complex | ナノ
はあ、はあ、ってポチエナみたいに呼吸するわたしの声がやけに大きく聞こえて耳の奥で直接鳴っているみたいだった。穴の開いた目がこっちを見ている。服を脱いでそれに被せてぐっぐっと押し込むけどやっぱり沈まなくてびりびりと焦る。一瞬、手首に強い力を感じて弾かれたように手を離した。布を被ってよくわからなくなったものを見つめながら荒く呼吸をする。掴まれた訳じゃない。だって相手はただの死体だ、そうであるはずだ。途端に恐ろしくなって急いで船を出した。
全てが終わった瞬間から身体が熱くて仕方がなかった。雪がわたしの肌の上で溶けて爪が紫になるまで変色して素肌を撫でる夜風に冷めない熱を自覚するだけで寒いと微塵も感じなくて、段々と夢だったのではないかと思えてきた。だけど足元にある血濡れた釘抜きハンマーがそれを否定している。生唾を飲み込む。わたしは成し遂げてしまったのだ。だけど殆ど衝動的で今は後悔しているのかしていないか分からない。今はただ一刻も早くあの場所から離れたかった。あの片目のない顔が頭から離れない。それなのに今まで言われ続けてきた罵声は一つも思い出せない。毎日毎日何も感じなくなるほど言われ続けてきたのに。
頼まれて錆びた釘を抜いている時に声をかけられたのだ。そして去っていく背と持っている釘抜きハンマーが重なって鼓動が大きく鳴った。直前までバレたらいい、バレたらいいと思っていたのにいざ振り下ろしたら当たってしまった、から、叶って、あんなにもあっさりと。わたしの苦痛に塗れた人生は本当はこんなにも軽かったのかと思うくらい。
不意に何かが聞こえてきて顔を上げると遠くに赤い光が見えて次にはゆらりと揺れた。デンリュウ、と思わず呟いてしまう。先は故郷の船着場であることが分かってしまう。でもどうして、船着場になんて居るのだろう。どこへ行くかなんて告げていない。わたしに気付いたのかデンリュウが手をこっちに振るのが見えた。もしかしてわたしを…わたし達を探しにきたのだろうか。
デンリュウは出て行った母に置き去りにされて父はひたすらに無関心だったからわたしがご飯をあげていた。でもそれだけで特に仲が良い訳じゃない。実際父もわたしもデンリュウのことは持て余していた。だからわたし達をわざわざ迎えに来たりするほどの何かは無いのに。
やがて船の先がこつんと当たってわたしは船着場に降りた。雪が降るこの空の下で靴すら履いてないことを思い出して誰にも見せたことのない痣だらけの身体に背筋が張り詰める。今までずっと隠してきた。誰にも見られないように悟られないように長袖と長ズボンを履いて。どんな目で見られるか分からなくて隠そうとするとデンリュウのつぶらな瞳は変わらずわたしを映していることに気付いてその瞳に戸惑う。そもそもわたし一人だけということも気にも留めていないみたいだ。足の裏が柔らかくて硬くて歯が震える。身体は寒いと感じている筈なのにどうしようもなく熱かった。
「…デンリュウ、何も聞かないの?」
わたし、お父さん殺したんだよ。そう言ってしまえば全てフラッシュバックした。
簡単だった。背を向ける父の背を蹴ったらあっさりと海へ落ちた。いつものようにわたしを汚い言葉で罵りながら船を掴もうとした瞬間、父の頭めがけて釘抜きハンマーを振り下ろした。何度もそうしたら血が飛んできた。夢中だった。濡れた音、父の短い悲鳴が重なっていた。その内、碌にご飯ももらえなくてガリガリなのにどこにこんな力があったんだろうと頭の隅で思えるくらいには冷静さが生まれていた。
手を止めて肩で息をしていると父と目があった。表情のないその目は息絶えたことを示していてどろりと濁っているようにも見えた。そんな目で見ないでよと確かに言った。振りかぶるとぱきゃっ、と独特な柔らかさで潰れて血涙が流れた。片目のない空洞、その穴はわたしをまだ責めていた。だから衝動的に服を脱いだ。見たくなかった。全部捨てたかった。これで逃げられると思いたかった。
「なにしてんだろ…」
けど残ったものはなんだ。ただの罪だ罪悪感だ。いつか裁きの日は必ず訪れる。それよりも罪悪感に押し潰される方が先なのだろうか。殺したからといって父はわたしを解放することはないのだ。何も変わりはしない、寧ろわたしはさらに生き辛くなっただけだ。わたし、なにしてるんだろう。わたしの人生何だったんだ。母は助けはしなかった。いつしか逃げた。父は暴力を振るう手は止めなかった。その手が次第にねっとりとしていった。嫌悪感がなんだ。眼差しの気味悪さがなんだ。酒臭い息がなんだ。今までの殴打の痛みはなんだったんだ。
ひっひっと勝手に喉が鳴って乱暴に拭っているとデンリュウがわたしを気遣うように鳴いた。手を止めて目の前を見れば心配そうにわたしを覗き込んでいる。
「もうころしてよ」
デンリュウに手を伸ばす。指先から震えていて寒さのせいか縋っているのか分からなかった。握ってきたかと思えば突然走り出してもつれそうになりながら必死に足を動かす。訳が分からないままわたしは前方を見た。ほぼ同じ背丈のデンリュウの後ろ頬の横には間隔的に白い息が散る。デンリュウもちゃんと息をしているのだと私も息を吐き出した。瞼を下ろして何もかもを任せたくなった。目が覚めたら、ううん目が覚めなければいい。ゆっくりと瞼を下ろそうとすると急にお腹が痛くなった。その痛みはぐうっとお腹を内側からも外側からも押すような、今まで感じたことのない鈍い痛みで眉を顰めて息を吐くと股からどろりとした何かが這い出た。見れば赤い血が溢れて太ももを濡らしている。思わず笑ってしまう。
「…はは、今?」
急激に身体が体温を取り戻して芯まで凍える寒さにぶるぶると震えてまた笑った。スクールで習ったから知っている、これは生理と呼ばれるものだ。あの日からペリッパーが運んでくるでもなんでもなく、女が子供を産むことを知った。女は生まれた時から女なのではなく強制的になるものなのだと。まだまだ無縁だと思っていたのに、これで私はいつでも妊娠のできる無防備な女、ううん、女そのものになってしまった。それなのに何故だか解放された気がして堪らなかった。もしかしたら、運命だったのかも知れない。生理が来たなんて知れたらそれこそ今後何されるか分からなかった。
向かっている先はどこなんだろう。涙が溢れてよく分からない。なんでデンリュウは手を引いてくれるんだろう。ああでももう分からなくていいや、このままで。私のことは救わなくていいから、今からジュンサーさんのところに向かっていいから、二人で逃げるだなんてことしなくていいから、だけど強く強く、私と駆け落ちするみたいに手を握って、走って、ここではないどこかへ連れて行ってほしい。