夜も更けてきた時分、温かいお茶でも飲もうかとやかんに水を入れたりしていた私は、鳴らされた家のチャイムに顔を上げた。
用意していた手を止めると、首を傾げながら玄関へ向かう。
一人、まず先に思い浮かぶ人物はいるけれど、彼の人は最近は特に忙しくしていたはずだ。
そう思いながら、扉の覗き穴から外を確認した私は、すぐにぎょっとした。
慌てて鍵を開くと、扉を開ける。
「サっ──どっ──大っ──とっ」
これでは何が何やらといったところだろうが私は、サクラ、どうしたの、大丈夫、とにかく上がって、と言いたかったのだ。
けれど焦る感情が先走ってしまって、とうてい口が追いつかない。
それでもわたわたと慌てながら、サクラの手を取り家へ招くと、そのまま居間へ向かい、ソファに並んで座ると、その背を撫でた。
「サ、サクラ」
「うっ・・・・・・うっ、う・・・・・・名前〜」
淡い緑色の瞳から零れる大粒の涙に、私は心底困ってしまって、もう一方の手で、膝の上に置かれた震える手を握る。
サクラはしゃくりあげながら、涙が伝う頬を拭った。
「ごめんね。こんな、時間に」
「そんなこと気にしないで」
私はかぶりを振ると、ひとまず落ち着いてもらおうと、それから少しの間、ずっとサクラのことを慰めていた。
──ややあって、サクラはありがとうと礼を言うと、ぽつりぽつりと事情を話し始めてくれた。
話を聞き終えた私は、神妙な顔で俯いた。
「・・・・・・そっか。話してくれてありがとう。それは──ぐっ。げほっ、ごほっ・・・・・・!」
「名前、だ、大丈夫?」
「ごめん、大丈夫。──ありがとう」
「お礼なんて・・・・・・」
そうサクラは言うが、礼を言わずして何というのだ。
だって──。
(それって明らかに、サスケがやきもち・・・・・・!)
「ふー・・・・・・」
荒ぶる心中を表に出してしまわないよう、私は一つ息を吐いた。
そして立ち上がると、途中になっていたお茶の準備を再開する。
「サクラ、いったん、温かいものでも飲まない? 体も冷えてるし、落ち着くと思うから」
「うん・・・・・・それじゃあ、お言葉に甘えるわ」
私は、よかった、と笑うと、サクラに背を向けた。
そして、準備しながら盛大に顔をにやけさせる。
だって、もう、堪えられなかったのだ。
堪えられる気がこれっぽっちもしなかった。
咳が許されるのならばしたかったが、これ以上してしまえばサクラに心配を掛けてしまう。
だがそのようなことは決してしてはならないのだ。
何故ならいまはサクラの話に──サクラとサスケの関係について全身全霊で臨むべきなのだから・・・・・・!
お湯が沸く音に紛れて何度か深呼吸をした私は、そうして出来上がったお茶を入れたマグカップを二つ手にしてソファへ戻った。
赤い目をしたまま、それでも顔を綻ばせながら礼を言ったサクラは、一口飲むと微かに目を開く。
「このお茶、まさかいのの家の?」
「そうそう。これはリラックス効果があるっていうハーブティー。他にも、デトックス効果がどうのとか、とにかくいのは商売上手だよね。いのは医療忍術の心得もあるから、その効能はお墨付きだし」
「言えてる。強かなのよ、いのは」
言ったサクラに、私は笑った。
サクラも軽く笑ったけれど、すぐにその視線は寂しそうに落とされてしまう。
私は再び荒ぶりそうになる胸中を宥めるため、効能を期待しお茶を飲んだ。
──サクラの話はこうだ。
実はいま、サスケが里に帰郷している。
その旅はまだ終わったわけではなく、だから帰郷も一時的なものではあるのだけれど。
親しい人たちを集められるだけ集めて開かれた飲み会も記憶に新しいところだ。
その会の帰り道、どちらから声を掛けたのかまでは分からなかったけれど、並んで歩いていったサスケとサクラの背中を見たのを最後に私の記憶が途切れたことも、また。
まあとにかく、そう遠くない未来、二人がその関係を新たなものにするだろうことは想像に難くなかった。
