カカシ先生なら、とサクラは言った。
二人は今、木ノ葉病院の屋上にいる。
任務でチャクラを使いすぎたカカシが病院に来ると、サクラに偶然出くわし、そのまま連れてこられたのだ。
「どうして私が先生を呼び出したのか、分かってるでしょ」
サクラが言うも、カカシはいつもの飄々とした雰囲気を纏わせただけで何も答えない。
サクラはそれを肯定と受け取り、続けて言った。
「そんな先生が、名前の気持ちに、気づいてないはずない」
言われて、カカシはやはり分かっていたのか微塵も動揺を見せずに、どこか遠くへ目を向ける。
「ていうか、先生じゃなくても分かるわよね。だから私がこうして、話してるわけだし。気づいてないのは、ナルトみたいな馬鹿だけ」
「相変わらずひどい言い様だね」
「だってナルトは、そりゃ昔と比べて強くて頼もしくなったけど、馬鹿なところは変わってませんから。それに、私のお節介も」
カカシは僅かに目を丸くしてサクラを見る。
サクラは肩を竦めた。
「余計なお世話だって、先生は思ってるかもしれない。サスケ君にも、もう何度言われたか分からないくらいだしね」
「サクラーー」
でも、とサクラは強く言った。
「幸せになって欲しいんです。カカシ先生にも、名前にも」
カカシはまるで拒否するように目を逸らした。
サクラがたまらず一歩踏み出す。
「どうしてなの?先生。だってカカシ先生と名前は、両想いーー」
「サクラ」
カカシはサクラの名前を呼ぶと、言葉を遮った。
そしてようやく、観念したように口を開く。
「心配してくれる気持ちは嬉しいんだけどさ……そんな簡単なものじゃないんだよ」
「……火影になるから、ですか?」
カカシは首を振って、多分、と頭を掻いた。
「俺じゃ名前を、幸せにできない」
サクラは目を見開いた。
「……それ、本気で言ってるの。先生」
「ああ、そうだよ」
握りしめられたサクラの拳が震える。
「……確かに、カカシ先生はだらしないし、遅刻癖があるし、平気で人前でエロ本を読む駄目人間だけど」
「……ちょっとサクラ」
サクラは顔を上げ、それでも、と真摯な目を向けてくる。
「名前を一番に幸せにできるのは、カカシ先生しかいないの」
カカシは、胸が抉られるような思いだった。
必死で抑え込んでいる気持ちを後押しされて、心がぐらつく。
口を開けばその想いがでてきてしまいそうで、カカシは黙した。
「確かに名前は、私たちでも、幸せにしてあげられるかもしれない。だって名前を幸せにしたいと思うなら、まず自分が幸せになれば、名前は喜んでくれるから」
「……だったら、それで良いんだよ」
「違うーーどうしてそんなこと言うの?先生。名前を一番に幸せにしてあげたいって思ってるのは、他の誰でもない、カカシ先生でしょ?」
言われて、カカシは思わず目を閉じた。
サクラから否応なしに見せつけられる気持ちから目を逸らしたくて、自分の内側から溢れ出てしまいそうな想いに蓋をしたくて。
息を吸って、吐く。
意識しながら少しそれを繰り返して、カカシは目を開いた。
「……本当に、お前たちは昔から、思ったことを隠さず言うね。サクラ、それにナルトとサスケも」
「はぐらかさないでくだーー」
「名前は、昔から違ったけど」
サクラは口を噤んだ。
カカシは目を細めると、続けて言う。
「名前は、他人を想っての時はきちんと本音を、思ってることを伝えてくれるけど、そうじゃない時、名前は基本、自分のことを話さないからね」
「……確かに、そうですね」
どこか寂しげな笑みを浮かべたサクラは、眉を下げてカカシを窺う。
「それじゃあ、名前は気持ちを伝えないし、先生は、名前の想いを分かった上で、知らないふりをし続けていくってことですか?」
黙するカカシに、サクラは目を落とす。
「でも、そんなの……それならいっそのこと、カカシ先生がはっきり言ってあげれば……名前は先生の気持ちに、気づいてないんだし」
「ーー言ったよ」
「……え!?嘘!」
「言ったっていうか、訊いたんだけどね。さすがにいきなり、俺のこと好きなんだろうけど諦めて、なんて言えないでしょ?……それに、いくら名前が分かりやすいとはいえ、まだ確証を持ててたわけじゃなかったし」
ーーカカシは名前に訊いた。
「ねえ名前」
「何ですか?カカシ先生」
「名前って、俺のこと好き?」
名前はにっこりと笑って頷いた。
「はい、大好きです」
「……それって、どういう意味で?」
訊けば名前は目を丸くする。
ややあって微笑んだ。
「上司として、です。カカシ先生は私の、先生ですから」
カカシはわざとおどけたように訊く。
「恋愛的に好き、とかはないの?」
「そ、それはないですよ……!」
慌てたように首を振る名前の顔は真っ赤で、カカシは心が暖まるのを感じた。
名前は自分のことが好きなんだと分かったし、その気持ちは堪らなく嬉しかった。
だけど名前はその気持ちを伝えまいとしている、隠そうとしている。
カカシはそれを苛立たしく思った。
けれど自分も、同じことをするのだ。
「俺も、名前が好きだよ。部下として、生徒として。だから……名前とはずっと、このままの関係でいたいな」
「ーーそうしたら名前、いつもみたいに笑ったんだよね」
「笑った……?」
「そのとおりだって顔をして、私もですって頷いたんだ」
「……それって」
言い差すサクラに、カカシは頷く。
