complex | ナノ
私の頬には大きな傷痕がある。血鬼術のせいで初めは小さな傷であったのにぼこぼこと意思を持ったかのように頬の上で暴れ、大きく裂かれて火傷のように爛れてしまった。すぐさましのぶ様がその鬼の頸を刎ねて、蝶屋敷で治療を受けたけれど完全に元通りにはならなかった。しのぶ様が力及ばず、ごめんなさいと頭を下げられたことを覚えている。
それから私は人前に出るのが恐ろしくなってしまった。嫌でも目につく傷痕に、ひどく嫌悪して泣きたくなった。裂かれた傷は大きく盛り上がって膿んだような見た目で、まるで腐って腹が膨れた魚みたいだった。隠として役目を果たすのも完全に顔を隠せる訳じゃない。見られたら、と思うと何も出来なくなった。そんな私を見兼ねてかしのぶ様は看護師になりませんかと私を誘ってくださり、思いがけない提案に驚きましたがまだ人の役に立っていいと言われた気がして有り難く了承しました。でもいざ看護師になると貴女は何もしなくていいのよとしのぶ様は微笑みました。私の唇に触れて、様付けも止めるようにと。あまりの妖艶さに、仰られた通りに呼び捨てで呼んでしまいそうになりましたが、震えた声でしのぶさんと呼びました……
朝、目が覚めれば顔を洗って身支度を整えて、しのぶさんとの朝餉を用意して、一緒に食べて、しのぶさんをお見送りして、部屋の掃除をしたり布団を干したりして、本を読んで昼寝をしたりして、帰ってくる前に夕餉を作って、しのぶさんをお迎えして、また一緒に食べて、食後にはしのぶさんの淹れていただいたお茶を飲んで、恥ずかしいけれど一緒にお風呂に入って、一緒に眠った。怠惰そのものの様のような為体で看護師と言うよりただの身の回りを世話をするだけなのだけど、やっぱり誰にも顔を見られることがないというのはどうしようもなく安心した。
正直、しのぶさんのことはそこまで存じ上げなかった。元々蟲柱という手の届かないお方。どうしてこんなにも気遣ってくださるのか分からなかった。それをしのぶさんは、貴女が好きだからですよ、と言った。
顔に醜い傷痕ができただけで何にも出来ないこんな私におはようと言ってくださり、作った御飯を美味しいと食べていただけて、髪を洗い合ったり、他愛のない話をして眠って、あまつさえ私のことを好きだと言ってくださって、私の全てを許してくれて………少しでもしのぶさんの為になれるなら、私はどうなっても構いやしなかった。

夜が深まれば布団に入って、うつらうつらするまで話し合う。私はずっと蝶屋敷に居るだけだからほとんどしのぶさんの話に耳を傾けるだけだけど、その美しい声音は、例えば蝶が闇夜に飛んで金の鱗粉を流れ星のように落として、その鱗粉たちが月の光を受けて反射してきらきらと輝くような美しさを伴う声音は、聞いているだけで私の髪を撫でるかのような心地よさがあった。他愛のない話に笑って、相槌を打って、そうしていたら少しだけ空気が変わった。

「なまえさん…」

一つだけ違うのはお互いが裸であること。月だけが照らすこの部屋の中でしのぶさんは覆い被さるようにして、私の傷痕にさりさりと触れる。親指で慈しむように撫で、しのぶさんの豊かな胸が重たく静かに揺れた。青白くて仄暗い、微かに光を帯びたような気さえするしのぶさんの身体に、あまりの神秘さに、毎回触れていただいていいのか分からなくなる。でも、泣きたくなってしまうほど安堵した。

「ごめんなさい、あの時、私がもう少し速ければ…もっと私に技術があれば…」
「いいんです、気にしないでください。私、もう他になんにも要らないですから……」

けれどもしのぶさんの綺麗な眉は申し訳なさそうに歪められる。私はこんなにもしあわせなのに。しあわせを具現化したような時間であるのに。しのぶさんの髪が肩から零れ落ちて、その流れに蝶が揺れる面影を見た。

「……綺麗」
「……なまえさんの方が綺麗ですよ。私よりも、ずっと」

そして私の首筋に顔を埋める。蝶が私に降り立った幻覚さえ見た。人肌がぬるく伝わってしのぶさんの豊かな胸が私の薄い胸を柔らかく覆う。同じ髪洗い粉である筈なのに、しのぶさんからはひどく甘いにおいがする。私の首筋を柔く吸って唇でなぞって舐めたりしてはやがて蝶が花を啄ばむような優しい口吸いをした。鼻と鼻が触れ合う。しのぶさんの長く伸びた睫毛が見える。離れれば藤色の瞳が瞬いてその小さな唇から愛していますよ、綺麗ですよと囁かれる。そう言ってくださる度に私の呪いは溶かされる。完全に溶けることはないのかも知れないけど、いつかちゃんと自分の顔を愛せるのかも知れない。
しのぶさんが私の太腿を持ち上げる。私たちを愛するために必要なものは、華奢な指と私たちを映す瞳と濡れる舌尖と愛を囁く唇だけ。本当に私これ以上なんにも要らないんですよ。




雨音で目を覚ました。まだ寅刻なのか辺りは薄暗くてぼんやりとしている。ぽつぽつと雨が窓を叩いて雨のにおいがして憂鬱になった。雨の日は頬の傷が痛むのだ。それに雷も鳴っているみたいでさらに憂鬱になる。目が完全に覚めてしまったから顔でも洗おうと立ち上がろうとした瞬間、手首を力強く握られた。いつの間にかしのぶさんが起きていて驚いてしまった。