そしてその予感は、サスケと喧嘩をしてしまった、と泣くサクラの話を聞いたいまとなっても、変わることはない。
──話が少し逸れてしまった。
それで、サクラは今日の夜、サスケと二人、過ごしていたらしい。
特別なことは何もしていない、ただ街中を並んで歩いていただけらしいのだけれど、それがサクラにとってどれほど幸せなことかは考えるまでもない。
すると二人はある男性に会ったらしい。
その男性というのは以前サクラが診ていた患者だったらしく、だから二人は少しの間再会と、改めての快復を喜んだらしいのだが、彼と別れて直後、サスケが言ったそうなのだ。
あまり誰にでもへらへらするな──と。
(いや・・・・・・こんなのもう間違いなく嫉妬だよ)
お茶が効いてきたのか、それとも興奮を通り越して最早尊くなってきているからか、ともかく悟りを開いたような気分で私は思う。
まあそれで、サクラも、どうして突然そうしたことを言われたのか分からず、棘のある言い方にかちんと来てしまい、売り言葉に買い言葉で、気づけば喧嘩のようになってしまっていたとのこと。
せっかく久しぶりにサスケと、それも二人きりでいられるのに、どうしてこうなってしまったんだろう──と、思い始めるとサクラはだんだん悲しくなり、泣きそうにもなってきてしまったらしい。
けれどサスケの前で泣きたくはないので、別れの言葉もそこそこに走り去ってきて、気づけば私のところに来ていたのだとか。
「またサスケ君に、口うるさいって、思われちゃったかも」
そう言ってクッションを抱え込むサクラのことを、微笑ましい気持ちで見やる。
(いつもは私が言われる方だけど、私からしたら、サクラも結構自分のことに鈍いと思うんだけどな)
サクラは昔から頭が良く優等生で、聡い女の子なのだけれど、なにぶんサスケ一筋で、あしらわれるなんて言葉じゃ足りないほど遠ざけられてきながらも必死で想い続けてきたからか、よく分かっていないというかサクラの理解が追いついてないところがある。
サクラは自分の容姿を客観的に見れていないわけではないけれど、サスケ以外眼中にないからか、他の男性から好意を向けられていてもそれに気づいてないことがある。
そしてサクラは、そうした人たちにサスケが嫉妬心を抱くなどとは露にも思っていないのだ。
まあ、いままでのことを考えたら、無理もないのだけれど。
(──でも)
サクラに気づかれないよう、こっそりと口元に笑みを浮かべる。
そのことは、私から伝えていいものじゃない。
今後寄り添って歩いていく中で、サスケからぶつけられればいいものだ。
私はカップをテーブルに置くと、そしてサクラに向き直った。
「ねえサクラ、サスケに、言ってみたらいいよ」
「言う・・・・・・?」
「うん。サスケがどうして怒ってるのか分からない、って」
言えばサクラは不安そうに、でも、と視線を落とした。
「面倒だ、って思われたくない。こんなことも分からないのか、って」
「うーん。でもサスケはもしかしたら、サクラが分かってないことを、分かってないのかもしれないし・・・・・・ほら、サクラがすごく頭が良いことは、周知の事実だから」
不思議そうにするサクラに私は、とにかく、と明るく笑ってみせた。
元気づけるように再び手に手を重ねる。
「話し合った方がいいと、私は思うな。サスケがどうして怒ってるのか分からなくて、だから仲直りの方法も分からず困ってること。サスケに怒られて、重い空気になっちゃうと悲しいこと、それから──仲直りして、幸せに過ごしたいこと」
微かに目を開くサクラに、ね、と笑いかける。
サクラは迷うように視線を彷徨わせてから、おずおずと私を窺い見た。
「うざい、って・・・・・・思われないかしら」
「思われないよ」
「・・・・・・」
「サクラ、時間は流れているんだよ。──サスケとサクラの関係は、昔とは少し、違うでしょ?」
言えばサクラは少し恥ずかしそうに頬を染め、そう見える?とおずおずと聞いてきた。
