「夫と、約束、したんです」
母親が、名前の奥に横たわる夫の、微かに血が飛んだ痕の残る頬に手を伸ばす。
「もし俺が死ぬようなことがあっても、絶対に俺に、あの術は使うなよ」
彼女の腕の中には娘が、そして手の先には夫がいて…とても、幸せだった。
「ただでさえ身体に負担がかかる時空眼の術の中でも、あの術は最高レベル。お前の命を削ったおかげで生きられる、なんて、俺にとっちゃ嬉しくも何ともねえよ」
けれど、幸せだからなのか、何故なのか…彼女の目からは涙が止まらない。
「それからもし、俺が死ぬ時とお前が術をかける時が大体同じ時なら…俺のことも、名前の記憶から消してくれ」
堪えきれていない彼女の嗚咽が、穏やかな中庭に、不自然に聞こえる。
「お前から、俺も、歴史の重さを知った。きっと俺の死は、名前の記憶に、悲しいものとして刻まれる。…名前の記憶に悲しさを残させる位だったら…最初から無い方が、マシだからよ」
すると母親の小さな泣き声が深く落ちた意識の中に届いたのか、名前が少し眉を寄せて睫毛を震わせた。
けれどそれも、気づいた母親が優しく額を撫でると元に戻る。
「――夫は戦場で私を庇い、死にました。そして私は戦場で、術を使った。二人で決めた通り、私と夫は死に、歴史から、そして名前の記憶からは、私と夫は、消えます」
真っ直ぐな、芯が通った声。
その決意に、マダラは静かに踵を返した。
「今までの協力、感謝する…ありがとう」
はい…という、もう力の無い返事を背中で受け、マダラはその場を後にした。
――残ったのは、息絶えた父親と、穏やかに眠る娘、そして荒く、けれど震えたか弱い呼吸をする母親。
「名前、名前、ごめんね…きっとこれから先あなたには、辛い思いを、いっぱいさせてしまう…けれど、時空眼と一緒に重い歴史まで受け継がせてしまうことは、出来なかったの…それでもね、名前、一人で生きていくことはきっと…挫けてしまうこともある。けれど、それで良いの」
息を吐いた時、掠れた喉が痛くなる。
「ただ、立ち上がって…!転んでも、お願いだから、頑張って、生きていって…!あなたが中々立ち上がれない時、私達は、手を、差し伸べることは出来ないけれど…きっと他に、誰かあなたを助けてくれる人がいることを、願ってる…!」
名前、と母親は呼んだ。
「あなたの幸せを、心から、願ってる…!」
そしてにっこりと笑う。
「あなたの幸せは、私の…私達の…幸せだもの」
母親は震える手で娘を抱きしめると、その身体を、夫の胸に預けた。
「だからね、名前…時空眼のこと、そして一族のこと、そして…」
言葉が、続けられない。
それは母親が泣いているから、というのもあったけれど…彼女の心の中の言葉が、口から出てしまいそうだからで。
「そし、て…私達二人の…あなたの、家族の、こと」
忘れないで、欲しい
「ちゃんと、忘れてね…!」
娘を、強く抱きしめる。
離したくない、という風に。
「けれど私は、忘れない…!」
彼女は、泣きながら笑って夫を見上げる。
「あなたが私を、愛してくれたこと…!」
名前、と…最後に彼女は呼んだ。
「私達は、忘れない…あなたのことを。――私達がどれほど、あなたを愛していたかを…!」
忘れないから――。
120512.