complex | ナノ
過去に、男性も女性も好きになったことがある。でも相手は私が女であるから私のことを好きであった。こんなことを思い出すようになったのは完璧な愛を与えられるようになったからか、それとも夜になると無性に不安になり無意味に過去の記憶に苛まれる私の性分のせいなのか。愛が無かったなんて言うつもりはないのだけど、でも最近それを少し寂しく思っていたことを知った。
窓の外はごうごうと音を立てて吹雪いていて、一本の木が揺れ動いている。その荒々しい光景をただずっとぼんやりと眺めていた。
「不安なの?」
静かだった空間に一滴の蜜のような声が落ちる。振り返ればマキマさんが居た。和室を背にして浴衣姿で、私が最後に見たのは眠った姿だったからか少しだけ帯が乱れていた。
「不安になるとなまえちゃんはいつも窓の外を見るね」
にこりと笑うと広縁に足を踏み入れ、向かい側に座ると肩の上でその髪が揺れた。真っ直ぐに私を見据えるとまた笑う。
「それも大体、寝る前」
「……ごめんなさい。起こしてしまいましたか」
「ううん、全然。突然ね、目がぱっちり冴えちゃっただけ」
エアコンのおかげで室内の温度は一定に保たれているというのに私の身体は急激に熱くなる。どうしてもマキマさんを前にすると体温が上昇して、少しの冷静さを奪われる。マキマさんは窓に目を向けるとすごい吹雪だねと呟くように言った。私も同じようにして、二人して同じ世界を眺めている。
ひたすらに静かであった。お互いの呼吸音も掻き消されてしまうほどの。輪郭さえ朧げになりそうな時に、思い出したかのようにマキマさんは私を見た。マキマさんは私を目にするとよく笑ってくれる。そして笑みはいつも同じ形で。
「どうして泣いてるの?」
分かりません、と答える他なかった。不安だから。突然に。マキマさんが綺麗だから。……分からない。
デートしようか。この始まりの言葉を思い出す。デートと形容されたそれは二人揃って有給休暇を取って北海道に旅行しに来ているのだ。眠れば明日には帰らなくてはならない。
マキマさんはガラステーブルに両手を付くと身を乗り出して顔を近付けてくる。乱れた帯がマキマさんの胸を露わにさせようとする。赤毛のような髪が肩から零れ落ちる。睫毛が長い。唇で瞼に触れられる。私に寄り添う時のマキマさんはいつだって無防備で。そして。
「私以外の誰かのこと考えてたの?」
頷く。
「大丈夫だよ。私はなまえちゃんがネズミの時から好きだったんだから」
私が雪山で惨殺され、その死体が雪で覆い隠されていくのを、私自身が上から眺めているのをほんの一瞬だけ想像した。あっという間に私をそう出来る力を、マキマさんは持っている。それでもマキマさんはそうしなくて、わたしは彼女と映画二万本くらい一緒にいたいと思っている。
溢れた涙を、辿るようにして瞼の上まで舐められる。視界が一瞬だけ彼女の舌で暗くなった。
「私の目を見て」
鼻と鼻が触れる、ほどの距離。少し前髪がかかりそうなマキマさんの目を見る。目が離せなくなる核のような、その目。
「そう。いい子」
きっとあなたはその眼球でわたしを飼う心地をしている。