息が上がる、呼吸、呼吸をと思うけど集中出来ない。怪我の痛みは言わずもがなだが、何より名前は怪我に気を回せる余力も余裕も無いからだ。
「逃げる」
この行動を容認出来る大層な理由などない。これは自分を貶める行為だと己自身が一番分かっている。だが名前の内なる事情を知る者など何処にもいないから、第三者から責められる事はきっとない。自分で自分を辱めて打ち拉しがってればいいだけだ。…しのぶさんからは大目玉を喰らうかもだが、そんな彼女よりも怖いから。

都合良く見ていた夢が、夢で終わってしまう現実を突きつけられる恐怖、縋ってきたものから手酷く振り払われたら、名前はもうきっと生きていけない。それほどあの子に依存していた。勝手に縋って勝手に想ってあの子の胸の内一つ知らずただ、自分の気持ちを押し付けようとした傲慢に辟易する。

「あー、…痛、いなぁ、」

焼け付く背中の痛みが増す。体が重い、隊服も羽織も重い。どこに行けば、逃げればいいのか、そんな事は考えられなくてどこか、どこか、と重い足を引き摺りながら人気の無い道へ逸れて歩く。けれどどうにもしんどくて少しだけと暗い路地裏に潜り込んだ。
はー、はー、深く吸って吐いて。全く整ってくれない呼吸に焦燥が襲う。痛み止めを打ってこの状態なら効果が切れた時には飛んでもない痛みが体を貫くかと想像すれば血の気が引く。嫌だなぁ、怖いなぁ、それでも蝶屋敷に戻ろうなんて思えない。

「善逸、強くなってたなぁ…」

あの夜、意識を失う寸でに見えた闇を裂く稲光。耳を劈く雷鳴が空で共鳴を起こしていた。どれだけ辛い修行を重ねたんだろう。確かに自分にも身についてはいるけど、なんと言うか「格」が違った。あんな、神様みたいな御業を人に体現させる雷の呼吸とは、どれほどの領域に到達しなければならないのか。

「…私には、無理だ」

確かに修行した。水の呼吸も型も身に付いた。でも結局鬼憎しで闘う鬼殺隊隊士とは違う自分が酷く浅ましく卑怯な人間だと任務を共にする度打ちのめされる。そうして、本懐を遂げずに命を消してしまう場面に行き合うと「お前が死ねば良かったのに、この卑怯者」と自嘲してしまう。
その度、神様とやら、目に見えない存在を呪う。私だって死ねるなら「あの時」死んでいたはずで、唐突にこの世界に放り混まれた名前は結局奪った体を放り出すことも出来ず生きるしかなかったのだから。そしてこの恐ろしい世界で生き抜く為に手を伸ばし続けなければ、生き抜く為の「何か」が無ければ名前は気が狂ってしまっただろう。
この世界に渡った事にきっと意味があると、信じたかったから。

「もう、いいかなぁ…」

ぽつ、ぽつ、と体に落ちる雫に項垂れた重い頭を動かし空を見上げると重く厚い雲が圧し掛かってくるようで。いっそ押し潰して、そこに蓄えている恐ろしい程の雨水でどこかへ流してくれたら、楽になれるんじゃないだろうか。
ここで生きていく意味、名前が存在する理由、そんなもの無かったんじゃない?自分が生き汚かったから、「理由」が欲しかったんでしょ?ここに、名前を必要としてくれる人間なんて…初めから何処にも居ないのに。

「名前!コンナ所デ寝ルンジャナイ」
「……源さん、」

目の前にバサバサと羽音を鳴らし降り立った名前の鎹烏。こんな私にずっとずっと付いててくれた相棒。口?嘴?は悪いけど彼はとても優しい烏。

「ごめん、源さん…、動け…ない、動きたくない…」
「逃ゲルナ!逃ゲルナ!」
「…ほんと、ごめん…もうしんどいよ、」

カアカアと苛立たしげに鳴いた源さんが今度はバサバサと飛び立って行く。ごめんね源さん弱虫で。名前が鬼殺隊に入らなければ源さんだってもっと仕事の出来る隊士に付いていたんだろうに。ここを辞めたらあの面倒見の良い烏ともさよならなんだ。私、普通の女の子として暮らしていけるのかな。育手の水戸邊川さんにも謝らなきゃ…追い回される未来しか見えないけど。
とりあえず移動しよう。源さんはきっと蝶屋敷か、どこかへ名前の居場所を報せに向かった筈だ。ならここには居られない。

「…っ、うぅ、痛い、」

壁に凭れながら立ち上がり腰に力を入れて足を踏み出す。暗い雲から降る雨は冷たく重く名前の体を濡らしていく。
露地から出ると、突然の雨のおかげか人通りは絶えていて、名前はこれ幸いと足をゆっくり進めた。だが、いくらも歩かないうちに、声を掛けられた。その声に止まってはならないと聞こえぬふりで背中を向けて前に足を運ぶ。
なのにその子はそんな怪我したまんまじゃ痛いじゃない!雨も降って寒いから戻ろう?女の子なんだから体を冷やしちゃダメだよと名前の背中に訴える。

喉元を迫り上がる嗚咽を噛み殺し、目頭が熱くなり潤みそうになるのを必死で耐えて前を、ひたすら前を向く。今振り返ってならない、きっと取り繕えないから。「大丈夫だから放っておいて」声に出したいのに口を開けば違う音になりそうで。

だから知らんふり、聞こえないふり。なのにその子は名前の後でオロオロと戸惑った風で、戻ろう、しのぶさんが心配してたよ?濡れたら怪我に良くないよ、あ、歩くの辛いならお、俺で良ければおんぶしますし!しのぶさんに怒られるとか考えてる?そ、そりゃあ怒ったら怖いけど、それは心配してるからだと思うんだよ、うん。だ、だから大丈夫だって話なの、ね?

この子は本当に優しいまんま育ったんだ。人の気持ちに寄り添えるとても温かい子だ。きっと見合った可愛らしい子と一緒になって家庭を守り穏やかで豊かな人生をきっと過ごせるだろう。名前のほの暗く重い愛情など必要としない。
だから、もういい加減諦めろ名前。

深く深く息を吐いてゆっくりと空気を吸い込む。そうして言葉を紡げ、さようならの意を込めて。

「……大丈夫です。知り合いの医者がこの近くに居るのでそこでお世話になります。蝶屋敷には後日お詫びに伺います。あなたにもお手数かけてしまってすみません。」

背中を向けたままなのは許して欲しい、無礼な人間と思ってくれればいい。だって顔を見てしまったら、あの琥珀を目に入れたら、もう自分を止められない。

「……あ、あのっ、」
「…黙って出て来てしまい、本当に申し訳ないとしのぶさんにお伝えください」
「………っ」

何か言いたげなあの子を後ろに、そのまま一歩踏み出す。あんなに頑なだった足は思ったよりすんなりと前に進む。そうして、少しずつ、けれど確実にあの子から遠ざかる。
頬を伝う熱い雨が顎から落ちていく、善逸、善逸、会えて良かった。強くなったあなたに会えて嬉しかった。優しいままのあなたに会えて、良かった。
どうか、あなたに幸多かれときっとずっと祈ってるよ。

「待って」

だから、私を引き留めないで




左様だからお別れしましょう