善逸が苛立ちに任せて歩み続けること一時間、夕暮れからすっかり日は落ちて今は動物達は塒に帰り周囲は虫の鳴く音と木々や草花が風にゆれてさわさわと揺れる細やかな葉擦れの音だけ。しかし森に入ってから僅かに聞こえていた金属を擦り合わせるような耳障りな音、鬼の心音が大きくなる。本来の善逸ならここに来るまで体は震わせながら大きな独り言を並び立てなかなかたどり着かなかっただろう。だが、今日の善逸は違った。

「くぉらぁっ!!くそ鬼野郎が!其所に居るのは分かってんだぞ!とっとと俺に首斬られるために出てきやがれ!!」

伊之助にも勝るとも劣らぬ勢いで声を張り指差して吠えているのは鬼が根城としているだろう洞窟。鬼は夜な夜なこの洞窟から町に下りて人を浚い食っているようだと隠からの情報を元に善逸が派遣された訳だが、暗がりの奥から聞こえる音が間違いではないことを表していた。

「お前のせいでなぁ!すっっげー楽しみにしてたリンゴジャムと焼きリンゴをお預けされてんだよぉっ!!挙げ句に夫婦の営みもかれこれ1ヶ月ご無沙汰なんだよちくしょうがぁ!!もう色々我慢出来ないんだよ!爆発しそうなんだよ俺の諸々がぁああ!!」
「さっきからうるっせえな!なんなんだお前は、あ?そんなに食われてーのか?」

洞窟からのっそりと現れたのは熊の様にでかい鬼。角が生え牙を剥き出しにし鋭い爪で自分の優位を信じて疑いすらしない。対する善逸を前にしても、いや、前にして更に優越感が増したようだ。恐らくデカイと言えど人よりも力も速さもあるだろう。それはいい、鬼に成り下がったものは人ではなくなり人を食らい、人以上の力を手に入れる。
それはいい、分かっている事だ。また、鬼は人以外の形態を取ることもある。蜘蛛だったり動物だったり、だが今の鬼を目の前にし、善逸は苛々が弥増すのを止められない。

「あんた、それ似合ってると思ってんの?」

そいつは食った人間から奪っただろう指輪やら首飾りやらをゴテゴテと着飾っていた。その数からしてかなりの人を食っていると伺い知れたが、如何せん何処かの誰かを彷彿とさせるのだ。

「俺が食うのは良い家の女だ、こいつは戦利品って奴だ。派手でいいだろう?」

なんて事だ。この世の柔らかさの象徴である女性が犠牲になってただと?許せん、しかも苛々させやがってこの野郎!派手な奴は一人で十分なんだよ!

「おめーみたいなちんちくりんに嫁だぁ?どうせ大した事無い女だろ?だいたいな、ヤれねえのはおめーが甲斐性無いからじゃねーのか、くっくっ、おめー、そっちに自信無い…」
「あ"ーーーー!!むかっつく野郎だわっ!!俺への余計なお世話だよ!!そして俺のお嫁さん馬鹿にすんな!霹靂一閃だわ八連で粉々にしてやんよ!死に晒せぇええええ!」

もちろん勝負は一瞬だった。控えていた隠がお疲れ様でしたと声をかけるも善逸は「さっきのやり取りは報告しなくていいからね!個人的な事だし?頼むよ、本当マジでお願いしますよ!」なんて柱の威厳なんてかなぐり捨ててる姿。いや、まあ、鳴柱様は大抵こんな感じだしと、すがり付く善逸に大丈夫ですよと生暖かく微笑んだ隠は気遣いが出来る人間だった。

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と、まあ、そんなこんなで帰路に付いた善逸。屋敷に植えられた藤の淡い色が朝焼けにぼんやりと見えてじわっと涙が出そうになった。だって、本当に本当に久しぶりなんだから、と。何より名前に会いたかったんだよ、もうほんとにほんとにさぁ、

「お帰りなさい、善逸」

もおー、なんでこんな時に限ってさあ、外で待っててくれてんの?今の時期の朝方って結構寒いじゃん?羽織を着てるけど吐く息白いじゃない?いつも言ってるよね、女の子は身体冷やしちゃダメってさ。風邪引いちゃうよ。
ほら、俺はもう鼻がムズムズしてきちゃった。

