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逃げなくては逃げなくては逃げなくては。鬼がもうすぐそこまで迫って来ている。私を食べようと雄叫びをあげながら迫って来ている。もっと走らなくては、生きたまま食べられるだなんて絶対に嫌だ。はっはっと息苦しくなりながら走り続けているといきなり喉が苦しくなって転けてしまった。誰かに首を絞められているような強い力なのに掻き毟っても何も無い。立ち上がらなくては鬼に食べられてしまうのに苦しくて動けそうになくて、なぜどうしてと涙が溢れると右足を掴まれて宙に浮いた。人型ではない異形の鬼が私を見ている。その恐ろしい見た目と、これから起きることを想像して唇が震える。鬼が口を開けて視界が真っ黒になったところで、私の意識は途絶えた。

桜が舞っていたんです。枝から飛び立つみたいに散っていたんです。私の身体に幾本もの影を落としていたんです。風がゆるく吹いていたんです。それに合わせてくるくると回ったら髪に桜が絡まったんです。それを取ろうとしたらぐんっと髪を引っ張られて後ろに倒れてしまったんです。綺麗な青空が見えて、おかしくて笑っていると桜は唐突に姿を変えました。枝先から生えていた桜が無数の手に変貌して何故だか手の甲に口や目があって、その異形のおぞましさに背筋が凍りました。逃げようとしたら素早く枝が伸びて手足を押さえてきました。そして手首しかない手が蜘蛛のように身体に降りてきて、私の身体を弄りました。思わず叫ぼうとしたら口を抑えられて口内に指を突っ込まれます。そうこうしている内にさらに手が私の身体に降り立ってきて顔にも覆いかぶさってきました。外気に晒されて、身体が弄られているのは分かるけれど、感触がよく分からない。臓器を引き摺り出されて手の甲の口によって食べられている気もするし、ただ触られているだけのような気もする。気持ちが良いと言うわけではないけどなんだかぼんやりとして思考が微睡んでいく。指と指の隙間から空が見える。ああ、澄んだ青が綺麗。

かと思えば目を覚まして反射的に起き上がった。辺りはすっかり薄闇で私は布団で横になっていたようだ。夢…と力なく呟いて頭を押さえた。冷や汗を掻いていて気持ちが悪い。水でも飲もうと立ち上がった瞬間、後ろから誰かに押し倒されて顔を見られないようにする為か、頭に布を被せられた。すぐさま両手首を後ろ手に掴まれて状況を掴めないでいると相手の指が不穏な動きをして身体が固まる。助けを呼ぼうと口を開けた瞬間、布を口に押し込まれた。声にならない声で叫びながら身をよじろうとしても、足をばたばたと動かしてもまるで手応えが無い。どうしようと考えている内に寝巻きを捲り上げられてその人は私の足に跨った。どうすることも出来なくなり、絶望感に涙が溢れそうになると指が私の股付近をなぞった。一瞬、呼吸を忘れるほどの嫌悪感。めちゃくちゃに叫びながら抜け出そうとしてもびくともしない。足を閉じても何事も無かったかのように指を進める。つぷ、と中に簡単に侵入してきて如実に感じるその指先が刃物か何かのように感じて、もう終わりだと悟る他なくて、はやくおわってと願う他なかった。

白い花畑に居た。先ほどの光景などどこにも無い。さっきから何なんだろう、私は夢を見ているのか。だとしたらどこからが夢なのだろう、今も現実ではなく夢なのだろうか、果てまで歩いたら終わるだろうか。歩き始めたら風で花が揺れてふわりとにおいが舞った。うっとりするほど良いにおいですう、と吸い込むと口から何かが溢れ出した。不思議に思って口元を触って見ればそれは血だった。さらにがふっと喉がつっかえ、ぼたぼたと溢れ、余りの苦しさに膝をついてしまった。私の血を被った白い花が目の前に広がる…違う、白い花じゃない。髑髏だ。髑髏が嗤っている。私の血を浴びて嗤っている。逃げなくては、このにおいを吸ってはいけない。そう思っても蹲ることしか出来ず、口から止めどなく血が溢れた。嗤い声が脳の中で直接響く。私はこのまま死ぬのだろうか。次は現実なのだろうか、夢なのだろうか。夢ならはやく覚めてほしいと瞼を下ろした。

私の足は砂浜に柔らかく沈んでいた。しゃがんで砂を掬えばさらさらと零れ落ちて、月の光を反射して星みたいに舞った。誘うみたいにざざんざざんと波が寄せては返して泡立っている。海。海だなんていつ以来だろう。磯のにおいに懐かしさを覚える。夜の海は危ないからとあまり連れ出してはもらえなくて、久しぶりの鮮明な群青色に目がちかちかする。そうだ、今日は特別に連れて行ってあげると言われたんだっけ。

「お父さん、お母さ────」

振り返ればそこに居たのは彼だった。すっと現実に戻される。そうか、夢か。ここは夢なのだ。私は彼に監禁されていて、またいつものように彼に見せられている夢だと気付けなかったのか。彼はいつものように笑っている。その瞳に浮かぶのは慈愛とも無関心とも毒心にも見えて、もしかしたら何とも思ってないのかも知れない。私、さっき何を考えていたっけ。何をしたかったんだっけ。

