焚き火の音が僅かに聞こえる。
少し肌寒くて、近くに感じる温もりに擦り寄れば、何かに包まれる感触がした。
その温かさに微睡んで、しかし違和感を感じた私は目を開けた。
(・・・・・・シカマルがいる・・・・・・)
私を抱きしめたまま眠るシカマルの顔を、寝惚けた頭で暫し眺めていれば、自然と目から涙が溢れてきて、私は慌てて目元を拭った。
「夢じゃ・・・・・・なかったんだ」
夢だけど、夢じゃなかった──と、脳裏でどこかの姉妹が喜んでいる。
私も一緒にはしゃぎ出しそうになったが、寝ているシカマルを起こしてしまうのは忍びないので止めておいた。
こんなに温かくて、幸せな朝はいったいいつぶりだろう。
近頃はずっとこの鉄の国周辺を行ったり来たりしていたし、もっと温暖な気候の国を訪れていたときもあったけれど、いつも心に穴が空いたような気分で、温かさを感じたことなんて最近なかった。
(胸が痛くて苦しくて……でも、幸せ)
この腕の中に抱かれたまま、もう少しシカマルの寝顔を見ていたいと思ったけれど、木々と張った天幕の隙間から差し込む陽光に、私はシカマルを起こさないよう注意しながら起き上がった。
身支度を整えると、少し歩いた先にある小高い丘へ向かう。
林を抜ければ見えた白銀の世界と、そこに降り注ぐ朝陽に、私は目を細めた。
綺麗だな──と、思う。
これもまた、久しぶりに抱いた気持ちだ。
言ってしまえばなんてことのない景色だ。
晴れていれば見られる風景だし、いままでの道中これより荘厳な景色は、思い返してみればあったように思う。
だけどそれらは、ただそこにあるだけだった。
私の目は、ただそれらを映すだけ。
何かを感じることなんて、なかった。
「そうだったなぁ……」
世界は、美しいんだった。
「──名前!!」
感動に胸を押さえていれば、元いた場所からシカマルの声が聞こえてきた。
焦っているらしい声音に、どうしたのだろうかと慌てて走り出す。
走ってきたシカマルは、私を認めると目を見開いた。
「名前!!」
そうして再度私の名前を呼ぶと、腕を引き、私のことを抱きしめた。
忙しない息づかいのまま私を強く抱きしめるシカマルを、その腕の中から見上げる。
「シカマル?どうしたの?」
「・・・・・・じゃ、なかった」
「え?」
「──夢じゃ、なかった・・・・・・」
そう言うと安堵の息を吐いたシカマルは、さらに私を抱きすくめた。
私は目を開くと、やがてシカマルの背中に手を回す。
その存在を確かめると、苦笑するように笑った。
「さっき起きたとき、私もまったく同じことを思ったよ」
「目が覚めたら、いねえから」
「そうだよね……私も、起きてシカマルがいなかったら、それこそ夢だったんじゃないかってすごく焦ると思う。……ごめんね、軽率だった」
「いや、お前が謝るようなことじゃねえよ」
言って、シカマルは頬を掻く。
「俺こそ、ドタバタと焦って格好悪いところ見せちまったな。情けねえ」
「情けない?」
私は首を傾けると、そして笑った。
「どうして?そんなこと少しも思わないよ」
「寝ちまってたことだってそうだ。寝ずの番をするつもりだったってのに」
「それも、私もまったく同じだよ。ごめんね。いままでのこと色々話して、楽しくて、そもそも眠気を感じてなかったのに、シカマルの体温が心地良くて、気づいたら眠っちゃってたんだ」
シカマルは──と、私は目を細める。
「私を探してくれていたから、疲れてたんだよね。・・・・・・ありがとう」
抱きしめる手に力を込めれば、シカマルは私の髪に顔をうずめた。
それから朝ご飯を食べ、準備を済ませた私たちは、火の国木ノ葉隠れの里へ向かい始めた。
歩みを進めるごとに暖かくなる気候に、鉄の国では必需品だった外套も今はもう脱いでいる。
そして木ノ葉へ近づく度に、私とシカマルの会話は減っていった。
話すことが尽きたわけじゃない。
シカマルはこれまでの私の話を色々と聞いてきたし、私もシカマルと話すのは楽しかった。
話をすれば、離れていた時間が埋まっていくような気がした。
けれど懐かしい里に近づく度、私の足は重くなっていったのだ。
心臓が重々しく鳴り、呼吸が乱れた。
指先が痺れ、耳鳴りがした。
