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わたし、春人さんより愛しているものはこの世にありません。彼に尽くせることが、わたしの望みで、妻となった今、それはわたしだけの役目になりましたので、とても幸せでした。春人さんのためなら毎日隅々まで掃除することも、洗濯をすることも、凝った料理を作ることも、苦ではありませんでした。褒められること……言ってしまえば、春人さんに感謝されることが何よりも嬉しかったのです。
彼のためなら裸でモデルになることも嫌ではありませんでした。裸婦画、と呼ばれるものらしいですが、知らない人に絵が売られてしまうのは恥ずかしくもあったけど、彼の画家としての仕事を手助けできるのなら、私の恥じらいなんて塵にしか過ぎなかったのです。それに絵の中のわたしは、自分で言うのもなんですが、とても美しく、春人さんにこのように見られているのだと思うと、やめられなかったのです。わたし、春人さんの理想の絵画になれてるかしら、なんて考えて。
裸婦画を描くたびに、春人さんはわたしを抱いてくれました。だからわたしは、絵を売られるよりも、期待してしまうことの方が本当は恥ずかしかったのです。ある時、わたしに覆いかぶさる春人さんが鏡に映るのが見えて、自分のことを小さな真珠のように思いました。貝の間に挟まれるあの真珠です。それほどわたしは小さく、未熟で、恥ずべき存在でした。喘いで、春人さんの唾液を肌が貪欲に吸って、はくはくと息して、わたしの肉体はここにあるのに、まるで甘く肉付けされていくようでした。本当に、堪まらなく、恥ずかしくて、でも、春人さんの愛で辱めてもらえたことが幸せでした。
わたしの身体は、わたしの身体だからこそどうでもよく、わたしのものではありませんでした。春人さんの所有物になりたくて、愛を囁いてほしかったのです。……愛を囁くだなんて、なんて物扱いなのでしょう。春人さんのものになるという以外、何もかもがなくなってしまうのですから。わたしはきっと、春人さんを愛するために生まれてきたのだと思います。そうでなければ、他になんだと言うのでしょう。愛は崩れ易い足場でしょうか。でも、春人さんのまばたきの一瞬になりたいのです。わたしの身も心も押し広げてくれた人はあのひとだけなのです。
春人さんはわたしよりもずっと美しい男性でしたから、目が合うと嬉しくもありましたが、照れてしまいました。こんなにも美しい人がわたしを妻にしてくださったなんて今でも夢のようです。春人さんの背の高さや目や鼻や手の大きさ……全てが好きでしたが、特に唇のかたちが好きでした。とても美しかったのです。
思えば、わたし一人ではどこにも行けませんでした。どこへ行くか選ぶだなんてわたしには難しく、できなかったのです。春人さんに美術館や展示に誘われ、彼に作品の解説をされながら鑑賞した時はそれはもう楽しく、一緒にソフトクリームを食べたのも大事な思い出です。春人さんには感謝してもしきれません。大袈裟ではなく、外の世界を教えてくれたのは、春人さんなのです。
春人さんの握る筆がキャンバスの上を滑ります。今日も私は裸となり、彼に描かれていました。薄い桃色の布を纏い、横たわり、春人さんに向かって足を開いて、腕は嫋やかに伸ばします。地下のアトリエは少し肌寒く、自分の胸に鳥肌が立っているのが分かります。この格好は少し落ち着きません。

「濡れているぞ、なまえ」
「ご、ごめんなさい。春人さん」

恥ずかしいことですが、わたしの股のことです。いつもわたしはこの後のことを想像してしまって、期待に濡らしてしまいます。犬のようです、はしたない。それなのにモデルをしているのですから、動くことはできません。わたしが妻でいいのかと自問してしまいます。
今日で結婚して一年目になります。わたし、この先大丈夫でしょうか……春人さんからは結婚記念日については何も言われませんでした。ですが忘れられていてもかまいません。だって、いつも愛してるって言ってくださいますし、わたしがお祝いしたいだけなのです。冷蔵庫には二人で食べれるような小さなホールケーキもあります。
やがて春人さんは小さなため息を吐くと筆を下ろしました。そしてキャンバスを反転してわたしに見せてくれます。そこにはとても美しいわたしが居ました。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作のヒュラスとニンフたちに登場するニンフのように引き摺り込まれるような魅力があります。……自分で言っていて恥ずかしくなりましたが、それほどこの絵は魅力的だったのです。いつも思いますが、わたしではない別の誰かのようです。

