああして声を掛けたんですよ」
透の車の助手席に乗り少しの時間が経ったところで目隠しを外す許可を得られた私は、そのまま髪を掻き上げると大きく息を吐き出した。
振り返ると、僅かに感じていた小さな気配の正体がひょこりと顔を見せる。
私は苦笑するように笑った。
「やっぱりコナン君だったか」
ということは−−と、私はコナン君と透を見比べる。
「安心して、良いんだよね」
「うん、大丈夫だよ。安室さんは、悪い奴らの敵だから」
私は、そっか、と呟くと体の力を抜いた。
シートに背を預けながら、どうりで、と思う。
「警察を、避けていた理由は?」
あのとき透から感じたと思った警戒心や敵意に似た何かは、間違いではなかったのだろう。
組織の一員であり、けれど悪い奴らの敵となれば、考えられるのは潜入捜査しかない。
「勘違いしないでいただきたいのですが−−」
すると透が唐突にそう切り出して、私は何だろうと目を開く。
しかし予想に反して、透は片目を閉じて笑った。
「僕が昨夜、あなたの力になりたいと言ったのは、何もあなたに優しくすれば、組織の情報が得られると思っていたからではありませんよ」
思いも寄らなかった言葉に瞬けば、後ろからコナン君が「そうだよ」と顔を覗かせた。
「名前さんが組織と関わりがあるっていうことは誰にも言ってない、って前に言ったでしょ?安室さんも、さっきの川原での事件を見て初めて知ったんだよ。それで僕が事情を説明して、名前さんを迎えに来てもらったの」
「……そっか……うん、ありがとう」
頭の中で警鐘が鳴って、でも、と咄嗟に言う。
「私が組織と関わりがあると分かったことだし、これからは存分に使ってくれて構わないよ。私も君たちに、彼ら組織を倒して欲しいしね」
とは言っても−−と私は苦く笑う。
「私が協力できることなんて、そうないだろうけれど」
コナン君がどこか怒ったような表情で私を見詰める。
私はそんな彼の頭を微笑いながら撫でた。
「それにしても、あのときはよく言いつけを守ってくれたね。偉い偉い」
「……子供扱いしないでよ」
「ふふ、ごめんね。だけどそれが一番の心配事だったんだよ。キャンプ場にいたお客さんや、他の皆のことは、君が守ってくれると信じていたから」
「犯人は警察が捕らえ、山火事は消防が鎮火しましたので大丈夫ですよ。名前のことも、上手く誤魔化しておきましたし」
透の言葉に、私は改めて礼を言う。
「けれど迎えに来てくれたということは、彼らに連れて行かれるところを見たんだよね?差し出がましいのだけれど、一体いつから見ていたのか、聞いてもいいかな」
「名前さんと男の人が連れて行かれるところからだよ」
「……なるほど」
良かった、だとしたら彼の異質さを目にはしていないということだ。
麻酔銃を撃たれ気絶した瞬間、彼を取り巻く火は消えたから。
自然発火する人間を見て、異世界者だという結論に辿り着くことなんてあり得ないが、異世界に関わることには極力触れさせない方が良い。
「ねえ名前さん、僕からも訊いていい?」
「何かな」
「あのとき名前さんは、奴らがいることに気づいていたの?」
「いいや」
「それじゃあどうして、私以外が行く方が危険だ、なんて言ったの?確かにさっきの火事はすごかったけど、火から守るためだけに僕を止めたんじゃないよね?」
私は顎に手を添えわざとらしく唸ると、すぐに笑って「ごめんね」と言った。
「秘密だよ」
コナン君は不満そうに唇を尖らせると、次いで、
「それじゃあ、あの男の人の声に反応して、名前さん何か言ってたよね?あのとき、何て言ってたの?」
「うーん……それも秘密かな」
「……じゃあ、あの人が連れて行かれた理由は?名前さん、分かる?」
「分かるけれど、秘密だね」
隣で透が苦笑を零した。
コナン君はじとりとした目を私に向けて、拗ねたように言う。
「協力してくれるって言ったじゃん」
「おや、けれど私はこうも言ったよ?私に協力できることなんて、そうないだろうけれど――ってね」
私は再び、ごめんね、と微笑んだが譲るつもりは一切ない。
コナン君たちに協力したい気持ちはもちろんある。
だが異世界に関することは少しも漏らすわけにはいかないのだ。
そのとき鞄の中で携帯が震えた。