草木が豊かに生い茂り、爽やかな風が吹いているのに、新緑の匂いも、心地良い自然音も届かない。
すると足を止めたシカマルに、私は怪訝に思って顔を上げると──息を呑んだ。
道の先に見えたのは、何度も潜った里門と、その先で木ノ葉を見下ろす火影岩。
立ち尽くしていた私は、ややあって掌に痛みを感じて視線を落とした。
無意識のうちに握りしめていたらしい、固まった手をなんとか開けば、爪痕には血が滲んでいた。
私は呆然と掌を見下ろす。
──痛い。
痛みを感じる。
つまり今は過去でも未来でもない。
──現実だ。
思った瞬間、視界に禍々しい斑紋が浮かんで、私は慌てて首を振った。
震える手を、もう一方の手で握りしめる。
「名前!」
するとシカマルに名前を呼ばれて、私ははっとして顔を上げた。
隣にいるシカマルが焦りと不安がないまぜになったような表情で私を見ている。
「あ・・・・・・シカマル」
私は不思議と、やっと息ができたような心地だった。
風を感じる。
体が冷えて、そのとき初めて自分が汗をかいていることに気がついた。
「だ・・・・・・大丈夫」
心底心配そうな眼差しを向けてきているシカマルに、私はなんとか笑ってみせた。
けれどシカマルは信じていないのか眉根を寄せる。
私は視線を泳がせると、すぐに目を落とした。
「ごめん。やっぱり、少しだけ待っててほしい」
言うやいなや、私は本道を逸れると木々の中に入っていった。
すぐに目から溢れてきた涙に、唇を噛みしめる。
早く泣き止まないと──と手を握りしめたとき、後ろから腕を引かれた。
振り返った私は目を開く。
「──馬鹿やろう」
私の腕を掴むシカマルは、涙に濡れる私の目を見ると悲痛に顔を歪ませた。
「俺はお前を、また一人で泣かせるために連れてきたわけじゃねえよ」
「──!!」
「ちっとも大丈夫じゃなさそうな顔で、大丈夫だって言わせるためでもねえ」
「シカマル・・・・・・」
見つめれば、シカマルは優しく私を抱きしめた。
優しい言葉とその温もりに、目から涙がこぼれ落ちる。
シカマルの手が、まるで壊れ物に触れるかのように私の頭を撫でる。
「・・・・・・辛い思いをさせることになるのは分かってる。ひょっとすると、お前が一人で泣いてた以上に、泣かせることになるかもしれねえ」
けど──と、シカマルは力を込めて言った。
「悪い」
「え・・・・・・?」
「嫌がったって、離せねえ」
瞠目すれば、シカマルは私を見つめた。
「傍にいる。お前はもう、ここにいるんだ。俺の腕の中に」
「シカマル──」
「手が震えるなら握ってる。涙が出るなら、俺が拭う。不安で潰れちまいそうなら、抱きしめててやるから」
だから──と、シカマルは言った。
「一人で暗がりに行って、声を押し殺して泣くなんて、絶対にさせねえからな・・・・・・!」
私は目を見開いた。
震える唇を噛みしめると、うん、と頷いた。
溢れた涙を、シカマルがひどく優しい手つきで拭ってくれた。
私は泣きながら笑う。
「嫌なんかじゃない」
言って私は、抱きしめてくれるシカマルの腕に手を回す。
「すごく、すごく嬉しい」
「・・・・・・そうかよ」
「うん。──ありがとう、シカマル」
「──こいつが、名字名前・・・・・・?」
「シカマルが探してた、私たちの仲間・・・・・・」
そうして木ノ葉隠れの里門を潜った先で、早速出会ったナルトとサクラに、私は──盛大に咳をした。
「げほっ、げほっ──ぐはっ・・・・・・!!」
「おい、名前!!」
「って、スッゲェ咳してるってばよ!大丈夫か!?」
「な、何、この子、体弱いの!?」
「ああ。サクラ、お前に診てもらいたかったんだ!」
「任せて!」
思わずうずくまってしまった私の背中をさするシカマルの逆側にサクラが膝を付く。
私は掌を向けて制止した。
「ご、ごめん。大丈夫──げっほぉ・・・・・・!」
けれど間近でサクラを見てしまえば、無理だった。
「いやいや、いったいどこをどう見れば大丈夫なんだってばよ!」
「おい名前、無理すんなってさっき言ったばっかじゃねーか!」
「とりあえず、ここは人も多いから、どこか空気が良い場所に移動しましょう。シカマル、お願い!」
