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目が覚める。と言うより、わたしの場合は意識が浮上するという感じだろうか。広いベットから起き上がったら洗面所へ向かう。いつもの位置にある歯ブラシと歯磨き粉を手に取って口の中を磨く。ゆすいだら歯磨き粉が残らないように口元を拭う。洗顔料を手に取る。泡立てて顔を洗ったら、前髪の生え際まで水で流した。柔らかいタオルで拭いたらテーブルに向かう。イスに座ると良いにおいがした。ミートパイであることが分かる。今日ははやめに起きれたらしい。
切られていることは知っているからとりあえず二切れを手に取り、皿に乗せる。手元にあるフォークで崩して口にすればさくさくとした歯応えを感じてバターの香り高いにおいがした。合挽き肉がたっぷりと入っていて味付けが濃い。たまねぎとにんじんも大きめにカットされている。うん、今日も非の打ち所がないくらい美味しい。水の入ったピッチャーを取ってコップに注ぐ。飲めば舌の上の油分が明瞭化し、別に嫌なわけではないけど思わず上顎を舐めた。横のサラダも新鮮なレタスでミニトマトはちょうどいい酸味だ。ドレッシングはかけられていない。わたしの好みだ。残りのミートパイも堪能しながら完食して、食器を持って流しに置いた。あの人は洗わなくていいって言うからただ水に浸すだけ。いつ洗ってるんだろう。手探りで探すけど使った食器以外特にない。朝食を作っている時だろうか。まあ、知ったところでどうにもならないんだけど。
テーブルに戻ってラジオをつける。天気予報、占い、ゴシップを聞き流す。この安物の古いラジオは初めからわたしが持っていた物だ。あの人からはいい加減買い直したらと言われる。何故手放せないのか自分でも分からないけど、きっとわたしを証明できる最後の物だからだ。でも壊れたのなら躊躇なく捨ててあの人に買い直して欲しいと言うだろう。今日も疫病と死人の報せが流れていた。
あとは眠る時間になるまで時間が過ぎるのを待つだけだ。特にやることもなく、娯楽も限られているから毎日時間を持て余している。カーテンを開けて日光を浴びながら丸くなる。あたたかな日差しは心地良い。少しだけ眠り、それから起き上がって壁際のテーブルのレコードをかけた。これはあの人からもらったものだ。レコードは一枚しか必要が無いから流れる音楽はいつも同じ。懐かしいメロディが聞こえてきたらイスに座ってテーブルにもたれて耳を澄ます。女の高らかな歌声が聞こえてくる。記憶とはいつも違う。ぼそぼそと囁くような声だった。多分、母親かメードの声だ。それだけ覚えている。どんな視界で聞いていたのかはよく思い出せない。手をひらひら揺らしたらブゥーンと羽音がして虫が手の甲に止まる。太腿に手を置いたら大人しくわたしの膝の上に乗る。撫でると毛の生えた犬猫でもないから手触りはあまり良くない。それに中々重たい。でも所詮、時間は持て余しているから。
この虫は、わたしを傷付けたことのある虫なのだろうかと思う。監視役の虫はわたしがこの部屋から出られる扉を開けた瞬間に襲い掛かってくる。三回、は逃げようとしたのかな。両目と片腕と内臓のいくつかを失い、目と腹には縫合痕がある。虫にとって撫でられることは気持ち良いのか分からないけど呼べば必ず来る。そっちの方が監視しやすいからかも知れないけど。レコードからの音楽に合わせて短い舌で歌ったらあまりの醜さに口を噤んだ。思い出までも穢してしまいそうだった。昔のことはこの歌声くらいしか覚えていない。塗り替えるような真似はしたくない(まだ舌があった頃、彼の前で口遊んでいた。朧げなメロディで歌っていたのによく見つけられたと思う。わたしはこれを聞いて過去に浸っている。……やはり、あの歌声を聞いた時はわたしは抱いてあやされていて、窓から日が差し込んでいたように思う)
昼の空腹感には紅茶で済まして、音楽を聞きながら虫を撫でてはぼんやりとする。飽きたら席を立ってまたラジオを聞いた。外の悲惨さを伝える報せはまだ止まない。そうしてる内に部屋は幾分か寒くなって日が沈んできたことが分かった。明かりをつけて、あの人が帰ってくるのを待った。

「ただいまー」

間延びした声が聞こえた。立ち上がって扉に向かう。わたしを抱きしめたのなら、覆い被さるようなキスをしてくる。舌が唇の間に割入り、わたしも短い舌を伸ばした。少しだけ血のにおいがした。今日はとても長いかも知れない。唾液を飲ませ、わたしの舌先を舌でなぞり、歯列も、上顎ですら。時折下唇を噛まれる。わたしを掴む手は脇の下をなぞり胸を持ち上げるようにして、布越しから指で刺激される。首の裏から熱くなっていく。

「ついちゃったね」

唇をなぞられる。彼の口紅のことだ。口の中に溜まったお互いの唾液をごくりと飲み込む。抱えられて、わたしはその身体に擦り寄る。どうせ、すぐに終わることだけど。

四肢に染み渡るような愛撫は容易くわたしを白痴にさせる。わたしに目があればこの黒い視界は今、色鮮やかにふやけているのだろうか。吐息が肌を掠め、互いの体温に恋している。異物が空洞を満たした時、わたしはこの世に存在しているのだとようやく自覚できる。そして身体は吐かれる欲を執拗に求める。吐き出された白濁を腹の中で愛撫することを望んでいる。舌ったらずな喘ぎ声を洩らして、熱に浮かされた身体は汗で湿っていった。

