我妻さん、郵便です。

玄関から声がかかり、はいはいと水仕事で濡れた手を拭きながら磨りガラスの向こうを見るといつもの紺色の制服が見てとれた。ガラガラと引き戸を開ければ「こんにちは」と人懐こそうな50代の、郵便配達の男性で、「ずいぶん寒くなってきましたな」と鼻の頭を赤くしてどうぞと一通の白い封筒を差し出された。町から随分離れたこの屋敷に届けてくれるのは難儀だろうと「ご苦労様です」と受け取れば帽子を少し浮かせペコリと頭を下げて職務に戻って行った。

きっと師範だ。

悲しいかな、名前には手紙を郵便でやり取りする友人はいない。鬼殺隊関連は皆、自身の鎹烏(善逸の場合は雀だが)を飛ばしてくれるが、名前にそれはもういない。相手も「そう」なので唯一郵便での文通を続けている。「彼女」からの頼りは半年ぶり、善逸との結婚式を無事終えたとの手紙に祝辞と祝いの品が返って来た時以来。浮き立つ心のままに居間に戻って名前は封を切った。

□□□□□

「ただいま、名前さん、どこ?」

ガラガラと引き戸を開けた善逸は屋敷に近づいた時から異変を察していた。いつもなら家の中から音がする。料理の音、水仕事の音、洗濯の音、何も聞こえない。遠方の地からの帰りで昼過ぎの時間、途中、みたらしの良い匂いに釣られてお土産にと団子を手にしての帰途。屋敷に近づくにつれ、「音」がしないことに善逸の心は焦った。名前の心音は聞こえていたが、いつもの鼓動ではなかったから善逸は急く胸を押さえて彼女の姿を探した。

いた、

庭に面した縁側で座る背中を見つけてほっと安堵の息を吐いた。さすがに寒さが厳しいこの季節は縁側を開け放しには出来ないから、ガラス障子を閉めている。そこは太陽が昇ればものすごく暖かくてついつい座布団を枕に微睡んでしまうほとだ。そこに、足を崩して項垂れるようにしているけれどその背中がこちらを振り返らない。彼女の音は酷く悲しげに鳴っていた。

「…ごめんね、お出迎え、できなくて」
「気にしないで、そんなことより何かあった?」

そっと隣に腰掛けると右肩に頭がぽすっと凭れかかった。見下ろした名前の睫毛がしっとり濡れているのが見えて、先を促すように肩を抱いて擦った。

「…師範から、手紙が、来たの」
「水戸邊川さんから?」
水戸邊川 芳さん、水の呼吸の育手で珍しく女性の方だ。一度だけ会ったのだ。名前が親代わりみたいな人と言ったから、彼女と結婚すると言いに。
水の呼吸の人達はどことなく物静かで感情に左右されない冷静な人、なんて思い込んでたが、彼女は飛んでもないばばあだった。もちろん矍鑠とはしていたがそれ以前に、一言で苛烈、に尽きる。善逸は初見のその日に棒っ切れを持った水戸邊川に山の中を半刻も追いかけ回されて、久しぶりに高い木に登って逃げた。齢は60を越えているのにどんな妖怪だよ!と無礼千万で吠えたら「クソガキ!」と下から弾丸みたいなドングリが飛礫の如く飛んできて善逸は枝から落とされて。その背中を情け容赦なく踏みつけられた善逸が「ぐえっ!?」と蛙のような声をあげるのを見下ろす圧と言ったら。ひええ!!と情けない声を上げた背中に彼女は強い言葉を落とした。

お前にあの娘の人生が背負えるのか
お前はあの娘の抱えた澱みを呑み込めるのか
お前はあの娘の深い悲しみを理解しているのか
お前はあの娘が受け入れるしかなかった業を知っているのか
お前はあの娘の痛みや苦しみ、汚さ嘆きにどう向き合うのか
お前は、

「あの娘を、心底愛してやれるのかい」

最後は慈しむような染み入る声音だった。水戸邊川さんから名前を心から案ずる音がして、この世で俺と同じ何も持たないで生きてきた名前の寄る辺がここなんだと改めて思い知らされた。だがそんなこと10も100も承知だ。こちとら全て受け入れて受け止めて生きてる限り全力で愛すると自分にも彼女にも誓った。そして、善逸が彼女の問いに答えようとしたら「判断が遅い!!」と背負い投げされた。解せなかった。

「水戸邊川さん、何かあった?」

聞かなくても分かる。こんなに悲しい音をさせている。涙を流した跡があるんだ。そっと、涙の跡を拭うと小さな雫が善逸の指を追うように名前の頬を滑り落ちた。

「……手紙、なんて?」
「…これ、出してくれたの、麓の八百屋の奥さんなの」

自分に何かあったら出して欲しいと預けていたそうで、しばらく町に下りて来ない水戸邊川を心配した亭主が彼女の家を尋ねた所亡くなっていたそうだ。

恐らく遺書になったであろう手紙は名前が握り締めていたがそれを善逸に差し出した。

「…いいの?」

俺が読んでもいいのかと彼女を覗き込めばこくりと頷いてくれた。名前の手から抜き取ると筆で書かれた宛名や住所はあの色んな意味で力強い人と同一人物とは思えない流麗な文字。封筒から取り出し便箋を開く。そして目を見張る。そこにはたった一行だった

たった一行。この言葉に彼女の願い全てが込められているのだろう。

名前の肩を引き寄せると彼女はぽすんと善逸の胸の中に身を寄せぎゅっと羽織を掴むと嗚咽を漏らして悼みの涙を溢す。善逸は空を見上げ一度だけまみえた人を思い出していた。たった一度だったがとても強烈な印象で、じいちゃん、自分の師範と似た一本の筋が通った人。確かに恐ろしいほどに追い回されたが、その後は善逸と名前にとても優しく包むような音を向けてくれた。そして一時過ごして家を辞する時に水戸邊川さんが言った。

「この世はままならんことばかりだ。神様とやらは理不尽で容赦がない。それでもお前達が結ばれることができるのは理不尽な神様のおかげなのさ。だからこの世界を呪うより厭うよりいとおしんでおくれ。」

二人で育むんだよ愛しい世界を。

手を振った彼女は名前さんのこの世界での支えで、救いであったのだろう。その人が逝ってしまった。

「俺がいるよ」
「うん、」
「置いてかない」
「うん…」
「1人にしない」
「…うん、」
「孤独(ひとり)にしないから」

ぜんいつ

音にならなかった言葉を拾い上げて胸に閉じ込め背中を擦る。あなたは優しいからこんなに大きな悲しみの音が体に渦巻いているのに俺を慮って声にしない。だから俺が代わりに言ってあげる。

「ここでは、お母さん、だったもんね」
「……ふ、う」
「俺の、じいちゃんだった人と同じ、家族だったんだ。だから呼んで…泣いていいんだよ」

痙攣るように喉が絞り出した声が零れて嗚咽に変わる。小さな子供みたいに何度も、何度もおかあさんと舌足らずに呼びながら咽び泣く。
あなたはひとりぼっちじゃない、俺がいる。
それから、この世界で得たあなたの母たる人もその胸の中にいるから。

腕の中で涙を流す愛する人を抱きしめて、どうかこれ以上この人が何も失いませんようにと祈る。
青く澄んだ青空が目に染みて痛い日の事だった。



空色の涙