だから私は首肯したのだが、自分で言っておきながらもその事実と、そしてサクラの可愛さにまた心拍数が危ないことになってきた。
けれど、これはまずいぞ、と思っていたところ、照れ隠しなのかサクラが雰囲気を明るいものにし、わざとらしく肩を竦める。
「でもサスケ君って、少し短気でしょ? せっかち、っていうか。そういう性格は変わってないと思うのよね」
「ああ──確かに。ナルトのことを色々言うけど、意外とサスケも打てば響くタイプだし、本当あの二人っていいコンビだよね」
「そうそう」
言って、私とサクラは笑い合った。
それから、笑顔のサクラを見ると、にっこり笑う。
「やっぱりサクラは笑っている方が素敵だよ」
「・・・・・・名前って本当、そういうとこあるわよね」
「え?」
「恥ずかしいことを平気で言えちゃうところ」
再びクッションを抱き抱えながらそっぽを向いてしまったサクラに、恥ずかしいかな、と私は頬を掻く。
サクラは軽く噴き出すと、それから親愛の込もった眼差しを向けてきた。
「ありがとう、名前」
「ううん。私は何にもしてないよ」
「そんなに甘やかしてもらうと、またいつか名前に泣きつく日が来ちゃいそうだわ」
「あはは。私はいつでもいいけど・・・・・・でも、大丈夫だよ、サクラ」
「大丈夫?」
私は、うん、と頷いた。
「これから先サスケが、仮にサクラに対して、何か思うことがあるときがあったとしたって──サスケはもう、サクラから離れる選択をすることはないと思うよ」
言えばサクラは、目を開いた。
それからくしゃりと微笑うと、
「時空眼で見たの?」
いつの日かと同じ問いに、私は目を丸くさせる。
それから笑って、あの日と同じ言葉を返した。
「時空眼で見なくたって分かるよ、サクラ」
言ってから、私たちは同じタイミングでまた笑う。
「見てた、なんて言ったら、いくら名前といえど一発殴ってたところよ」
「えっ」
そんな微笑ましい雰囲気の中、突如として突っ込まれた恐ろしい言葉に私は硬直したのだが、サクラは上機嫌な様子で腕に抱きついてきた。
「ねえ、名前とカカシ先生は、喧嘩とかしないの?」
「え? えっと、あんまりしないと思う」
「でもその言い方だと、することはあるんだ」
「うーん。まあ喧嘩っていうか、ただ単に私が叱られる、っていう感じなんだけど。分かってない、って言われる」
「ああ、そういう。まあ確かに名前もカカシ先生も、喧嘩っ早いタイプじゃないし、カカシ先生も名前にはとびきり甘いもんね」
「え。そ、そうかな」
「そうよ。見てるこっちが胸焼けするくらい」
「胸焼け・・・・・・」
その言葉を舌の上で転がしてみる。
(・・・・・・確かに、溶けちゃいそうなくらい、甘やかしてくれるけど)
名前──と、名前を呼んでくれる暖かな存在を思い出せば自然と頬が緩んでしまいそうで、慌てて軽く首を振った。
そんな私の隣でサクラが、でも、と顎に指を当てて言う。
「名前って、芯の強いところっていうか、譲らないところがあるでしょ? そのポイントが争点になったときの喧嘩はすごそうね」
「芯──そうかな」
「ええ。でもそういうときはたいてい、私たちもカカシ先生と同じ意見のときが多いだろうから、早めに白旗を上げるのが吉よ」
まだ起こってすらいない戦いの降伏をいまから促されて、目を丸くさせたときだった──本日二度目のチャイムが鳴った。
サクラは顔を上げると、弾んだような、それでいてどこか申し訳なさそうな声で言う。
「もしかしてカカシ先生かしら。私、もう行った方がいいわよね」
「ああ、いや、先生はここ最近はすごく忙しいはずだから、違うと思う」
「でも、なら誰が──」
「多分だけど、サスケじゃないかな」
「え──えっ!? サ、サスケ君!?」
目に見えてあたふたとするサクラに私は、ふふと笑う。
「サクラを迎えに来たんだよ」
「ほ、本当に?」