見ればメールの受信を示しているのは黒づくめの組織から与えられた携帯で、取り出せばコナン君が血相を変えて助手席のシートに飛びつく。
少し迷いながらもメールを開けば、送られてきたのは添付された写真のみだった。
映っているのは小さなカードで、どうやら先程の彼の身分証明書らしい、右上に顔写真が貼られている。
メールには本文も何もないが恐らく、解読しろ、ということだろう。
私はほっと安堵の息を吐いた。
これなら美術館や記念館で展示物を見ているときと同じことで、隠す必要はない。
「この写真の人、さっきの男の人だね。身分証明書みたいだけど……こんな文字、見たことない。暗号?」
「さあ、どうなんだろうね」
「名前さんは、これを読めるんだね」
「……そうだね、それは否定しないよ」
「何て書いてあるの?」
「それは秘密」
ぶすっとした顔をするコナン君に小さく笑えば、赤信号で車を止めた透が、どれどれ、と覗いてくる。
難しい顔をして写真を見詰めた後、運転を再開した透は「可笑しいですねえ」と言う。
私は眉を顰めた。
「可笑しい……?」
「ええ。先日名前が美術館から借りた本には、漢字で禁書と書かれていた。いくら中身が未だ解読されていないものだとしても、題名が漢字で書かれているのだから、中身の言語も源流は近しいと考えるのが妥当。だがその写真にある文字は漢字とは似ても似つかなく、あえて言うのならアラビア語が一番近い」
「だとしたら名前さんは世界中の未解読言語を解読できるってこと?すごいね、名前さん!」
「……いや……」
「でも可笑しいなあ。そんな優秀な言語学者だったら、普通はすごい有名人になってるはずだよね?けど名前さんはそうじゃないし……ねえ、名前さんって本当に何者――」
「なるほど?どうやらまた抱っこされたいらしいね、コナン君」
両手を広げて振り返ればコナン君は、げ、と言って素早く離れる。
「おや、どうしたんだい?ほら、おいで」
「あ、あはは。僕子供じゃないから、遠慮しておく」
まったく都合の良い――と私は息を吐きながら笑った。
そうしてコナン君が離れたのを良いことに、返信しようと写真に目を通していく。
記されているのは氏名、年齢、住所、それに――。
(……被験者番号……?)
いったい何の実験の対象者だったのだろう、と眉を顰め、すぐに首を振ると考えるのを止めた。
どうせ考えたところで別の世界のことなのだ、分かるはずもないし、関係もない。
結局、所々が微妙に間違っている情報を教えることにした。
彼の素性が組織の利益に繋がるとは考えにくいので、正しい情報を教えていいかとも思ったが、本人の預かり知らぬところでプライバシーを侵害するのは良くないし、そもそも私は彼ら組織のような連中が嫌いなのだ。
だがてんで間違った情報を教えておいて、もしもこの先、彼がこの世界に順応し言葉を交わすことができるようになれば、嘘を吐いていたことが発覚してしまい不味いことになる。
だから至る所に小さな嘘を混ぜた文章を作成し、私は送信ボタンを押した。
添付画像を再び開き、写真の中の彼を見詰める。
暗く濁った色をした瞳を見れば、自然と視線が、被験者番号、という文字へ向かう。
やがて証拠隠滅のためのプログラムが自動的に開始し、写真はメールと共に消去された。
携帯の電源を落とし、息を吐くと目を閉じる。
……早く、見つけなきゃ。
元の世界に戻る方法を。
でないと−−。
脳裏に蘇るのは、自分が世界を超えたときのこと。
私は、世界を超えてもすぐに順応することができた。
言葉が分かった。
そして私を拾ってくれたのは紳士な−−優しい、怪盗だった。
だけど彼は、言葉も分からず、ましてや黒づくめの組織に拾われた。
世界を超えるということだけで十分過ぎるほどに言い知れない不安や孤独感に襲われるのに、辿り着いた世界にも拒絶なんてされてしまえば−−。
膝の上で握りしめていた手に温かいものが触れて、私ははっと目を開いた。
震える自分の手を包み込む色黒の大きな手−−振り仰げば、真摯な眼差しを向ける透と目が合う。
頭の中で警鐘が鳴って、私は困ったように微笑った。
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