ああ、と答えたシカマルに抱き上げられて移動した先は、慰霊碑の一つが見える丘の上の広場だった。
草原の上に座る私の体を厳しい表情で検分していくサクラをちらりと見て、私は気づかれないよう溜息を吐いた。
・・・・・・無理だと思ったんだ、絶対。
だって成長した皆を見て落ち着いているなんて、不可能だよ。
(・・・・・・シカマルも、そうだったけど)
本当に──と、私は皆を眩しく見つめた。
(皆の素敵さは、止まるところを知らないなぁ・・・・・・)
思ったところで、サクラが私から離れた。
「とりあえず、いま治療できる分は治療できたわ」
「ありがとう」
お礼を言えば、サクラは、ううん、と首を横に振る。
その表情は厳しいままだ。
「おい、サクラ、いま治療できる分って」
「小さい傷とか、疲労とか、諸々ね。──シカマル、そんな顔しなくても大丈夫。残りのものも、確かに一朝一夕で治せるものじゃないけど、不治の病とかじゃないから」
その言葉に、シカマルは長い息を吐いた。
「でも──ナルト?」
何か言い掛けたサクラの言葉が、ナルトが私の前に来たことによって途切れる。
複雑な表情をしたナルトは、しかし真っすぐに私を見つめてきて。
私はそんなナルトを見上げると、立ち上がった。
空のように青い瞳を見つめて、にっこり笑う。
「さっき私の名前を知っていたことからして、シカマルから少し聞いてるかなとも思うんだけど……そういえば、まだちゃんと自己紹介してなかったね」
言えば三人は目を見開いた。
「私は──」
「名字名前。木ノ葉の忍で、俺たちの仲間・・・・・・なんだよな」
言葉を遮られて続きを言われ、私は目を丸くしてナルトを見た。
ナルトは苦笑するように笑って頬を掻く。
「俺たちってば、一応シカマルから全部話は聞いてんだ。正直言って、シカマルから話を聞いても記憶は戻ってねえし、実感もまだ湧かねえけど・・・・・・でも、もし俺がお前と同じ立場になったとしたら、仲間に対して改めて自己紹介なんて、辛すぎるってばよ」
だから──と、ナルトは真摯な眼差しを私に向けた。
「無理なんて、しなくていいんだ」
「ナルト・・・・・・」
「思い出せてなくて、悪い。でも俺ってば絶対ェ、お前の記憶を取り戻すからな!」
私はたまらず胸を押さえた。
するとサクラが、ナルトの隣に立つ。
「私も、まさか自分の記憶に抜けてるところがあったり、あるいは置き換えられてる部分があるなんて、とてもじゃないけど信じられなくて、混乱さえしてるわ」
「うん・・・・・・そうだよね」
「だから、ありがとう、とか、何やってくれてんのよ、とか、そういうことはまだ言えない。気持ちがまだ完全には伴ってない言葉を伝えたって、それは逆に失礼になると思うから」
サクラは、それに、と続けて
「きっと悲しい思いをさせちゃうことがあるかもしれない。私もナルトと同じく、考えてみたの。もし自分の記憶が、大切な人たちの頭の中から消えたら、そしてそんな人たちと再会することになったら、ってね」
言ってサクラは悲しく微笑った。
「想像しただけで、苦しくて仕方なかった。周りの皆が何もしなくたって、傍にいるだけで身を切られるように辛かった。・・・・・・でも、あなたにとってそれは現実のことなのよね」
「サクラ──」
「覚悟しておいて」
突然頬を両手で包まれて、私は目を丸くさせた。
サクラは明るく笑う。
「あなたの記憶を取り戻したら、めいいっぱい怒って、そして、抱きしめてあげるんだから」
私は瞠目した。
サクラの笑顔が水面の奥に揺らいで、慌てて俯く。
やがてサクラの手に自分のそれを重ねると、顔を上げてにっこり笑った。
「うん。楽しみにしてる。・・・・・・ありがとう」
笑い合ったときだった、サイの声が聞こえた。
「ああほら、いたいた。ナルト、サクラ」
「サイ。チョウジにいのも、どうしたんだってばよ」
「どうしたじゃないわよ!シカマルが帰ってきたってサイから聞いて」
駆けてきた三人の視線が私に集中する。
軽く一礼すれば、チョウジが優しく笑った。
「よかった。見つかったんだね、シカマル」
「さすがね、シカマル!」
いのに肘で小突かれて、シカマルは、ああ、と笑った。
いのも笑うと、私の前にやってくる。
「やっと会えたわね、名前」