「うん、きっと。いったん私が出てくるから、サクラは準備して待っていてね」
そう言い置いて、向かった先、玄関を開ければ、やはりそこにはばつが悪そうに目を逸らしたサスケが立っていた。
「こんばんは、サスケ」
「・・・・・・ああ」
「・・・・・・」
「・・・・・・サクラ、来てるだろ」
「──げほっ・・・・・・!」
「──! おい、名前」
「ご、ごめん。気をつけてはいたんだけど、やっぱりすごくて」
気遣う様子を見せるサスケに、大丈夫だと手を振って、それから先ほどの問いに肯定で返した。
サスケはまた、同じように目を逸らしていたが、ややあって根負けしたように息を吐くと、口を開いた。
「・・・・・・連れていっても、いいか」
私は、うん、と顔を綻ばせた。
それから居間へ戻ると、立ったままそわそわとしていたサクラの手を取り、玄関へ向かう。
正直言ってもう色々な喜びを抑え止めておくことができなかったため、私はずっとにこにことしていた。
いまなら二人が仲直りすることを喜ばしく思っているように見えるだろうし、何よりその気持ちも確かに本物だったから。
「本当にありがとう、名前」
何度も礼を言うサクラに、私は首を横に振る。
並んで去っていく二人を見送った私は、最後サクラが振り返ったとき、私を見てどこか不安そうな顔をしたように見えた気がした。
まあ玄関を閉めてからの記憶がまたぷつりと途切れているため、確かじゃないのだけれど。
・・・・・・過度な供給も考えものである。
「カカシ先生、大丈夫? また随分くたびれてるわね」
「ちょっとサクラ、くたびれてるはないでしょ、くたびれてる、は」
「そういうのは、机から顔を上げてから言ってください」
火影室、机に突っ伏したまま会話していた六代目火影は、サクラの言葉にようやくのそりと顔を上げた。
サクラ自身が成長したいまとなっては、はたけカカシその人の凄さは十二分に分かっているし、心から尊敬もしている。
ただそれでも、平時は未だに気が抜けたように見える師の姿に、サクラは呆れたように微笑った。
「お疲れ様です。だいぶ忙しかったみたいね、カカシ先生」
「んー、まあね。元々予想できてたものだったから、まだよかったんだけど」
カカシはそう言って肩を竦めるが、ここ最近の火影邸は、現場とはまた違った意味で戦場だったと噂を耳にしていた。
それに不夜城だった、とも。
その話を裏付けるように、サクラがここに来るまでの間、邸の中ですれ違った人たちは皆魂が口から半分抜け出ているかのような有り様だったし、カカシもいつにもまして覇気がない。
ぼーっとした目は凄腕の忍にはまるで見えないし、目の下には薄ら隈もできている。
「・・・・・・ねえ、先生」
そんなカカシのことを見ていれば、サクラの脳裏にはある一人の仲間の姿が浮かんでいた。
ん、と気が抜けたように顔を上げるカカシに、サクラは一歩前に出る。
「今日はもう、落ち着いた? 家に帰れるわよね?」
「まあ、さすがにね。・・・・・・なに、どうしたの、サクラ。なんか圧が──」
「なら名前に、会いに行ける?」
「──名前?」
カカシの瞳に、微かに光が戻ったような気が、サクラにはした。
カカシはさらに体を起こす。
「名前に何かあったのか?」
「ああ、ううん。そうじゃないの。そこは大丈夫だから、安心して、先生」
サクラは慌てて手を振ると、ただ、と目を伏せた。
「この間、名前に会って──ていうか、私が名前の家に押しかけたんだけど──名前も、どこか疲れたように見えたの。線が細い、っていうか。実際、隈もできてたし」
「・・・・・・そう」
カカシは机の上で指を組むと、目を細めた。
サクラの脳裏では、笑顔の名前が手を振っている。
自分とサスケを見送りながら、本当に嬉しそうに笑っている名前は、しかしいつもよりもどこか線が細いように思えた。
情けないことにそれまで話していた最中は、自分のことばかりでそうと気づけなかったけれど、思い返してみれば目の下に隈もあったし。