「綺麗です、春人さん……こんなに綺麗に描いてくださってありがとうございます」
「幸せか?」
「は、はい。とっても……」
「そうだな。そんな顔をしている」

春人さんはわたしにキスをしてくれました。わたしは甘えて首に手を回します。春人さんは応えてくれて、もっとキスをしてくれました。わたしはこんなにもキスをされてしまうと、次のことを期待せずにはいられませんでした。

「……退屈だ」

春人さんはそう言うとわたしを突き飛ばしました。台の上に倒れ、強く頭を打ちます。訳が分からないまま、ただ見上げることしかできませんでした。

「お前がそんなに幸せそうな顔をしているならそろそろ潮時だな」

そのままわたしの首を踏みます。息が苦しくなりましたが、そんなことよりも春人さんにお前だなんて初めて言われました。

「なあ、なまえ」

わたしはその先の言葉を聞くのがなんだかすごく怖かったのです。

「オレはこれっぽっちもお前を愛していない。オレにとってお前はどうでもいい存在だ」

……自分が何を考えて、何を思っているのか分かりません。冷や汗が気持ち悪いです。今、なんて言われたのでしょう。

「興味があったんだよ。お前みたいな誰からも相手にされないような女を愛してやり、それが嘘だと分かった瞬間、どんな美しい顔をするのだろうかと」

おねがいです。本当は愛していなかっただなんて言わないでください……
そう言おうとしたら足がめり込み、何も喋ることができませんでした。春人さんの言葉は止まりません。

「お前の身体の曲線は退屈で、裸を描くのはそれなりに苦痛だった。……ああ、でも。具合はそこまで悪くなかった」
「……………………」
「お前、オレの役に立てていると思って嬉しかったんだろう?御門違いだ。あんなものオレの名前に傷が付く。一作目以外は適当な名前で売ったよ」
「……………………」
「何故あんなものを描いたかと言えば、お前を勘違いさせるためと、お前の過程が大事だったからだ。退屈なお前と今から描くお前、二つあればより美しい作品になる」
「……………………」
「意味が分からないか?これから説明してやる」
「……………………」
「今から描くお前は、自殺したお前だ」
「……………………」
「お前にはまだやるべきことがある。まだお前には美しさが足りない。いいか?お前は絶望の中で自殺するんだ。嘘に気付き、目玉や舌が飛び出たお前の表情はさぞ美しいだろう。オレはお前を描き上げる。そしてお前はオレの作品として永遠を生き続けるんだ。そしたらお前のことを永遠に見ていてやる」

足が離れました。咳き込んで、酸素をめいっぱい吸い込み、ようやく返事をすることができました。

「……ほんとに?本当に?本当ですか?」
「当たり前だろう。その為にお前なんかと結婚した」

わたしはずっと泣いていました。目が溶けてしまうのではないかと思うほど涙が出ました。今までたくさん泣いてきたけど、こんなにも泣いたのは初めてです。役に立てることは喜びでした。今、わたしが自殺すれば春人さんに大いに役に立つことなのでしょう。でも、役に立つ喜びなんかよりも、春人さんがわたしのことを愛していなかったことの悲しさや虚無感の方が強く、呆然としてしまいました。本当にどうでもよかったんですね、わたしのことなんか。

「ごめんなさい、死にます……」

差し出された縄を受け取って、輪を作り、輪の入り口に五回ほど縄を巻き付けます。実は昔、何度かしたことがあります。全部失敗してしまったけど。本当は度胸がなかったのでしょうか。
おそるおそる春人さんを見上げると、今まで見たことのないような顔をしていました。わたしを愛していると言った以上の顔を見て、また涙が溢れました。
天井から吊るすのは背が足りないから春人さんがしてくれました。あとはこの台から降りるだけ。本当に、あと一歩だけなのです。
春人さんのものになれない人生なんて、なんて意味がなかったのでしょう。でも、わたしが作品となったら裸になった絵と一緒にずっと見てもらえます。今度こそ、本当に大事にしてもらえるのです。……さようなら、わたしを哀れと思い、ずっと愛してください。


ナローベゼルに閉じ込めて 230308

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