complex | ナノ
最後の船を見送っている。微熱のようなあかりを灯してアローラから遠ざかり、海を渡る船は一つの星みたいだった。私を連れて行こうとした人など誰も居ない。アローラが太陽を失った日から私は誰にも見えなくなったようだ。あの強い陽射しが消えて太陽が地平線に埋もれるのを失った頃、人々はアローラを捨て置いた。それをフェローチェが満足げに笑って私の髪を撫でる度、太陽が消えたのはフェローチェのせいなのかなとぼんやり思った。とうとう船が見えなくなって光は月と星しか無くなった。青白くなった自分の手首を見る。これから、私は。
フェローチェの鳴き声がして振り返った。その顔は今まであんなに満足げに笑っていたのに今はまるで出会った頃のように仏頂面だ。緊張しているのかな、なんて思うとフェローチェの背中を覆う薄い膜みたいなものが揺れて私の髪もぶわっと揺れて視界が悪くなる。運命みたい、なんて再度思った。あなたもそう思ってくれているのかな。風が轟々と鳴っている中、フェローチェは私の手を掴んで迷いなく海へと向かっていく。ひどく焦っているみたいで足がもつれそうになる。そんなことせずとももう私は、なんて思ってあげる。この先何も伝わらなくなるだろうから。ざぱざぱと海を掻き分けるみたいに進んで太ももまで浸ってフェローチェの半透明の膜が濡れていく。それを見ていたら花畑で踊っていたのにいつの間にか崖の上で踊っていた、みたいなのが私たちの関係を表すには相応しいのかも知れないと思った。胸元まで浸れば振り返って私と向き合った。私よりも背の高いフェローチェは必然的に見下ろして私は見上げる形になる。月が高く昇っている。いつからか、月に照らされるあなたはなんだかそら恐ろしい。私の頬を薄く撫でるその蹄が少しだけ震えているから、安心させるように受け入れるようにふふ、と小さく笑った。
そこに容赦なんて無かった。もっと辛くなるだけだとは分かっててもごぽごぽと酸素を吐き出してしまって耳の横で泡が弾ける。口の中がしょっぱくて舌が痺れて吐き出せる息も無くなってきて、とうとうただ海の中で息を止める他なくなった。これが一番辛くて意識が朦朧としてきて死ぬ、と思ったら海面から顔を離される。引っ張られる髪が痛くて海水が目に滲みて口の中が塩辛い。ぜーぜーとなんとか呼吸するとまた沈められる。何度目か。もう目が真っ赤に充血している頃か。濡れた前髪から海水が落ちて舌に降ってくる。しょっぱい、痛い、喉がひりひりして、鼻が水を吸い込んだあの独特な痛みでつうんとする。潤んで霞んだ視界でフェローチェを捉える。あの言葉を待っているのが空気の振動で伝わる。呼吸を整える時間はあまり無いみたいだ。
「フェローチェ、フェローチェ、好きだよ」
確かめるように二度名前を呼んでから愛を囁いた。上手く言えなくて拙くなってしまったけどフェローチェが心底安堵したような、か細い息を吐く。あまりにもか細くて波にさらわれてしまいそうで華奢な命であることを自覚させられた。綺麗なものしか触りたがらないのに顔がぐちゃぐちゃな私を強く抱きしめてくれて、私もその背に手を回した。海の中に浸る自分の腕を見る。なんだか少しだけ光っているように見えた。
私の腕はこれから細く、しなやかに変化する。そして爪を失くして蹄を再生して色は白へと羽化し、金色の冠が輝いて、薄く膜が伸びて背中を覆う。意識したのかフェローチェがさらに強く抱きしめてきてその硬い身体に圧迫されて少し痛かった。細くてだけど貝殻のように硬くてつるつるとした突起を纏う、人間とは違う身体。もう少ししたら私もこうなるのだ。
フェローチェを見上げる。紫色か、青色かよく分からなくなった瞳に私が映っている。かと思えば口付けを落としてきた。多幸感に満たされながら私は今、運命と対峙しているのだと謳った。