「・・・・・・だから少し、なんだか不安で。もちろん名前も、任務で忙しくしてるっていうのは分かってるんだけど」
「・・・・・・ま、あの子も精力的に任務に取り組んでくれてるからね」
言ってから、カカシはにこりと微笑った。
「話してくれて、ありがとうな、サクラ。それに今日は元々、名前に会いに行く予定だったんだよ」
「そうだったんだ。よかった。でも、そうよね。仕事も片付いてきたんだったら、会いに行くわよね」
「ああ・・・・・・まあ、な」
まるで自分のことのように喜んでいるサクラに、カカシも微笑う。
それからちらりと部屋の壁、掛けられたカレンダーを見やると目を細めた。
(・・・・・・それに今日は、な)
ひやりとした風が、髪を靡かせる。
歩きながら、目を閉じて、息を吸い込んだ。
体の中に新鮮な空気が入ってきて、気持ちがいい。
──里が一望できる丘の上へ向かう。
意識して呼吸し、夜闇の中に静かに佇む里を眺めていれば、ざわめいていた胸中も、緊張するように少し速まっていた鼓動も落ち着いてきて、ほっと体の力を抜いた。
「──よかった」
ぽつりと呟く。
ある──と思ったのだ。
「──ちゃんと、ある」
私はここ数日、同じ夢を見ていた。
それは夢であり、実際に起きた過去──壊滅させられた、木ノ葉の里だ。
かつて私も属していた組織、暁によって、ほとんど無に帰せられたときの記憶。
掌に視線を落とすと、苦笑を零す。
毎度のごとく飛び起きた私は、とうてい再び寝る気にもなれず、眠ったというのに疲れた気分で、びっしょりと汗をかいてしまった服を着替えていた。
そして小棚の端に置いてある卓上のカレンダーにふと目をやって──ようやく、自分がそのときの記憶をここ最近頻繁に見ていた理由に気がついたのだった。
私はこうして里を眺めるのが好きだ。
里に暮らす者たちが、悲喜交々がありながらも、確かに生きていることを実感するのが。
里のため、仲間のため尽力する仲間たちのことが大好きだし、人々を導き里を治める影のことは、何よりもまず人として尊敬している。
(・・・・・・私は)
でもたまにふと、思うのだ。
私はここにいていいのか、と。
里に暮らし、同じように笑い、存在してよいものか、とそう思う。
名前──と、優しく私の名を呼んでくれる大好きな人のことを思い出す。
想うだけで幸せで、胸の辺りが温かくなる。
(でも・・・・・・私は──)
震える手を、強く握りしめたときだった──微かな音が聞こえたと同時に、背後から腕を取られた。
振り返って、目を開く。
「──サスケ?」
「・・・・・・」
「びっくりした。どうしたの、こんな時間に?」
「あのな・・・・・・同じ言葉をそのまま返す」
「え? ──あはは、確かに」
軽く笑って頭を掻く。
サスケは手を離すと、軽く息を吐き、そうしてじっと私を見た。
「なに?」
「・・・・・・本当だな」
「?」
「サクラに聞いたとおりだ。やつれてる。・・・・・・隈ができてる」
言ってサスケは、す、と私の目元に触れた。
そのまま瞳を見てくるので、意図に気づいて大人しく従う。
ややあって、サスケは離れると僅かに渋面を作った。
「時空眼の状態も、僅かではあるが不安定だ」
呆れたように息を吐くサスケに私は、そっか、と困ったように微笑う。
「チャクラの流れがなんだか不安定かなとは思ってたんだけど。まあ、そうだよね。核ともなるようなものだから、乱れの影響が出るよね」
「・・・・・・理由は分かってるのか」
向けられる眼差しと、声には、ほんの少しだけれど気遣う様子が見受けられて、私はふっと目元を緩めた。
小さく頷けば、サスケは無言で先を促してくる。
私は苦笑するように笑いながら、
「・・・・・・過去の今日のことを少し、思い出してて」
「今日・・・・・・?」
「うん・・・・・・かつて暁が、木ノ葉の里を襲撃した日」
そう言って、私は再び眼下の里へ視線を移す。
