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「おはよう。なまえちゃん」

その声に身体がぴくりと反応してソファーから足がずり落ちた。どうやら寝落ちしてしまったらしい。ぼけた頭で声の主の方へ顔を向けるとマキマさんが立っていた。何故か犬のエプロンを付けている。

「朝食、作ってみたんだ。食べられそう?」

マキマさんの背後にあるテーブルを見れば、トーストと苺ジャムの瓶とバターの容れ物。くし切りのトマトとレタスのサラダと、目玉焼きにソーセージ。まだ湯気の出ているコーヒー。ヨーグルト……どう考えても昨日まで冷蔵庫にマヨネーズしか無かったラインナップじゃない。し、どう見ても私だけ量が多い。

「あの…………」
「どうしたの?私のが食べられない?」

そう。マキマさんは上司である。社会のルール上、上司に逆らうのは宜しくない。職権濫用であっても。

「いえ…朝早くからありがとうございます。あの、顔洗ってからいただきます」
「うん。待ってる」

マキマさんはエプロンを脱ぐと椅子に掛けた。わざわざ持参したのか、と思った。
洗面所で冷水で目脂を取る。幾分頭は覚めたがそのぶん暗い気持ちになる。歯を磨いてから口を濯ぐと歯磨き粉が排水溝に吸われていく。舌で歯列をなぞって思案する。着替えようか。それとも待たせる方が失礼だろうか。

「大丈夫?」

その声に鏡を見る。マキマさんが私を見ていたので鏡越しに服を着替えた方がいいかと聞いた。気になるなら着替えてもいいよ、と言われたが食事中に待たされると不機嫌になることを思い出したのでやめた。じゃあ食べようかと相変わらず微笑みながら踵を返して、私もそれに倣う。背中を見つめながらいつか飽きてくれるといいのだけど、と思う。

「いただきます」

声が重なる。いつもは私の声しかしないのでなんとなく変な気分になる。マキマさんはまずサラダに手を付けた。私は温かなトーストに苺ジャムを塗り……目線が気になるのでバターも塗った。齧ればさくりと良い音がしてたまに食べる一番安い八枚切りの食パンとは全く違う味がした。

「美味しい?」
「はい。とても」
「良かった。ジャムはね、友達が苺をおすそ分けしてくれたからジャムにしてみたの」
「そうだったんですね。濃厚で美味しいです」
「バターも私のお気に入りのやつなんだ。どう?美味しい?」
「はい。クリーミーな感じがします」
「良かった」

私の大したことないコメントでもマキマさんは嬉しそうに返してくれる。嘘偽りなく、かなり美味しい。コーヒーで流し込みながら五枚平げ、ようやくサラダにフォークを刺した。ドレッシングはあらかじめ掛かっている。これもマキマさんの手作りなのだろう。口の中に入れたら、玉ねぎの甘さと酸味のちょうどいい味がした。

「あ、それはね、玉葱を擦り下ろしたの。それから醤油、オリーブ油、酢、砂糖、塩を入れて……どう?美味しい?」
「はい。すごく」
「良かった」

食べても食べても減らないサラダを機械的に口に押し込む。トーストを五枚食べた時点でかなり満腹だが、完食しなくてはならない。し、美味しいから手が止まらないのも事実だ。この後スーツは入るだろうか。
確信を持って言えるけど、一番目に掛けてもらえるのは私だと思う。どうしてだか分からないけれど……いいや誰もマキマさんの本心なんて分からないだろう。それに逆らえる訳がない。最後の一口を食べれば食べ切れた、という安堵感と美味しかった、という充足した満腹感が広がる。だがまだ終わりではない。六つの目玉焼きと、五つのソーセージ。そしてデザートのヨーグルト。一体誰が食べれるのだろう。ごくりと生唾を呑み込む。
連なった目玉焼きを、一つに切り分ける。それをフォークで畳むように刺して黄身が溢れる前に一口で食べた。口の中で潰れた黄身は甘くて濃厚だった。味わって、呑み込む。そして震える手でソーセージを刺せばぷつ、と薄皮が破れた。齧れば熱い肉汁が溢れ出す。よく見れば色が違っていて全てが同じ味という訳ではなかった。ハーブの効いたものもある。ああ、手が止まらない。マキマさんはもう何かを言ったりはしない。自身が空にした食器を前に、私を見ている。食事を終えたマキマさんは閑雅である。一つ一つが優しくて惨い拷問のようだ。早く終わってほしい、と思うがそれには私が咀嚼し続ける他ない。

「美味しそうに食べるね。そんなに美味しい?」
「はい。とっても……」








「う……」

昼食を抜いたけど、それでも満腹感は消えなかった。未だに重い腹を抱えながらアパートに向かう。任務の時は本当に吐きそうで脇腹も痛くなったけど無理矢理堪えていた。しかも鹿の悪魔とかいう大して強くもないのにすばしっこい悪魔なのだから苦労した。思い出しても溜め息が漏れる。
アパートに着いたら靴を投げ出すように脱いで真っ先にソファーに仰向けになった。腹がぽっこりと膨らんでいる。いつ見てもなんだか間抜けだ。スーツは時間が経つにつれてなんとか入っていったけど最初はチャックも上げられなかった。あれも間抜けだった。乱暴に脱いだらようやく締め付けから解放される。ふう、と鼻から息が抜けた。



