――彼が、死んだらしい。
つい先日、一昨日。
会った彼が、話した彼が、
一人だけ生き残っていた、彼が。
死んだらしい。
暗闇。
凄く遠い間隔で立てられているオレンジ色の街頭だけが、錆び付いたコンテナの群を薄く照らす。
――バチ…!
虫が光に寄せられて、けれど弾かれたのか、そのまま消えてしまったのか。
嫌な音が時節聞こえる。
黒く濁った湾。
風が冷たく吹く。
無造作に靡く髪を放っておきながら、私はただ、立っていた。
水の流れを眺めることも、座ることもしないで。
ただ、そこに存在していた。
――彼が、死んだ。
殺されていた、らしい。
何処かの路地裏で、胸に刀を突き刺されたまま。
殺されていたらしい。
――私のせいだと、思う。
その考えが頭に浮かんで、胸の辺りに下がっていって、心臓の奥深くにどっぷりと沈んでいく。
――……何で……?
何で、何で、何でだ…?
何で殺される…?!
何で今になって…!
「っ……」
胸の上の辺りがぐるぐると渦巻いて気持ち悪い。
せり上がってくる何か。
ぐっ、歯を食い縛る。
冷たい風を吸い込む。
――もう、嫌だ。
酷く泣きたい気分になる。
歯を食い縛って、息を吸って、唇を噛んで、息を吐いて、目をきつく閉じる。
もう、嫌だ…。
何が…?
分からない。
黒い闇が、黒い闇から、離れられたと思ったのに…!
息を吐く。
震えている。
この問題は「黒い闇」のことじゃあないけれど、攘夷時代のあの事件のことが、まだ今も続いていた…。
息を吸う。
あまり吸えない。
悲しいことは、キライ。
辛いことは、キライ。
楽しく生きたい。
どうせ生きるなら。
だって、それは簡単なこと。
自分で変えられるんだもの。
…でも…この問題は、何時も何時も、何時も何時も、どうしようも出来ない。
簡単に心を暗闇で包んで握り潰し、黒い汁を滴らせる。
どうせ生きるなら、楽しく生きたい。
でも、それは出来ない。
「黒い闇」から逃げられない限り、それは叶わない。
そしてそれから逃げることも、出来ない。
「――…松陽先生…」
――何で、生きなきゃいけないんですか…?
私にはまだ、分からない。
分からないです、先生…―。
それでも、私は臆病で、こう思う日があっても、こうして今まで生きてきた。
こんなこと、贅沢な考えかもしれない。
病気や事故や、生きたいと思ってる人にしたら…。
けど、私は私なんだ。
どう頑張っても他人にはなれない、私は私以外の何者にもなれない。
なら、こうやって思ってしまうのも、仕方がないことじゃあないかな…。
死にたいと、死んでしまおうかと。
そう思うことは、悪いことなのかな…私は、私なのに。
すると右の方から、ぺたっ、ぺたり、何だか覚束ないような、リズムがおかしい足音が聞こえて、そっちを向いた。
「ひっ、へひゃっ、ひひっ」
どう見ても様子が可笑しなその男は、ここ数日で何度も見た顔だった。
――木内理。
脱獄した死刑囚の男。
――…脱獄した目的はクスリをやる為、か…。
まあ生きる道は人それぞれ、勝手だけれどね。
「…ん?んんん〜?」
「…………」
「お姉さんこぉんな夜更けに一人で何やってるの〜?」
「…………」
「あれ、シカト?ちょおっとムカついちゃったから〜」
死んじゃえっ
そう言いながら振り下ろされた刀を避ける。
男は刀を振り下ろした体制のまま少し止まって、それからぎろりと私を睨んだ。
「ムカつくぁあぅアあ!!黙って死んどけよぉうあア!」
刀を振り回しながら襲ってくる木内を冷静に見ながら、そして走り出した。
どちらにしても、此処だとマズイ。
もう少し隠れた所に…。
壊れたように一心不乱に追いかけてくる木内を少し振り返って見る。
そして、ふっ、と。
自嘲した笑みをこぼした。
――そう、どちらにしても。
…ふふ、どちらにしても、なんて言っている時点で、私の心は決まっているのかもしれないな。
「呆気ない最期だ」
少しずつ、少しずつ速度を遅めて、木内との距離を縮ませる。
追いかけていないで、そのまま刀を振れば簡単に私の背中を斬り裂くことが出来る距離に居る木内。
「――っ…?!」
――コンテナの群の、一つの道を抜ける瞬間。
左側から「明るい」殺気と風を切る音が聞こえて、私は思わずその場を飛び退いた。
ぐしゃっ
――振り返った後ろに、赤黒い血が舞った。
それは木内のもので、そして木内はもう――死んでいる。
胴体を、貫かれている。
たった一本の、腕で。
「ふふ、」
笑顔で腕を引き抜く男は、そのまま私を向いた。
私は何故か、その男の髪の色が、神楽とそっくりだな、なんて、ふと思った。
110416.