復興した街並みは、いまはただ夜の闇に静かに佇んでいて、穏やかだ。
それでも思い出そうとすれば、脳裏にはありありと更地になった木ノ葉の里が蘇る。
そんなはずないのに、瓦礫の埃っぽさや、つんとした鉄の匂いがした気がして、軽く首を振った。
「・・・・・・あの日、お前は」
するとサスケが、そう問うてきた。
私は眉を下げて微笑うと、口を開く。
「ほとんど何も、してないの」
「・・・・・・」
「暁の一人として、木ノ葉には来ていたよ。でもほとんど何も、していない。何も壊していないし、誰の命も奪わなかった」
「・・・・・・」
「何もしなかった。・・・・・・里がどれほど壊れていようと、人々がどれだけ泣き叫んでいようと──何も」
それに──と、私は視界に両手を翳す。
微かに震える指先を認めて、苦笑を漏らした。
「カカシ先生が一度・・・・・・亡くなったときも」
瓦礫の山と、舞う粉塵。
そこここから聞こえる苦痛にまみれた呻きや、誰かの名を必死に呼ぶ叫び声。
そして私はその中を歩いていって、その人を見つける。
瓦礫に埋もれたカカシ先生を。
──私は一度、カカシ先生の死を看取ってる。
・・・・・・なんて、そんな言い方はできないけれど。
だって命がなくなるその瞬間まで、私は何もしなかったのだから。
助けようとはせず、ただ黙って、そのときを見ていた。
(・・・・・・あのとき、命がなくなる瞬間が分かった)
体はまだ温かくて、単に目を閉じただけのようにも見えたけれど、それでも分かってしまったのだ。
逝ってしまった、と確かに感じた。
そして、そうなってからようやく私は、カカシ先生に触れたのだ。
「そういうときのことを思い出していたら、少し不安になっちゃって。だから眺めに来たんだ。無事な──平穏な里を」
苦笑するように笑って、私は言った。
サスケは、そうか、とだけ言ったかと思うと、それから少しの間黙り込んでいた。
けれどややあって、真っすぐに私を見ると、言った。
「名前、お前は──後悔、してるのか。そのときの自分の行動を」
意外なことを聞かれたようで、私は軽く目を開いた。
後悔──と呟けば、即座に感じる胸中の芯に、自分でも無意識のうちに首を横に振る。
「ううん」
言ってから、即答した自分に驚いた。
対してサスケは満足そうに、にやりと笑う。
「ちゃんと分かってるじゃねえか」
私はまた、分かってる、とサスケの言葉を復唱してみた。
胸に手を当て、先ほどの自分の答えを改めて考えてみる。
それでも、やっぱり変わらない。
胸のうちの揺るがない想いは、確かにそこにある。
(私はちゃんと・・・・・・分かってる)
どこか呆然とその言葉を噛みしめて、それからサスケを見れば、サスケも真っすぐに私を見返した。
「それさえ分かっていれば、大丈夫だろ」
「サスケ・・・・・・」
「お前はただ、命が救われることを望んでいた。その場で救わなかったのは、そうした結果、後で結局失われることになるのを防ぐためだ」
「・・・・・・」
「それに──どう足掻いたところでもう、離れられないだろ」
目を丸くさせる私に、サスケは軽く息を吐いて笑みを零す。
「お前もそうだが、何よりカカシがお前を離すわけがない」
サスケは言うと、視線を眼下の街並みへと移した。
「──俺はかつて、あいつを殺そうとした。・・・・・・サクラのことを、本気で」
「──!」
サスケは、だが、と言う。
揺らぎのない声だった。
「離れる気はない」
「──・・・・・・」
「それがどれほど傲慢なことかは、分かっているが」
私はくしゃりと微笑うと、首を横に振った。
「それ聞いたらサクラ、きっと泣いて喜ぶよ」
「・・・・・・知ってる。お前こそ、一人で不安に思ってること聞いたらカカシの奴、怒るぞ」
「・・・・・・し、知ってる」
本当かよ、と笑うサスケに、私も笑った。
「うん。たくさん教えてもらったから、分かってるはず」
「チャクラが不安定になってるのに誰にも言わず、ふらふら出歩いてる奴に言われてもな」