名前で呼んでくれたことに驚きながらも、私は頷く。
するとシカマルが口を開いた。
「こいつらに伝えてたのは、何もお前の記憶が消えた経緯だけじゃないからな。普段のこととか、それこそ呼び方とかも話してたんだ」
「ああ、それで」
「私たちはみんな、名前って呼んでたのよね。でもサイはどうしよっか」
「僕がカカシ班に入ったとき、彼女は既に里にいなかったんだもんね。だったらあだ名を考えないとね」
「あ、いや。実は既にあだ名は考えてもらってて」
言った私を、シカマルが驚いて見る。
「前に会ったことがあったのか?」
「うん、里外での話なんだけどね」
「でもさ、でもさ、大丈夫だったのか?サイの付けるあだ名って、どうにもヤバいのが多いからよ」
「そうなの?私に付けてくれたものは、すごく的確なものだったけど」
「そうだったのか?サイもたまにはいいことするんだな!で、どんなあだ名だったんだってばよ」
「ブス、だよ」
にっこり笑った私は、しかし場の空気が固まったことに気づいて首を傾げた。
サクラが私の肩を抱く。
「サイ、あんた最っ低!やっぱり女の敵ね!」
「名前、お前それ全然的確じゃねーだろ」
「サイ、お前ってば、読む本変えろっていつも言ってんじゃねーか!」
「ちょっとサイ、サクラはまだしも名前は可愛いんだから、そんなあだ名付けちゃ可哀想じゃない」
「なんですって、いのブター!!」
「いのブタですって、このデコデコー!!」
「ちょっとやめなよ、いの。そうだシカマル、そういえば──」
「うるっさい、このデブ!!」
いのが言い放った単語に、緊張感が走った。
シカマルが守るように私の前に立つ。
「僕はデブじゃない!ぽっちゃり系だ!肉弾──」
チョウジが体を丸めようとしたときだった。
懐かしい、凛とした声がした。
「──あなたたち、いくつになっても変わらず元気ね」
私は、はっとして顔を上げる。
「元気というか、騒がしすぎだろ。まあ無事に帰ってきてよかったけどな」
聞こえた二人の声に、私は自分の体が震えるのが分かった。
シカマルがちらりと私を振り返って、そして前を向く。
「アスマ、紅先生──ミライ。久しぶりっすね」
そこにあった光景は、あまりに幸せなものだった。
陽光が降り注ぐ中、アスマ先生と紅先生が寄り添って歩いてくる。
そして紅先生の腕の中には、二人によく似た小さな女の子が抱かれていた。
「アスマから話を聞いて、心配してたのよ。でも、やったのね」
「ええ」
「お前が名前だな。シカマルから話は聞いてるよ。俺たちのことも含めて──」
アスマ先生が言葉を途切れさせた。
どうしたのかと見上げた私は、先生たちが驚いた視線を向けてきていることに気がつき瞬く。
すると頬を伝った涙に、私は慌てて目元を拭った。
「ご、ごめんなさい、私──」
思わず後退ったところを、シカマルに腕を掴まれ引き止められる。
シカマルは真摯な眼差しを私に向けると、力を込めて言う。
「逃げるな」
「で、でも」
「逃げるな、名前。ここにいろ。──俺もいるから」
「シカマル──」
「……どうしたの?どこか、いたいの?」
すると紅先生の腕の中から、まだ舌足らずな、けれど優しさをいっぱいに孕んだ声がした。
はっとして見れば、女の子が小さな両手を、それでも懸命に私に向かって伸ばしている。
「いたいの、いたいの、とんでけー!」
私はぽかんとして、シカマルと顔を見合わせると、そして笑った。
私は目元を拭いながら、
「痛くて泣いてるわけじゃ、ないんだよ。でも、ありがとう。嬉しい」
「いたくないのに、なみだがでるの?」
「うん・・・・・・嬉しくて、幸せでも──だからこそ、涙が出るんだ」
こてんと首を傾けるミライに、また笑う。
「ミライには、まだ少し難しいかしらね」
でも──と、紅先生は続けた。
「ミライ、あなたも、周りの人たちの幸せを喜べて、そしてその幸せのために力を尽くせるような、そんな強くて優しい忍になってね」
握られた手に力が込められて、私はシカマルを見上げた。
ひどく優しい眼差しをしているシカマルに、胸が温かくなる。
私はにっこりと笑うと、ミライに向かって手を差し出した。
「はじめまして──ミライ」
20190714