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陽の光が瞼の上で煮えていく。やさしい朝にくちづけされる。窓から差し込んで私たちを照らしている。小鳥の鳴く声が聞こえる。朝が来ている。私はまだまだ眠ったふりをする。あなたに見つめられていたかったり、朝食が作るのが面倒だと思ったらやわく目を瞑る。
そうして彼の起きる気配がする。シーツが音を立てるからわたしはさらに息を潜める。彼がわたしの髪を撫でるとゆっくりと大きく跨ぐ。そして起きなかったか振り返って確認するのだろう。ぺたぺたと木の床を歩く音がして薄目を開ける。
その大きくて広い背中は歩くたびに肩甲骨が動いて、逞しいのにそれが軽やかな羽に見える。いつまでたっても神聖に感じられて、どこへでも行ける気がするのだ。そう、あなたは堅実で自由な人だ。きっとどこまでも行ける。どこまでも。
しばらくするとまな板に包丁の当たる小気味良い音が聞こえてくる。それから鍋に水が注がれて火がついてぽちゃぽちゃと具材の沈む音がする。きっと火炎ジャガイモは多めに入っているのだろう。そう思うと、少しだけ口元が緩んだ。ぐつぐつと煮えるといい匂いがしてきて彼が美味いなと小さく呟いた。火を止めて冷蔵庫から何かを取り出すと油の跳ねる音がした。見なくても双子鳥の卵とオアシスピッグだと分かる。卵は自分のために黒を、私のために白を。そして朝だぞなんて優しい声で言われる。その声で一日が始まるのが好き。

「美味しいか?」

ええ、すごく。
彼の作る料理は基本的に塩と胡椒のみというようなシンプルな味付けで、素朴でほっとする味がする。たまに食べたくなって無言でねだってしまうのだ。きっと、知られていると思う。良かったと笑う彼の、ポトフの皿に手を添える手は無骨で男らしい。ベーコンエッグの乗ったパンを齧りながらそっと彼の全体を盗み見る。
レノックス・ラムという目の前に居る男性が好きだ。硬くて黒い髪の毛、眼鏡が縁取る勇敢な赤の目、小麦色の肌、笑顔の柔らかい……彼の構成するものすべて。魔法に頼らず生きているところが。優しいところが。優しい、ところが。彼の優しさは昔からそういう風な生き方をしていて与える与えないというものではないのだ。習慣というような、伝統というようなもの。名前がついていなければよかった。全てにおいて。
彼のことを愛している。そしてこの愛は彼の赦しで出来ていた。


遠くから川のせせらぎが聞こえてくる。彼に付いて行きながら、もうすぐだと山道を踏みしめる。木々が揺れてさわざわとした音が響いた。風が汗で張りついた前髪を揺らす。あなたが大丈夫か?と振り返るから大丈夫だよと笑って返す。重い荷物を背負っているのにあなたは身軽に先へと進んでいく。私はその背中を眺めてから、暑さに少しだけ目蓋を下ろした。

釣り糸を垂らしてぼんやりと待つ。釣りのことは彼に教わる前はさっぱりだったけど、今では二、三匹釣れるようになった。少ないけれど、自分で釣った魚を食べるのは格別に美味しい。私がただ座っている横で彼は次々と魚を釣っていく。はやくもクーラーボックスが満杯になりそうだ。
この時間が好きだ。彼の言っていたのんびりとして気持ちが軽くなるというのがよく分かる。水音が何も拒まなくて静かで心地良い。それに、彼の好きなものが私も楽しめるというのはすごく嬉しいことだ。
視線をじっと向けていたら目をぱちくりとさせ、どうかしたか?と不思議そうに尋ねてくる。あなたが瞼を開閉する時の、唇同士が離れる微弱な振動が好きよ。
ううん。明日はどんな魚料理にしようかなって考えていただけ。


