蝶屋敷、今は亡き前花柱、蟲柱の胡蝶姉妹の住居兼医療所であったそこは、今も亡き彼女らの遺志の元、栗花落カナヲの監督下で神崎アオイが筆頭となり傷ついた隊士達の静養所としてそこにあった。
炭治郎と二人、塀伝いに歩いて行くと懐かしさが僅か込み上げる。名前とて何度となくお世話になった、しのぶやアオイともそれなりの交流はあったが除隊、そして結婚を機にその門を潜る事は無かった。それでも季節の挨拶などで顔を出してはいたが、こういう形で訪れるのは本当に久しぶりだった。
門を潜ると炭治郎が玄関を開けてくれ、奥へ戻りましたと声かけると何人かの足音が足早にやってきてくれた。それはここの責任者アオイと見慣れた三人のうちの一人。

「名前さん…っ、」
「この度は我妻が大変お世話になりました。」

頭を下げるとなほが戸惑いの声を小さく上げる。アオイはそれを小さく制した。

「ご無沙汰しております我妻様。奥方様には早々に足をお運び頂きご心痛のほどお察し致します。鳴柱様は今は安静にしておられます。どうぞこちらへ。」

アオイの挨拶にちらほらと居た隊士がざわめいた。
現鳴柱、雷の呼吸唯一の継承者にして最速を誇る一撃必殺の剣士、我妻善逸。柱と言う存在は一介の隊士からすれば尊敬と憧憬の的であり、目指すべき目標である。その柱のうち三人もが同じ場所にいると言うだけでそわそわしていたが、内の一人が結婚していたとは、である。その若さ故、結婚していると知らぬ者も多いので致し方ない。

ちらちらと興味を覗かせる視線の中、炭治郎にお礼を言い荷物を受け取りアオイの後に続く。一般病棟を過ぎ奥へと続く行き先は重篤患者の病室が並ぶ。歩みを進める毎に善逸に近づいていく、名前の心臓が緊張で張り裂けそうなほどに鼓動を打つ。歩みを止めたアオイが「こちらです」とドアを開けてくれたのを一瞥し、一度大きく息を吸って室内に足を踏み入れた。

日当たりのよい窓際。白いカーテンは開け放たれて窓越しに秋の陽射しが柔らかくそこで眠る人に降り注いでいた。黄金色の髪が日の光を弾いてキラキラしている。それだけならただ、健やかに少し長い昼寝をしているかのようなのに、腕から伸びる数本の点滴の管がそうではないと現実を突きつけてきた。

善逸

こくりと唾を飲み込む音がやけに響いて、くっと奥歯を噛み躊躇う足を叱咤してゆっくりとベッドに近づいていくと病衣の下から包帯が見えて胸が苦しくなる。そっと傍寄って見下ろした善逸は本当にただ眠っているだけのようで、そのうち近づく名前の音に気付いて「もう朝?まだ眠いよぉ」と目を覚ましそうだった。だけどそんなことはなくて、恐る恐る指を伸ばし点滴の繋がった手に触れると思ったよりずっと冷たくて息を飲んだ。

「善逸さんは、全身打撲、右肩の裂傷、そこからの出血が酷かったのですが、ご自身で止められたようです。」

首の近くには太い血管がある、危ぶまれたが恐らく呼吸を使って止めたのでしょう、アオイの説明に少しだけ安心して善逸の手をきゅっと握る。常より冷たい手に不安はあるがでも生きてる、目の奥が熱くなってくるのを堪えて、隣のベッドで名前の様子を窺っていた伊之助に「伊之助くんも無事で良かった」そう声をかけたのだか。

「善逸の奴、血気術喰らってるぞ」
「伊之助!それは聞いてないぞ!」

心臓がまたしても冷えた名前が問い質すより早く、炭治郎が詰め寄ったが伊之助は今言った!とふんぞりがえる。だがアオイが同じ血気術を浴びた隊士も運び込まれて眠っていること、特に異常も無いことからただ本当に眠っているという状態だと説明された。しかし、どれほどの術か分からないので、目が覚めるのを待つしかないとも言った。

「鬼は二匹いたんだよ、空間を一瞬で移動するみたいな奴ともう一匹弱っちい奴だった。こっちの方が術で人を眠らせてたんだ。」

女子供が浚われると聞いた町へ向かった伊之助、善逸と二人の隊士。着いた町はまだ夕暮れ刻だと言うのに人通りは少なく何処か寒々しさを感じたと言う。だが善逸の耳は既に鬼の音を捕らえていた。伊之助も気配で察知し、こちらも探るが突然消え、違う場所で気配が現れる。それに翻弄され次第に伊之助は苛つき「ムカつく!」と走り出そうとしたと言うから宥めた善逸と隊士の苦労が偲ばれた。結局そちらは善逸が追い、もう一匹を伊之助と隊士二人で追う事になった。

「で、弱っちい方を追いかけて根城の古寺を見つけたんだけどよ、そこにまだ生きてる人間が何人か居た。」

けれど意識が無いようで折り重なるように倒れた人間を盾にされて隊士二人は怯みその隙に血の霧のような血気術を浴びて昏倒したそうだ。難なく躱した伊之助が鬼の首を斬ろうとしたところ突然部屋が歪んで、そこから現れたのは善逸が追っていた鬼だ。次いでドン!と屋根から轟が落ちてそこに鬼を追ってきた善逸がいた。

