「御剣」
夏のある日、昼を過ぎた頃。
誰もいない事務所で僕はぼんやりと外を眺めながら、彼の名前を譫言のように口にした。もちろん返事などあるわけもなく、そのあとはずっと、ただ蝉の鳴き声だけが事務所で煩く響いていた。
「………みつるぎ、」
繰り返し、名前を呼ぶ。今度はひとつひとつの音を咀嚼するように。
あの冬の裁判の後、御剣は突如姿を消した。あの御剣"検事"はもう"死んだ"のだそうだ。
もう何ヶ月会っていないだろう。初めは絶望にうちひしがれていたものの、今となっては"御剣はいない"という事実はただのしこりとなって僕の心に残るだけだった。
しかし、どうしてか僕の心は今更になってそのしこりをただのしこりではなくしたいらしい。そのせいで僕はそれまで呼びもしていなかった御剣の名前を、幾度となく口にせずにはいられなくなってしまっていた。
「御剣、」
夏の暑さにとうとうやられてしまったのか、御剣の呪いか(呪いというと些か物騒なものではあるが)、はたまた別の何かか。とにかく御剣の名前を口に出さないと落ち着いていられないだなんて誰に言えるだろう、
「お前が帰ってきたら、なにか変わるのかな」
そう呟いたその刹那、珍しく蝉は鳴いていなかった。 まるで、答えられないとでもいうかのように。
「御剣」
僕は最後に一回だけ名前を呼んで、作業に取りかかることにした。
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