「ほら、おーいで!」

両手をばっと広げた名前さんは花が綻ぶ様に笑う。胸に広がる暖かい感情が何かなんて、もう俺は知ってる。

「名前さーん!」

たっだいまー!とその身体を抱き込んでぎゅうぎゅうする。
名前も「苦しい苦しい」なんて笑いながら抱き返してくれる。暖かいなぁ、いい匂い、柔らかい、俺だけのお嫁さん。あー帰ってきたって実感を堪能する。触れた名前の頬が冷たくて、こんなになるまで待っててくれたんだと思えば嬉しい、でもやっぱり心配になる。

「いつから居たの?身体、冷たい」
「チュン太郎が知らせてくれたから30分ぐらいよ」

もう善逸がこうしてくれてるから、あったかい。大丈夫。

そうして善逸の胸にすり寄る名前が特別可愛く見える。思わず額にチュと唇を付けて、そのまま、耳、鼻、ほっぺたにチュチュとキスしていくと見る見る赤くなる名前。それに心臓が鷲掴まれた善逸はもう一度きゅっと抱き締めて名前の唇にそっと自分のを触れさせた。

「……ここ外だよ」
「大丈夫、誰も居ないよ」
「そっか、なら、」

そういって今度は名前から。善逸はこんな些細な触れ合いに籠る愛情が堪らなくいとおしいと思う。

「お腹空いたでしょ、」
「もお、ペコペコ!お腹も、だし、」

チラッと流し目で見下ろすとキョトンした後ポポポと顔を染める名前に期待してしまうのは、悲しいかな男の性(さが)です。

「じゃあ、まずはリンゴジャムと焼きリンゴで朝食ね」

まずは、ってことは最終的には名前さんに行き着くって事でいいよね?いいんだよね!?

「もー、善逸ってば食い気味で引くよ?」
「ごめんなさいね!でも仕方なくない!?」

クスクス笑う名前が手を引いて「さ、旦那様、ご飯にしますよ」と門を潜る。ああ、夜が待ち遠しい!
あれ?でも、夜まで待たなくても良いと思いませんか?
善逸の下心満載な疑問は一瞬で、無表情になった名前により却下されたのは言うまでもなかった。


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善逸が隊服から着流しに着替えて居間に行くと小さな丸いテーブルに目玉焼きとベーコン、野菜のソテー。ホットミルクと焼き色の付いた食パンに瓶詰めのリンゴジャム。そして白いお皿に綺麗に並べられた焼きリンゴ。もう、善逸のお腹の虫が早く早くと訴える。

「うわあ!これ、らぴゅたのパンも出来るね!」
「そうよ、たくさん食べてね」

善逸はらぴゅたが何かは知らない。知らないがこのパンを名前が好きなのを知っている。名前曰く、とても感動し、泣ける物語でその中に出てくる料理だそうで。ちょっと行儀悪いけどと前置きし、目玉焼きを乗せて食べたら美味しいんだよと教えてくれたのが「らぴゅたのパン」である。ちょっと塩コショウを多めに振ってあるのがまた美味しい。
だがしかし、まずはリンゴジャムである。いただきますと挨拶しパンを手に取り匙でジャムを掬う。

「う、わぁ…」

思わずほぅ、とうっとりする。トロッとした杏色。甘い匂いが鼻腔を擽りごくりと喉が鳴る。そおっと、パンにジャムを落として表面に広げると小さなリンゴの粒と薄く切った檸檬。視覚から「美味しいよ!」と訴えてくる。そうして満を持して口に入れる。

くッそ美味しい!

目をキラキラさせて名前を見詰めると嬉しそうに微笑んでいる。善逸に喜んで貰え嬉しいと表情に押し出して。
ジャムは甘ったるくなく程よい酸味も感じられる。アクセントの歯触りのリンゴの小さな粒はシャクシャクが小憎らしい。そして、薄くスライスされた檸檬はマーマレードみたい。苦味が甘さを引き立てている。うっすらとパンに塗られたバターの塩味がこれまた旨味を引き出している。なんて美味しいんだリンゴジャム。思わずはぐはぐと口に入れてしまいあっという間に一枚目は善逸のお腹に収まった。

「そんなに慌てなくていいのに」
「な、なんか美味し過ぎて口が止まんなかった…」

ホットミルクは円やかで優しい味がする。カップを離したら「おじいさんになってるよ」と笑われるのはミルクを飲んだ時のセリフで、名前さんは口元を手拭いで拭いてくれるのがいつもの流れだ。

