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手首を切って湯船に入る。熱くはなくて、人肌のような、水から出れば少しの肌寒さを感じるような、その程度。じわじわ血が滲んで海月みたいにゆらゆら揺れてる。そういえば血にも骨は無かったなと思いながら。うっすらと全体的に真っ赤になった時、飽きてしまった。毎回そうだ。そして毎回絶望する。何に?分からない。怖いのだろうか。死とは一度きりだけど想像が付かないものだから。本当に意識が消えるのかそれとも本当にこの世を漂い続けるのか本当に天国と地獄があるのか。死は死んだ人のものだから分からないけれど。お風呂の栓を抜いて風呂場から出た。

「またやったの?」

シャワーである程度流すけどやっぱり多少は鉄のにおいがするのか彼は鼻をひくつかせた。タオルで水滴を拭う私は中途半端に半裸で、その言葉にただ頷くしかなくて視線を逸らしてまた拭き始めた。ふうん、とだけ言って彼は私の肌に指で触れて舌で味わって鼻で楽しんだ。それからじゃあねと何事もなかったかのように消える。幻影のような人なのに何故私は彼を実体があるかのように扱ってしまうんだろう。完全に消えるのを見届けてから食パンを焼いて牛乳を温めた。

教室に入れば民生くんが居た。やっぱり彼とすごく似ている。けど同一人物ではなくて限りなく似ているというのがしっくりくる。一卵性の双子のような。やはり私はどうしても彼を実在しているかのように扱いたいみたいだ。変なの。
彼が現れるようになったのはいつだったか。遡るには昔のことを思い出すしかないのだけど何も覚えていない。毎日今日のことしか記憶できない。人生が宗教だとしたら教祖は唯私で信者は唯一人私だ。そんなことを考えていたら先生が入って来て今日も一日が始まる。
先生、クラスメイト、もしかしたら鑑賞用植物にでさえ自我があり、それぞれの人生があると思うと何とも言えない気持ちになる。さらに自分もその内の一人だと思うとなんだかやるせない。同じ地球の下に居るけれど決して相容れないから。こんなこと考えてる時点でかなり肥大化した大きな自我があるのは間違いないのだけど。
自分も他人も等しく興味ないからうんざりするほど一人でいるかうんざりするほど誰かと一緒にいるしかない気がする。それが寂しいって感情、育っていく過程で認知できなくなったのか、そもそも生まれ持たなかったのか忘れた。そんなことばかり考えていたら空は赤くて今日も学校生活が終わった。意味が分からない。こんなことばかり考えて死んでいくのか。でもそんなことを気にする意味もない。私が死んでも、時間は無限に流れ続けるから本当は全部に何も意味なんてなくて時間の中で勝手に生まれて勝手に死ぬだけ。

その日、夢を見た。生肉が吊るされていて濃厚な血のにおいを誤魔化した漂白のにおいがした。吊るされている肉は私には豚か牛か人間か分からない。でも背丈の倍以上あるから私の知ってる生物ではないのかも知れない。無数の肉は中身が抜かれて均等に距離を開けながら吊るされている。どこを裂かれているのかさっぱりだけど、夥しい鮮烈な色だと思う。
無数の肉を無視して歩いていたら案外どこにも辿り着けなくて疲れてしまった。座り込んでしまったらお風呂のタイルみたいな水色の床はひんやりとした。なんだか気持ち良くて横になってそのタイルに頬ずりした。そしたらいつの間にか寝てしまったみたいで私の意識は浮上した。変な夢、と思った。あの独特なにおいはまだ鼻についた。この日は手首を切るつもりがなかったので彼は現れなかった。

生きることも死ぬこともよく分からない。だって私が居ても居なくてもなんの支障もないから。それって存在しないのと同じ意味でしょ。他人の記憶に残ることをしたら意味があるのかも知れないけどそんなのも面倒くさいし何より私に関係ない。結局私が何かに興味を持たなくては意味がない。だって愛に近しい感情しか持てなくなってしまうから。全てに等しく興味なくて、全てに平等であるから楽しいことも不幸なこともない。だから人生の感想はつまらないし手間暇かかるし無駄に長いとしか。
帰り道、トンボが交尾してた。あんまりにも動かないから動画で撮ろうとしたらいつの間にか居なくなってた。多分意外と長かったんだと思う。着床したのかなと思った。私もただ親が交尾をして絶頂して誕生したということを思い出した。