彼とのセックスを済ませたら何も出来なくなる。気絶してもわたしの身体を使い続けるのだから当然だ。それに今日は血のにおいがしたから、特に。ベットサイドの皿の上にある生でも食べれる果物や野菜はどうせ穴あきチーズのように無残だけど芳しいにおいがしてくる。わたしはそれらを手に取らず、何故か強請ったトーストになんとか手を伸ばして口にした。起き上がった彼は皿を片付けてからわたしを抱えた。分かってる。浴室へ向かうのだ。立つ気力もなく、バスタブに横たわるわたしは彼の手によって身綺麗になっていく。熱いシャワーを浴び、バラの香りのするシャンプーは一度使っただけで指通りが良くなるし、コンディショナーはさらに助長させ、艶の持った動物の毛並みのようになる。ボディーソープはザクロの香りがして肌をしっとりとさせ、この人と同じにおいにさせる。泡が流れたら、あの人が満足げに笑った気が、した。湯船に浸かり、背中にはあの人が後ろから抱き締めている。わたしの髪を弄っていたかと思えば手を掴んできて引き寄せられた。

「爪、伸びてきたね。あとで切ってあげるよ」

その声は浴室に反響して、優しく耳に届く。この人のことは、とても、甲斐甲斐しい人だと思う。普通、奴隷だったら……そもそもわたしの立ち位置は奴隷なのだろうか。言ってしまえばただ監禁されているだけだ。他のことについては充分過ぎるくらい、満たされている。全てのものはいつも通りの位置にあるし、料理はいつだって完璧な味で用意されていて、部屋は綺麗で清潔である。唐突にこの人の姿を忘れそうになって記憶を手繰り寄せた。黒い瞳、黒い爪、黒い翅。まだ覚えている。でも随分と朧気になってきた。失ってから知ったのだけど、目を失くしたら面影は胸の中にしかなくなるのだ。
縫合痕をなぞられる。欠けた腕の先も、無い目を覆う瞼も。その指先には愛が伴っている。伸びた爪ですら愛おしげに指の腹で握っている。彼がわたしという女を愛してることがよく分かる。でもわたしは取るに足らない女だ。どこにでもいる、ありきたりな女。こんなにも強く彼に愛されることがいつまで経っても分からない。背中に当たる彼の身体にはいつの間にか傷があるし、髪の感じも変わり、右手も変わったように思える。わたしの知らない間に様々なことが変わっている。これからも。
抱き抱えられてタオルで丁寧に全身を拭かれる。ドライヤーで髪を乾かしたらブラシを通して、服を着せられる。ベットに座らせたら手を取り、爪を切り始めた。ぱちんと弾けるようなあの音だけが響いている。三日月の形がしているのだろうか。足の指に触れられる。この人は今、わたしに跪いてまで爪を切っているのかと思う。あの黒く彩った爪で。爪やすりで形が整えられていく。全てが終わったらすっかり丸く整った爪を指の腹で確かめるように触って、あの人は笑った。
わたしをベットに寝かせ、わたしの髪を何度かすいたあと、耳のにおいを嗅ぎ、おやすみと囁いてキスをした。すぐに寝息が聞こえてくる。この人は寝付きがとても良い。わたしの胸に腕を置いてやわく抱き締めるようにして眠っている。
全ての仕草に愛があるこの人が死んだらわたしは処分されるのだと思う。この場所で彼以外の人に必要とされていないし多分、認知もそんなにされていないのではないだろうか。
この人のことは愛していない。それでもこの人はわたしを愛している。この人は死ぬ瞬間までわたしを愛していると思う。不思議な人だと思う。焦がれたら献身したくなるものなのだろうか。でもわたしも身体の一部を奪われ、監禁されて、いつかは処分されるというのに何とも思わない。この人は死んだら地獄に落ちるのだろうか。わたしも天国に行けるほど清い人生を送ったわけじゃないけど。 結局、わたしはこの人の腕の中で死を迎える。ああ、そうだ。そうだったな。そういえば逃げ出すたびにより甲斐甲斐しく、強固になった。
……言葉にするのなら、この危険な世界で、守ってくれるのはこの人だけだった。そしてこれはわたしの理想だった。与えるより、与えられる方がずっと楽だった。雛のように口を開けるだけで良いのならそれ以上のことはない。いつまでも鈍感であれるのなら。記憶の中の朧げな母を思い出す。こんな人だったのだろうか。
朝になれば、この人はまだ眠るわたしにキスをする。髪から臍まで。何かを探し当てるような、確かめるような、痕を残したいかのような、そんなむずがゆい動作で。わたしは眠っていたり、眠った振りをする。この人に出会わなかったとしても、この人ほどわたしを愛してくれる人は居ないのだろうと確信できる。もしかしたら、与えられたのならいくつか奪われても良いのかも知れないと思い始めているのかも知れない。

だからといってこの人は、そうまでしてわたしを愛してつらくはないのだろうか。


茎と蕾 200505

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