ピンポーン



唐突なチャイムになんだか嫌な予感がした。でもマキマさんは多忙だからそんなに何回も来れないはずだ。

「なまえちゃん。居ないの?」

ごくり、と生唾を呑み込む。無視するわけにもいかない。部屋着にしているワンピースに着替え、脱ぎ散らかしたスーツをドアに向かう途中にある洗濯機に突っ込んだ。ドアノブを捻るのにかなり勇気を振り絞って、回した。

「マキマさん…どうしたんですか?」
「私のお気に入りの中華料理を買ったんだ。良かったら食べない?」

袋を掲げて見せたそれは例の如くとても二人分の量じゃない。つい怯えてしまった。

「マ、マキマさん。もうむりです。たべれないです」
「ふふ、聞こえない」

微笑んでそう言うと間から押し入ってきた。お邪魔しますとリビングへ行ってしまう。お邪魔しますも何も、朝、勝手に居たのに。少ししてからリビングへ向かうともうテーブルには数々の中華料理が並べられていた。
棒棒鶏、麻婆茄子、麻婆豆腐、回鍋肉、水餃子、酢豚、エビチリ、八宝菜、春巻き、青椒肉絲。どれも艶々している。中華料理には艶々した食べ物が多いと思う。マキマさんは既に座っていて、向かい側の席にも箸と取り皿と白米があった。逃げ場がない。

「さ、召し上がれ」
「…………………」
「どうしたの?お腹空いてない?」
「えっと………」
「こんなに美味しいのに…」

マキマさんは取り皿に棒棒鶏と春巻きを乗せた。先に棒棒鶏を食べて春巻きを齧った。そして麻婆茄子と白米を咀嚼する。次にエビチリに箸を伸ばした。黙々と食べるその様子に、食欲が刺激されているのが分かる。ああ、嫌だ。お願いだから空腹を感じさせないで。腹を空かさないで。

「特にね、水餃子がおすすめなんだ」

箸に掴まれたつるりとした水餃子。具沢山のそれは今にも破裂しそうだ。

「食べない?」

首を傾げて、箸をこちらに伸ばした。私はそれを、受け取った。そしたらもう止まらなくて食卓に着いてマキマさんからプレゼントされた中華料理を次々と平げていった。マキマさんのおすすめとだけあってどれも美味しくて、中でもやっぱり水餃子が美味しかった。中華料理は好きな味付けが多いのだ。好きな味が喉を滑り落ちる。食べれば食べるほど、どんどんお腹が膨らんでいった。ゆるいワンピースの上からでも、分かるくらいに。
最後の一口を味わって呑み込めば、もう食欲は収まった。最後まで美味しくて何不自由のない満腹感はたまらない。ごちそうさまです、と口を開いたところでせり上がってくるものを感じた。急いで口を抑えてトイレに向かおうとしたが腹が重過ぎて動けないことに気付いてしまった。でもこんなところでげっぷする訳にもいかない。どうしよう。どうしよう。

「いいんだよ、なまえちゃん」

マキマさんは手の指を組み、その上に顎を乗せている。

「我慢しなくて」

首を横に振る。涙が溢れてきた。

「強情だね」

それからしばらくずっと私を眺めていた。その視線だけで、私を嬲っている。嫌な時間だった。そうだ、顎を引いたら収まるんじゃないか。そうしようとした瞬間、マキマさんは突然わっと声を張り上げた。驚いて手を離してしまった瞬間、ぐげえっ、と汚い音が自分の口から出た。

「うふふ、あははっ……」

マキマさんは笑っていた。しかもいつもの微笑みじゃなくて大声で笑っていた。恥ずかしくて死んでしまいそうだった。今すぐプラスチック容器を片付けてこの羞恥から逃れてしまいたかった。でも腹のせいでそれも叶わない。

「うふふ、あーあ……おっかしい…ふふ」

ずっと下を向くしかなかった。膨らんだ腹も一緒に見えるけど。

「ねえ、押したら、どうなっちゃうかな?」

ばっと顔を上げる。一気に顔が青ざめた。首が取れるくらい横に振った。

「えいっ」

それはもう、我慢できるというものではなかった。突然の腹への蹴りに一気に中身が口から飛び出した。反射的に手で抑えるけどどうにもならない。指の間から溢れ出てくる。ほとんど消化できていないそれらがぼたぼたとワンピースを汚して、膨らんだ腹から滑り落ちる。辺りに悪臭がし始めた。

「かわいい…」

そのありえない発言に吐きながら驚いてしまった。

「かわいい、かわいい、わたしの、いぬ」

噛み締めるように言っている。逆流はまだ止まらない。
これで何度目だろう。マキマさんも何故このようなことを私にし続けるのだろう。吐瀉物の処理のことを考えると気が滅入る。マキマさんを見る。私をじっくりと観察している。やはり真意は分かりそうにもない。そうか、もうここは私の家ではなかったのだ。


営巣 200919

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