私は苦笑すると頬を掻く。
「それは、まあ・・・・・・でもほら、みんな忙しくしてるし」
「手を煩わせると思っているんだったら、それはお前の勘違いだ。勝手に一人で何か悪い方向にでも決意されたり、体調を崩される方が迷惑だろ」
「・・・・・・うん、肝に銘じておく」
言い方はぶっきらぼうだが、その実伝わってくる気持ちは温かくて、私は頬を緩めるとしっかりと頷いた。
サスケも微かに口元に笑みを浮かべる。
すると気配を感じて、振り返った私は瞬いた。
「──カカシ先生、サクラ」
二人はやってくると、カカシ先生が私の隣に立ち、サクラがサスケの傍まで歩いていった。
サクラは振り返ると、明るく笑う。
「はい、名前。この間相談に乗ってくれたお礼」
「お礼」
ぽかんとしながら隣を見上げれば、カカシ先生はにこりと笑う。
「用があってサクラが邸まで来たんだけど、そこで名前の話になったんだ。俺の仕事ももう少しで終わりそうだったから、少し待ってもらって、そうして一緒に名前を探しにきた、ってわけ」
「そうだったんですか」
「サスケ君が一緒にいるのには驚いたけど。カカシ先生と二人で、妬けちゃうね、って言ってたのよ」
そう言ってサクラは悪戯げに笑う。
カカシ先生もにこにこと笑いながら、
「うんうん、妬けちゃうよね」
「あんたが言うと洒落にならないからやめろ」
「サスケお前、相変わらず冗談通じないの?」
「冗談に聞こえないんだよ」
「いやいや本当だって。ね、名前?」
「えっ。は、はい?」
状況が呑み込めないながらも頷けば、それでもカカシ先生は満足そうににこにこと笑う。
サスケは、やってられない、とでも言うように息を吐くと、踵を返した。
「カカシが来たなら、もういいだろ。行くぞ、サクラ」
「あっ、待ってよ、サスケ君」
足を踏み出しかけたサクラは、しかし少し立ち止まると、私たちを振り返って嬉しそうに笑う。
それから手を振ると、サスケの後を追いかけていった。
「相変わらずお節介だな、お前は」
「ええ? サスケ君だって、人のこと言えないと思うけどな」
去っていく二人に、もはや尊さを感じながら手を振り返していれば、隣のカカシ先生が言う。
「あいつらも、ようやく何だかんだ落ち着くところに落ち着きそうで、よかったね」
「はい、本当に」
頬を緩めてそう言ってから、私は視線を感じて、先生のことを見上げた。
カカシ先生は優しい眼差しを私に向けると、にこりと微笑う。
「そういう仲間想いなところも、好きだよ」
「せ、先生?」
「それから、そうして仲間たちに想われてるところもね。だからさっきの言葉も、本当に冗談なんだけどな」
冗談、という言葉に、先ほどのサスケとのじゃれあいのことを言っているのだろうと分かって、私はくすくすと笑った。
すると先生は私の頬に手を当てる。
目をのぞき込むようにして、親指でそっと目の下を撫でた。
「・・・・・・元気そうで、よかった」
「・・・・・・それは私の台詞です」
瞬く先生に、笑ってみせるとそう言った。
それから、でも、と続ける。
「最近の懸念事項に一段落ついたことは人伝いに聞いていました。ひとまず落ち着いたみたいで、よかったです。お疲れさまでした」
「・・・・・・うん、ありがとう。・・・・・・はー、やっぱり名前に会うと、疲れやら何やらが吹っ飛ぶよ」
温かい言葉に、私は目を細めると、頬を緩めた。
「私もです」
「・・・・・・」
「色々なものが吹き飛んで、ただただ嬉しくて、幸せです」
そう言って笑えば、カカシ先生は私の手を取った。
そのまま傍のベンチへ近寄ると、腰を下ろす。
私は先生に向かい合うように立ったまま、どうしたのかと首を傾げれば、先生は私を見上げて言った。
「ね、俺のこと抱きしめて、名前」
「えっ」
じっと見上げてくる先生に、私はきょろきょろと辺りを見回す。
「でも」
「誰もいないよ。・・・・・・駄目?」
「駄目じゃ・・・・・・」