「また夢だと気付けなかったね。本当に馬鹿で愚図で愚かだなぁ……ねえ、これが君の幸せな夢?」

彼は辺りを見渡した。月で肌がさらに青白く見えて、目鼻立ちがはっきりとしているから深い陰影を落としていた。しあわせ。なんだか上手く舌に馴染まない。海に思い入れがあるかだなんて思い出せない。

「海が好きなの?」

分からない、何も覚えていない。思い出してはいけない気がする。でもどこか、思い出して、破滅してもいいと、破滅したがっている自分もいる。

「一度だけ首を絞めてあげたんだけどすごく苦しそうな顔してたね。あんまり外に出られたら夢の端に辿り着いてしまうから適当な折を見て首を絞めたのだけどやっぱり鬼に食べられちゃったみたいだし、丁度良かったかな」
「…………………………」
「あれ、随分と無口だね」
「…海を、久しぶりに見たから感動して」
「感動?ふうん、海なんかでねぇ」

喉がからからに渇く。嘘を吐いている。彼に知られてはいけない気がする。さっきから焦っている。はやく夢から覚めたい。それには私が死ぬしかない。怖い、これからまた私は殺されるのだ。

「じゃあ一緒に入水でもしようか」

思ってもみない提案に呆気に取られていると彼は私の指先を掴んで海へと向かった。砂浜が沈んで久しぶりの座敷以外の、柔らかい感触に少し感動してしまった。彼の後ろ姿がなんだか普通の青年に見えてしまう。ああ、どうしてだろう。私は今から殺されるというのにすごく澄んだ気持ちでいっぱいだった。駆け落ち、秘め事だとか、そんなものを連想させてしまってこの後惨たらしく殺されるだなんて嘘みたいだった。
彼は服が濡れるのも厭わずに、ううん、夢だから別にいいのか。どんどん濡れていって果てが無いかのように歩み続けるから本当に入水でもする気なのかと思ってしまう。空が青くて冷たい。私、海に一体どんな思い入れがあったんだろう。
喪失が先か痛みが先か絶叫が先か、分からないけれどとにかく叫んでしまった。片足を食い千切られ、バランスが取れなくなって顔から突っ込んで目と口が染みて痛かった。彼は振り返らないし、歩みも止めたりしない。私は不格好に片足を引きずって、跳ねながら付いていくことしか出来なくて痛みが響いて眉を顰めた。食べたのは鮫か、もっと別の生き物か。きっと悪意だ。ここでは彼の思うがままなのだから。そんなことを考えていたらもう片方も食べられてとうとう歩けなくなった。仰向けになるしかなくて引っ張られるまま、感覚こそ無いけれど血が絶え間なく流れる。
月だ。月が見える。偽物だ。この海も海の冷たさも手を引っ張られる感覚も浮遊感も現実かのようなこの激痛でさえ全てが幻覚だ。だとしたら私ももちろん偽物でしかなくて、思考も偽物でしかない筈なのだ。ついには握っていない方の手も食べられてしまった。後は失血死するか、殺されるかだ。ああそうだ、馬鹿馬鹿しいのだ。偽物の血が流れて偽物の月が浮かんで偽物の海の冷たさに震えて、偽物の彼に手を引かれて、本物のような痛みに喘いで。それにしても中々死ねない。血はたくさん流れている筈なのに。不意に立ち止まって手をするりと離して彼は私の両頬をそっと掌で包んだ。頬に彼の髪が触れるほどに顔が近いのは分かるけれど、霞んだ視界では上手く捉えられない。鼻と鼻が触れるとそれが合図かのように下半身までもが食べられた。意識を飛ばしてしまいそうなのにただ白目を剥くことしか出来ない。海の中であるのに身体中が地獄の炎で燃やされてるみたいだった。

「もう死ぬよ。顔が真っ青だ」

片腕だけ残る私にそんなことを言う。それからなんてことのないように腸がはみ出ているねと彼の方に引っ張られてあまりの激痛に人間とは思えない声で叫んでしまった。はやく終わりたい。この痛みから解放されたい。きっと私の血は鯨の尾のように広がって私たちを取り囲んでいる。或いはもう海水の一滴ですら赤いのかも知れない。激痛で縋るように空に手を伸ばしてしまう。触れてみたいのかも知れない。その腕を、彼はやさしく握り、花の茎のように手折り、子守唄を囁いた。

「死んだらまた夢を見せてあげるからね。今度もうんと幸せな夢を見せてあげよう。そしてまた地獄に叩き落としてあげる」

睨む。睨む睨む睨む。睨むことしか出来ない。上手く声が出せなくて恨み言を言うのもままならず、口をはくはくと動かすことしか出来ない。

「ふふ、舌でも噛んで痛みを終わらせてみる?でも自決の恐ろしさを君は誰よりも理解してるよね」

知っている。何度も夢の中で自決を強要させられた。壮絶な痛みの中で中々死なせてもらえず、舌を噛み切ったこと、錐を渡されて自決すればようやく許してもらえたこと、己の腸を引っ張ったこと。思い出したくもないのに鮮明に覚えている。逃げられないのは、どれも瞼の裏の赤とよく似ているからだ。意識が遠のく。感覚が無くなってきてもうすぐ死ぬのが分かる。寝ても覚めても目にするのは地獄ばかりだ。今日も彼が満足するまで続くのだろう。
…………私の心が死ぬか、彼が飽きるか、どちらが先なのだろう。


ゆめに蝕まれる 200124

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