「俺が名前に気持ちを伝えるつもりはないように、名前もまた、俺とどうにかなる気はないんだよ。それは名前がきっと、自分なんかじゃ駄目だって、真実そう思ってるからだろうね」
カカシは手を握りしめると、小さく息を吐いた。
「本当に、いい加減にして欲しいよね。どうしてあの子はあんなに、自分を卑下するというか、考えないのかな」
カカシは目を細める。
脳裏に浮かぶ名前はいつだって笑顔で、周りよりも一歩退くと、他の誰かの背中を押している。
けれど名前がいくら身を引こうとも、カカシにとって名前は、他の誰より大きな存在で、目を離そうと思ってもできないのだ。
「名前はあんなに素敵でーー」
言い差して、カカシは、その先の言葉が見つけられなかった。
ーー愛してやりたいと、カカシは思う。
名前はどれほど愛されるに足る存在かということを教え込んでやりたい。
しかしーー。
「今、分かった気がします」
考え込んでいたところに、サクラがぽつりと言った。
先生は、とサクラは続けて、まるで子供を見守る母親のような目をカカシに向けた。
「名前を、汚したくないのね」
ーー愛してやりたいと、カカシは思っている。
けれどカカシは同時に、自分が持つ名前への愛情がひどく濃くて、深いものであることを理解していた。
そして名前を、そんな愛情で包んでは駄目だとも思った。
だからカカシは、名前への気持ちに蓋をしたのだ。
言葉にして伝えてしまうと、それはもう自分自身でその気持ちを認めたということになる。
そうなってしまえば、カカシはきっと名前のことを離してやれない。
たとえ透明で綺麗などではない愛情に名前が包まれることになろうとも、それが自分の色であるならば、喜びさえ覚えてしまう。
名前に綺麗なまま、あたたかい陽射しの下にいて欲しいのなら、想いは伝えないほうが良い。
想いを伝えられたならば、けれど名前を汚してしまう。
伸ばされかけた手は、良心のような何かで、かろうじて握りしめられたまま止まっていた。
「先生は名前を美化しすぎ。色々言うくせに、結局ベタ惚れじゃない」
するとサクラが唐突に言った。
カカシが目を丸くすれば、サクラは呆れたように両手を腰に当てる。
「名前だって、先生や私たちと同じ、忍なんですよ。それに、まだ今でも思い出すのは嫌だけど……名前は暁にいた」
「ーー!」
「名前は何も言わないけど、ひょっとしたら、里で任務を受けていた私たちよりも、ずっと血生臭いところに名前はいたのかもしれない」
「ああ……そうだな」
それに、とサクラは満面の笑みを浮かべた。
「良いじゃないですか、汚れたって」
「サクラ、お前ーー」
「だって、たとえどうなろうと……それがカカシ先生と名前の、幸せなんですから」
カカシは目を見開いた。
するとサクラが近寄ってきて、このこの、というふうにカカシの腹を肘で突いたーーただ一般的なそれよりは力が強く、カカシは思わず小さな呻き声を漏らす。
「それでも先生が考えを変えないって言うなら、私ももう、何も言わないけど……これから名前が、誰とどういう関係になろうと、口出ししないでくださいね」
え、とカカシは顔を上げた。
「待ってサクラ、ねえそれ、どういう意味?」
「さあ?カカシ先生には、関係ないんでしょ」
あしらわれて、カカシは頼りなさげに言葉をなくす。
けれどカカシを見上げ、悪戯そうに笑うサクラに気がつくと、参ったように頭を掻いた。
笑顔と礼の言葉を残すと瞬身で消えたカカシに、サクラは屋上で一人笑った。
「本当、うちの班って馬鹿ばっかなんだから」
カカシが名前を見つけた時、そこにはもう一つの人影があった。
人気のない路地裏で、名前と向かい合っている若い忍は、照れたように頭を掻いている。
名前はそんな男の赤く染まった頬を見ると、目を見開いた。
ーー前までは、気がつかなかったのに。
前までの名前ならば、たとえ相手がどんなに自分の前で顔を赤くしようと、そこに何か恋情があるとは思いもしていなかった。
けれど自分がカカシに恋心を抱くようになったからなのかは分からないが、名前は今、自分を呼び止めた男の気持ちに気づいていた。
カカシは屋根の上から、そんな名前を見守っていた。
そして名前が複雑そうな表情を浮かべ、目を細めた時、カカシはその考えに気がついた。
屋根を蹴る。
ーー名前は男の気持ちを受け取ろうとしている、とカカシは思った。
自分に向けられた想いに気がつき、それで相手が幸せになるのならーー自分も、報われない辛さを知るようになったから。
だから自分でいいのなら、その気持ちを汲んであげたいーーと、そう名前は思っている。
「あの、私ーー」
名前が言い掛けて、音に気がついたのか後ろを振り返った。
着地したカカシは、驚いた顔の名前に手を伸ばすと引き寄せてーー男に何か言おうとしていたその口を、自分のそれで塞いでやった。
唇を離したカカシは、いまだ固まったままの名前に少し笑うと、下げていた口布を戻して、その存在を腕の中へ閉じ込めた。
先ほどとは別の意味で赤くなったり、青くなったりしている男に向き直る。
「ごめんね」
謝ったのは、本心からだ。
けれどーー譲れるはずがないのだ。
「名前は、俺のだから」
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