「おかわりいただきまーす!」
「はいどうぞ」

そうして二枚目のパンをリンゴジャムで三枚目はらぴゅた仕様にした。これも美味しかった!パンにベーコンと目玉焼き!なんて贅沢!甘いものの後のしょっぱさはまた格別。そしてお次は焼きリンゴである。耐熱皿のリンゴからはまだほわほわと湯気が上がっていて、皮の赤と果実の白のコントラストが目にも鮮やかだ。八等分程にカットされたリンゴはこれまたバターとお砂糖の香り。けれどジャムとはまた違った香りはシナモンという香辛料を振っているからだそうだ。名前曰く、今朝の献立はカロリーの暴力だと遠い目をしていたりする。

フォークでリンゴを刺すスッと刺さる。フワッと香るリンゴの甘酸っぱい香りと仄かにシナモン。そうしてゆっくり頬張るとシャクとした歯触りとリンゴの果汁が口の中いっぱいに広がった。

これもめっちゃ美味しいぃいいい!

フォークを持ってジタジタと動く善逸に名前が落ち着きなさいよと苦笑い。いや、でも、ほんと美味しいんだもん!!表面はバターと砂糖で甘いけど酸味の勝る果汁がさっぱりしていくつでも食べられる。リンゴをそのままももちろん美味しいけど、こんな美味しいお菓子にする名前さんは魔法使いだと思う。

「それをいうなら世の料理をする人はみんな魔法使いだね。ではそんな魔法使いから、もう一つ。その焼きリンゴをパンに乗っけて食べても美味しいんだよ」
「うわあ!そんなのもう美味しいしかないじゃんか!!」

ジャクジャクとリンゴをパン計5枚で見事に平らげてみせた善逸は幸せ一杯の顔とお腹をしていた。

「……ふぁぁ、」

当然食欲が満たされれば訪れるのは睡魔である。しかも夜型仕事の鬼殺隊隊員は一般人とは生活サイクルが違う。宇髄家でみっちりしごかれた後、そのまま鬼狩りに出たのだ、疲労もあるだろう。

「少し寝たら?ちゃんと起こしてあげるよ」
「ここで寝ちゃだめ?」
「いいけど、ちゃんと上に毛布被るのよ

ふぁい、と返事が怪しくなった善逸がよたよたと自分の部屋から枕と毛布を引き摺りながら戻ってくると、いつも名前が座って繕い物や書き物をする定位置にころりと横になる。

「おやすみぃ…」
「おやすみ、善逸」

子供のように丸くなって眠る善逸に名前は穏やかに微笑んだ。

□□□□□

「善逸、起きて」
「んー…、」

ゆさゆさと身体が揺らされて、善逸は少しずつ眠りの縁から意識を呼び戻す。どうやらすっかり寝入ってしまってたようで、名前があまり音を立てないようしていたのもあるだろう眠っている間は何の音も入ってこなかった。
のそのそと起き上がりぽやっと寝惚け眼の善逸が今何時と問えばもう夕方だと言うではないか。

「そんなに寝ちゃってたの?うわあ!勿体無い!」
「それだけ疲れてたってことでしょ?疲労回復、体調管理も大事な仕事よ」

鬼殺隊において身体の調整は必須。人間より強い鬼と対峙するのだ、体調不良など抱えていてはあっという間に怪我、どころか死へと直結する。それ故に睡眠を取るのはもっとも大切な事なのである。

「あーでもさ、なんかスッキリしたぁ、体軽いもん」

肩を回した善逸に名前が、じゃあお手伝いしてもらおうかなというから「なになに?なんでもしますよ!」と言うとそこの畳剥がしてと言われた。

「こたつだ」
「そう、こたつです」

もちろん火鉢はあるけど、足の先から暖ためるにはこたつが一番だと名前は言う。善逸だってこたつは好きだ。藤の家紋の家には冬にこたつを用意してくれる家もあり、その温もりに炭治郎達とあったかいあったかいと喜んだものだ。
一畳分の畳を退けるとそこには掘りこたつ。名前がその炉の中の受け皿に炭を置いて、善逸は押し入れに片付けられてた櫓を炉の上に置く、そしてこたつ布団を被せれば出来上がりである。

「俺一番!」
「あー!ずるい!」
「うわ、もうあったかいよ」
「さすが遠赤外線」
「えんせきが…?」
「炭はすごいって事です」

ここに入ると眠くなるのよね、と呟く名前。善逸はわかるわかると同意して「少し寝れば?」という。

「今寝たら夜寝れないでしょ」
「寝かせるつもりないから、体力温存しといて」

色気のある顔を向けられた名前は「ばか」と言って真っ赤な顔を布団に埋めたのだった。



リンゴと夫婦の顛末記、後