「今日も大漁だね」
「ああ。塩焼きにするのが楽しみだ」

日が落ちる前でも既にクーラーボックスは、ほぼ彼の釣った魚で満杯になっていた。彼が火を起こしてくれるから私は魚の準備をする。といっても簡単な方法だ。一匹取り出して二本の割り箸を腹の奥まで入れる。小魚はボックス内の氷水で凍死してくれるので楽だ。三回転ほどさせて引き抜くとエラとハラワタが割り箸にびっしりと引っ付いて出てくる。それから竹串で背骨を巻き込むように刺して嵐塩をたっぷりと振れば完成だ。これらも彼から教わったものだ。何匹か用意していくうちに、彼の方も準備が出来たみたいだ。火を取り囲むように背中側から地面に刺して、焼き上がるのを待つ。
目の前でぱちぱちと炎が爆ぜる光景はおだやかな気持ちになって落ち着く。彼の肩に頭を乗せてぼんやりと眺めていると、水筒を手渡された。礼を言って付属するコップに中身を注ぐ。口にすると冷たくて綺麗な水が喉を滑り落ちる。彼は隣でゆっくりと飲んでいる。川の流れる音、風の吹く音、葉の擦れる音、炎の爆ぜる音しか響かない、言葉のないこの時間が好きだ。何も必要とせず、何もしない。ただ彼と寄り添っているだけ。このままずっと、こんな時間が続いて欲しいと思う。幸福で在りたいと思う。あなた達が思うより、ずっと。そんな私を、するかのように炎が一段と強く爆ぜた。

「そろそろじゃないか?」
「うん、私もそう思う」

こんがりと焼けた魚を一匹ずつ取る。いただきますと言ってから一緒にかぶりつく。嵐塩が身の甘さを引き立てていて、淡白な旨味が口の中に広がって美味しい、と思う。そのまま咀嚼すると皮から油が染み出てまろやかになる。ごくりと飲み込むと身体が軽くなった気がする。大自然の中で食べるものはいつもより特別だ。

「美味いな」
「うん」

彼の一口は大きいから私が食べ終わる前に二匹目に手を伸ばす。彼の気持ちのいい食べっぷりが好きだ。少ししてから私も二匹目を頬張る。彼を見ながら美味しいと再度思った。


完全に暗くなる前に竹串のゴミを袋にまとめて、簡易用の椅子を畳む。クーラーボックスの水を抜いて火の後始末をした。もう終わりなのは名残惜しいけど、今日は泊まりで来たわけじゃないからはやめに下山した方がいい。夜の山は危険だから。

「楽しかったな」
「うん」

彼の隣を歩きながらそう言った。木々がまた音を立てている。
家に着いてすぐに魚を冷蔵庫に入れた。一匹二匹と入れていくと唐突に彼があ、と声を上げた。

「忘れ物をしてしまった」

振り返ってそうなの?と問いかければ頷いた。もう遅いから明日にするのかと思えば探してくると言うのだから驚いた。

「でももう暗いよ。大丈夫?」
「明日必要なものだから…それに多分、落とした場所はそれほど遠くないと思う」
「そっか…気を付けてね」
「ああ」

彼はランタンを手に取り、行ってくると出ていった。追いかけるように扉を開けたら彼の背中と灯りがあった。迷いなく山へと向かっていて完全に見えなくなるまでずっと見ていた。見えなくなっても、ずっと。
そっと右手に息を吹きかければ魔法が解ける。手首を動かすとマナ石となった指先がきらりと光った。その色が、あなたが褒めてくれた私の髪色と同じなのだから悲しくなる。これを砕けば、指を失ってもただの魔法使いに戻れたらいいのに。諦めるように扉に寄り掛かったら、また風が吹いた。
私は随分と珍しい死に方をしていっている。まだ魔法で誤魔化せる範囲みたいだけど、隠し通せるのと、私が死ぬの、どっちが先だろう。死んだら食べて糧にしたっていいのよ。あなたはきっと土を掘ってやさしく埋めるのだろうけど。そしてお墓を建てるのね。この土地を離れてしまっても一年に一度くらいは律儀に苔を取り除いては水を換えて花を手向けるのでしょう。死んでもあなたが向けるであろう愛に泣きそうになってしまう。
でも、なんとなく初めて出会った時から私はあなたよりも長生きできないのだろうと思っていた。恋人になってもずっと思っていた。そうしたら、想像していた未来よりひどいことが起こるだなんて思いもしなかった。死にたくないと思う。まだ待って、と思う。あなたと離れたくない。でも私は、ようやくあなたを解放できると思えて仕方がないの。あなたは堅実で、自由な人だから。
……ああ、そうね、私はずっと、私から別れを告げる惨さの伴わない永久の別れが欲しかったのかも知れない。


逕庭 200829

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