「んで、そいつ、弱っちい鬼に早く眠らせろっつって、怒鳴り上げててめぇは、転がってる人間持って質にしやがった。」

お前ら鬼狩りは人間を守るのが使命だろう?俺たちを殺すより人間の命が優先されるんだろう?じゃあ、俺たちを見逃せ、そこにいる奴らなら返してやる。無傷だぜ、きっと感謝されるよなぁ。こいつか?こいつは駄目だ。俺たちが逃げきるまでの人質だ。

「それで。どうしたんだ?」
「はあ?俺と紋逸が逃がすわけ無えだろ!」

二人が黙っているのを薄気味悪く感じたのだろう、焦り出した鬼が咄嗟に逃げの体制に入った。視界が赤く染まる程の血の霧が濃く発動されたがその時には伊之助の刀が首を斬り落としていた。

「紋逸!」

術が消えていく靄の中で見えたのは、自棄になった鬼が善逸に向けて人質を投げた所。霹靂一閃の構えを崩された善逸は人質を危うく受け止めたが、次いで襲ってきた鋭い爪の攻撃を躱すことは出来なくて肩を抉って、その鬼は空間を渡った。

「つ、伊之助!」
「こっちは任せろ!」
「雷の呼吸、神速」

床を踏み割り稲光と轟音を置いて消えた善逸、そしてすぐ、に雷が落ちる音が北の方角で聞こえ、伊之助がその場へ駆けつけると、鬼のかき消えていく跡と、いつもなら痛い痛いと泣いて騒ぐ善逸が血を流しながら倒れていた。

「伊之助さんが、自身でここまで運んで来たんですよ」

本来なら隠達の簡単な治療を受けてからの方が良かったのだろうがきっと、伊之助にはその時間すら我慢出来なかったことは三人の仲を見ていれば知れることだった。

「ありがとう伊之助くん、善逸を運んでくれて。」

伊之助だって術を浴びて意識を無くしてもおかしく無かったのに、どんな不屈の根性でここまで善逸を背負い走ったのか。

「伊之助さんもここに着いたら途端に倒れ込んでしまってびっくりしました。」

いきなり蝶屋敷に飛び込んでいきなり倒れてしかも、背中に血塗れの善逸を背負ってどちらも意識がない、なにがなにやら分からない中での治療を終えてその日の夜には伊之助はもう目を覚まし、怪我の経緯を聞いたという。

「深刻な状況ではないんですね?」

炭治郎の問いかけにアオイはそれは断言出来ないと言う。
未だに解明出来ない血気術。鬼の性質や欲望の形により様々な術がある。身体に傷を負わせるだけのものならまだしも、ヒトの内面部分に入り込む術とてあるのだから。

「しばらくは日光に当たって貰いながら怪我の治療を続けます。名前さんには付き添い用の簡易ベッドを用意しますから、今日から使って下さい」
「おい、俺はもう大丈夫だからここのベッド、名前に使わせりゃいいだろ?」

それは駄目よ、伊之助くんもちゃんと治療しないとと言うけれど

「紋逸は耳が良いんだろ?寝てる時にも会話が聞こえるって昔言ってたよな。だったら、静かな方が良いに決まってる。それに、」

そのあとは伊之助には珍しく口を噤んでしまったけれど、炭治郎には伊之助の言おうとした言葉がわかった気がした。
きっと、彼女は善逸の前でしか弱さを見せないから。だから伊之助は二人にしたかったんだろうと。それは善逸の為でもあるし名前を慮る為でもあった。

さすがにすぐ退院とはいかなく一般病棟に移るなら良いだろと言い出すのでアオイもそれならと、了承した。

「では、名前さん、また時間になったら来ますので」
「アオイちゃんも、なほちゃん達もありがとう、善逸を助けてくれて、」
「早く善逸さん目が覚めるといいですね」

アオイとなほが出て行くと伊之助と炭治郎もまた必ず顔を出すと挨拶すると名前は深々と二人に頭を下げた。

皆が居なくなると途端に静けさが押し寄せてくる部屋の中、もう一度善逸の傍に寄り丸椅子を引き寄せて腰掛ける。善逸の顔が近くになって、そっと頬を撫でる。

「善逸、」

ゆっくり大きく吸って吐いてを繰り返す呼吸音。名前はついぞ会得出来なかった全集中の呼吸、常中。柱や、能力の高い隊士は無意識下で行えるそれは鬼と渡り合い戦う術であり命を繋ぐ為のものでもあるそうだ。

「頑張ってるんだね、善逸…」

病衣の襟元から見える包帯が痛々しい。抉られた傷が完治するのにどれぐらいかかるだろう。だけどその間任務から離れられる、名前の傍に居てくれる、なんて鬼殺隊にあるまじき考えが頭を巡る。

「……きっと、叱られるね」

きっと善逸はそんな事は望まない。
嫌だ行きたくない怖いと泣いて騒いでも、優しい善逸は自分以外の弱い人を助けに走るのだ。救う力がある、守る刀がある、戦う術がある、自分を守る為じゃない、何処かの誰かの為に善逸は刀を振るい鬼を倒しに走るのだ。亡くなった育手の方に恥じないように、手に掛けてしまった兄の罪を償うように。

「でも今はちょっとだけ、ゆっくりしよう?」

善逸が起きるまでちゃんと此処にいるから、
目が覚めたらおはようって言ってね

額と額を合わせて祈るように囁くと閉じられた善逸の目の縁から涙が一筋零れ落ちる。

「……慌てなくていい、私は此処に、善逸の傍にいるよ」

少しかさついた唇に口付けると善逸がほんの少し笑った気がした。



12人目の魔法使いのお呪い