「どこへ行くのですか?」
「えっと…目が覚めたので顔を洗いに…」
「なんだ、そんなことでしたか。いってらっしゃい」

帰ってきたらしのぶさんは鏡を見ながら髪を梳いていた。寝癖を直すために丹念に撫でつける度に、薄い背中に浮かぶ肩甲骨が動いて翅みたいだった。

「ふふ、見惚れちゃいました?」

櫛を置いてしのぶさんが振り返る。髪がふわりと揺れて、女神を前にするような自分の浅ましさに恥ずかしくなって思わず否定してしまった。

「そ、そんなことは…」
「嘘をついたって駄目ですよ。そうですね、時間はまだまだたっぷりありますし」

しのぶさんは私に近付いて唇をなぞって共犯者かのように笑みを深めて耳元で囁く。

「愛し合いましょうか」

そんなまだこんな朝方からせめて布団で、という言葉はしのぶさんの口吸いによって吸われてしまった。






なまえ。美しいひと。なまえ。私の、美しいひと。なまえ。貴女には頬に大きな傷がある。貴女が女性としての価値が大きく損なわれたことが分かる。そんな目で見る奴が居たら殺してやりたいと思うが、誰が見ようと明らかな、傷物だ。
なまえ。貴女は愚か。何もかもを信じて疑わない。ずうっとそうであって欲しい。貴女の魅力を誰も気付かなければいい。叩いたって、こわれないこの繭の中で。本当は頬の傷なんてもっと目立たなくすることなんて出来た。貴女がそんなにも気を病む必要なんてなかった。でももう何もかも遅い。私のせいで一生治らないその傷痕、私を無心に信じる貴女の透き通った瞳。身が痺れて、背徳感と罪悪感でめちゃくちゃになってよく分からなくなってしまっているんです。なまえ。貴女は愚か、けどやはり、私が一番愚かで畜生以下だ。
なまえ、貴方は私を蝶のようだと言うけれど、私はそんなに美しい生き物なんかじゃありませんよ。私は貴女のことを思いやる振りをしながら、本当は自分のことしか考えていなくてそれを悟られぬように嘘で塗り重ねているんですよ。繭で閉じ込めて、この蝶屋敷で誰にも貴方に気付かず、そして死んでしまったらいいのにと思っているんです。これが飼い殺し以外、何でありましょうか。私の甘言という毒で知らぬうちに麻痺していって、私から離れられなければいいのにと。ほら、美しくないでしょう?蚕蛾の方がよっぽど相応しいとは思いませんか。
傷跡を唇でなぞる。ざらざらとして、愛おしい。貴女と私を繋ぐ証。私はあの鬼に感謝すらしているんですよ。
ああ、なまえ。貴女が私との子を孕んだら良いのに。貴女の胎内に宿ること、貴女の胎内で生まれ直すこと、貴女の遺伝子に私を刻めること、どんなに素敵なことでありましょうや。それは二重の意味で叶わないけれど………
剥き出しで無防備な腹に耳を傾ける。薄い皮膚越しに伝わる、ぼこぼこと鳴る生命の活動音。ひどく安心する。瞼を下ろして胎児のように丸まりさえすれば貴女の胎内に居る気さえする。貴女の子宮の意味なんてとっくに奪っているのに。
お茶に、何が入っていると思いますか。少しの藤の花ですよ。私が死ねば、貴女はいつか私以外の誰かを好きになるでしょう。そしてどこぞの馬の骨とも分からぬ輩の子を孕むかも知れない。私の指以外を侵入させるのはカッと頭が熱くなるくらい嫌だけれど、それを知るのは貴女が男を好きになって自身の身体を許した後から。そんなこと露知らず、私のことを好きだという貴女が好きよ。私が死んだって、貴女を手離したりなんて、そんな薄情なことしませんよ。けど私を恨むか、憐むのかの二つに一つでしょうね。

しとしとと雨が降っています。こんな雨の日ではきっと傷が痛むのでしょう。可哀想に。
ねえ、貴女は覚えていないけれど、実は私たちが初めて出会ったのもこんな雨の降る日でした。雨の日は好きですよ。貴女のことを思い出すから。それが重なって、情欲に掻き立てられて、発情期みたいになってしまって、はしたない。どうか許してくださいね。
疲れて眠るなまえの鎖骨を噛む。そして胸元に口付けを落とす。私が食むのは、唇から奪うのは貴女の白い肌とまっさらな愛。私に足りないのは貴女のように綺麗な心なのでしょう。なまえさん、どこにも行かないでくださいね。私の繭の中に閉じ込めてあげますから、私の愛だけを食べてくださいね。私は貴女の翅を食べますから。だからどうか私を一人になんてしないで。

遠くで雷が鳴っている。何度も、いくつも、閃光が走る。少しずつ近付いて来ている。滑稽な私を責め立てるように。少しずつ壊れていくのを私は何よりも恐れている。こんな日々が永遠に続けばいいと無意味に願っている。閃光が私を突き刺して、あの日のことを思い出す。貴女ですら覚えていない、あの日のことを。美しい、と貴女の縋るような眼差しを思い出して、くらくらした。
分かってはいます、長くは続かないということ。愛とはこんなにも貴女の人生をめちゃくちゃにすること、心につけ入ること、身勝手に愛すこと、欲望をただぶつけることではないから。愛とは、消えませんようにと貴女を信用しないものではないから。

なまえ。貴女のもう子種を受け入れない閉じた子宮を夢想する。
なまえ。私が死ぬとき、貴女を思い出す。
なまえ。私が死んで貴女の涙する顔を思い浮かべる。
なまえ。貴女が私を恨む瞬間を想像する。
なまえ。この愛の終着は貴女にしか分からない。
なまえ。貴女の名を呼べば、睫毛が微かに震えた。


わたしのまゆのなかのしあわせのくに 200126

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