言い差して、私は恥ずかしさに少し俯いた。
だってこれ以上、拒否する言葉なんて出てこない。
「駄目じゃ・・・・・・ないです」
「・・・・・・うん」
カカシ先生は目を細めると、手を握っていた力を緩める。
私はもう少しだけ距離を縮めると、先生の後頭部と首元に手を回して、その温もりを胸の中に包み込んだ。
(・・・・・・久しぶりの、カカシ先生)
透けるような銀色をした髪の手触りが懐かしい。
腕の中に抱きしめてしまえば愛おしさが溢れてきて、もう少しだけ力を込めた。
カカシ先生の手が私の腰に回される。
「・・・・・・どきどきしてるね」
「す、すみません」
「謝ることじゃないでしょ」
先生は私の胸元に顔を当てながらそう言うと、くすくすと笑う。
私は、はい、と言いながらも恥ずかしくて、紛らわせようと頭を撫でようとした。
すると脳裏によぎった既視感に、はっとする。
ここ数日、何度も見ていたあの光景。
あの日、瓦礫に埋もれたカカシ先生を、私はいまと同じようにして抱きしめていた。
(──もしかして)
カカシ先生は私が抱えていたここ数日の気持ちを、分かっていたんだろうか。
顔を合わせるのなんて本当に久しぶりだから、そんなことありえないとは思うけれど。
(・・・・・・でも、それじゃあどうして私から)
どうして私から、この体勢で、抱きしめさせたんだろう──そうとも思ったとき、回されていたカカシ先生の手に少し力が込められた。
軽く瞬いた私は、そうして零すように笑う。
本当に偶然なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
カカシ先生はびっくりするほど聡い人で、そして私はどうやら分かりやすい人間のようだから。
(・・・・・・でも、どっちだっていい)
あのときは感じなかった温もりが、あのときはなかった抱きしめ返してくれる力が、ただただ愛おしい。
よかった──と、心の底から思った。
過去、その時々でしてきた選択に悩んでしまう瞬間は、この先もある気がする。
それでも、迷い、悩んだとしたって、後悔はしないんだ。
いつだって、精一杯の力を尽くしてきたから。
そうして辿り着けたいまこのときが、堪らなく愛おしいから。
「・・・・・・カカシ先生は温かいですね」
くすりと笑いながらそう言えば、先生は少しだけ離れて私を見上げる。
どうしたのかと首を傾げれば先生は、いや、と言う。
「温かいのは、名前の方でしょ」
そうでしょうか──と、言いかけたとき、とんと背中を押され、引き寄せられた。
思わず踏鞴を踏んで、膝が折れる。
首の裏に手が回って──そうして唇を掠めたものに目を開いた。
ややあって、何をされたのか気づいた私は、頬を赤くさせると慌てる。
「っせ、先生」
「ほらね、温かい──っていうより、もう熱いね」
「こ、ここ外──」
言うも、カカシ先生はにこにことしていて、まるで堪えている様子ではない。
(だ、駄目だ。とうてい敵わない)
いつも実感させられる事実を、今日も思う。
私は観念したようにうなだれると、それでもじとりとした目を向けてみると、先生の頬に触れる。
「先生は、全然熱くはならないですね」
先生はくつくつと笑うと、
「ま、俺は表に出にくいからね」
「・・・・・・」
「本当なんだけどな」
「・・・・・・信じられないです」
「ちょっと。名前までサスケみたいなこと言わないでよ」
言われた言葉に、私は思わず軽く噴き出す。
同じく笑った先生は、そうしてまた、私のことを抱きしめてくれた。
さっきのそれで頬は熱いし、鼓動も変わらず速くて、自分ばかりどぎまぎしていることが恥ずかしいけれど、もう全部気づかれているし、敵わないことは明白なのだ。
だから私は観念したように笑うと、自らも再び抱きしめ返したのだった。
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