ぎりぎりで生きているからある時ぷつ、と切れて機能しなくなればいいのに。そしたらきっと眠れるみたいにこの世界から失われる。血みどろバスに飽きたら彼が居てお風呂場にまで来るのは初めてだった。左手を差し出している。その手の甲には口と歯並びの良い歯と血色の良い舌がある。私は風呂の縁を掴んで自身の舌と絡み合わせた。唾液に味はない。ただなんとなく口の中に蓄積されてぬらぬらと存在している。離れれば唾液の糸がぶつり途切れた。特に興奮はしない。彼は満足げに笑ってふっと消えた。何もなかったみたいに痕跡はない。
自分の身体を見る。希釈された血の底に私の身体があって……
ああ、そうか。私怖いんだ。着床した記憶もなければ子宮の中で羊水に浮かんだ記憶もなければ分娩室で泣き叫んだ記憶もないのにこの世に存在している。絶望してるのは、もう羊水には帰れないということに。原初の記憶すらないのに自分の生についてどう受け止めたらいいか分からない。掻き集めた夢の残滓の中でなら私は何者にでもなれるのにね。
今日、民生くんに話しかけてみようかな。実は同一人物であったとかなかったとか。劇的な何かはないかも知れないけど、でも生きていたら少しずつ死に近付いていて、だからその時間を民生くんと過ごせるのはすごく幸せなことなんじゃないかな。

「ねえ」

いつ話しかけようかと思っていたら何でもないようにすっと話しかけられた。話したのはこれが初めて。

「最近夢に君が出てくるんだよね。君は俺の夢を見る?」

そんなこと言われてもどう答えたらいいか分からない。それに彼は夢というより、実体を持った白昼夢のようなものだ。だから家に来る?以外の返答が思い付かなかった。

「君がやったの?」

首を傾げてみせる。彼はまあ別にどうでもいいけれどと檻の前でしゃがみ込んだ。

「酷いことするね。もう殆ど原型を留めてないし卵も産みつけられてる」

その声ははまるで私を責めていない。むしろ声音が弾んで目がうっとりとすらしていた。民生くんはしばらく眺めていると急に立ち上がった。

「腐った血のにおいで高揚しちゃった。ねえ」

ここに居るのは男と女だ、という一文を思い出す。馬鹿野郎、交尾の最中は等しくどいつもこいつもオスかメスだ。

吐息が重なり合っている。結合部からは貫かれてぐじゅりと音がした。ぐじゅりっておかしいかな。腐ってるみたい?
民生くんは私の肋骨を握って、肋骨を握るなんて中々ないし、それに中性的な顔に似合わず意外とがっしりしているからなんだかくらくらした。挿入しやすいように片足を曲げて肋骨を揺さぶられては胸が揺れた。民生くんの首に手を回して時折、襟足の伸びた髪に手櫛した。背中には壁。彼の肩の向こうには檻がある。
今回も、また父親を殺してしまった。でも夢の存在だから別に血の繋がりだとか…ううん、元より男だから何もないか。子宮の中で十ヶ月過ごした記憶はなくとも母親から生まれたのはなんとなく分かるからやっぱり愛着があるのは母親だけだ。でもその人の顔は全然知らない。私を捨て置いたらしい。そもそも望んでいなかっただとか。父親の顔も……もう全然覚えていないけれど。
やっぱり意図的だ、意地悪だなあ。でも夢で会えたとして小さな頃、母親を知らなかったという事実はもうどこにも行けない。この夢って、なんだか懺悔室みたい。大昔に私が親を殺した事実は変われないってことを何度も教えられる。だって今回も殺した。どうしても現実であれ夢の中であれ殺したくなってしまう。そして毎回後悔する。夢の中の幻の命であったとしても。
達したのかめり込むようにしてぐっと奥を刺激された。馬鹿な身体は素直に反応して足先がぴくっとした。性行為というのは限りなく性のにおいがして卵子と精子には生と死のにおいがする。命を生み出すのに命であるが故に終わりがある。面白いね。誰だって死ぬ時はものすごい快感に包まれて安心して死にたいって思わないのかな。だって羊水の中はきっとすごく………

「んん?」

着床しないことは知っているからそのまま身を任せていたら突然不可解な声を上げた。顔を上げてじっと見られたら私も民生くんを見るしかなくてお互い黙って見つめ合っていた。よく見れば民生くんの目には下壱と刻まれていたし髪型も同じで牙もあった。民生くんは昔の友達に会ったみたいに顔を綻ばせた。

「あれぇ、また会えたね。今度はどんな夢を見たい?」

私はすかさず昔の夢を見させて、と答えた。


轢死体のように眠ります 200129

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