「兵長が思い出したら、なんて文句言ってやるの?」
あれは彼女が兵長と意に沿わぬ別離をして半年を過ぎた頃だった。悲しみに浸ってる間もなく訪れた何度目かの壁外調査の帰路。遠くに兵長を視界に入れて安堵するナマエに聞いた。
『そうね、なんて言ってやろうかな、』
「恨み言の1つや2つ、ううん、10こぐらい言っても罰当たんないよ。次いでに一発お見舞いしてやれば?とりあえずグーで。」
「おい、兵長を殴るとか俺が許さねぇからな!」
「…今までのナマエを見ててそう言えるあんたは最低ね。」
「あ、だよな…、すまん」
『ふふ、いいよオルオ。にしてもペトラってたまに男らしいよね。』
初めの頃はペトラが言ったようにたくさん文句を言ってやる!って思ってた。バカヤロー!よくも忘れやがって!って。でもね、
一旦、言葉を切ったナマエは再び前を向き、兵長の後ろ姿を見つめて、小さく微笑んだ。それはとても愛に溢れて。
ありがとうって。言っちゃうと思う。
兵長が来てくれたらきっとそれだけで全部報われるから。
その笑顔を兵長に見てもらいたい。だから、私はこの子を守りたいと思った。きっとオルオも同じ。
「…っ、ば、ばかやろ!兵長が忘れたまんまなわけねぇだろ!お前は黙って信じてりゃいいんだよ!」
「そうだよナマエ!その時には私があんたの代わりに殴ってやるんだから!よくも大事な友人を泣かせたなって!」
必ず二人で寄り添い合う日がくることを信じて。
・・・
「…あの壁外調査で彼女は右翼次列三、伝達班でした。」
ミケ分隊の班の1つ、グレオン班に所属していた。あの時の壁外調査は幸先が良くなかった。索敵陣形に広がったものの常に比べて出現する奇行種、空に何弾もの黒い煙弾が上がった。
索敵は機能せずいくらも進まないうち撤退の合図の煙弾が上がりほっとした。そんな時、右翼側から伝達が回ってきた。「右翼索敵壊滅状態、至急援軍乞う」と。
そこまでなら当時の兵長も情報と知ってたはず。ただ、そこに大事な存在がいることには思い至らなかった。それに気づいたのはその壁外調査から戻り、幾日か過ぎた食堂で。
兵長があの子の事を思い出したのは、本当に突然だった。
「ペトラ、ナマエの姿が朝から見えないんだか今日は非番だったか?」
突然かけられた声と内容にカップを持っていた手から力が抜けて落としてしまった。ガシャン。綺麗とは言えない音は私の心臓につき刺さったみたいに痛かった。
「おい、大丈夫かペトラ。」
「は…い、あ、あの、兵長、兵長は…」
「なんだ?もしかしてあいつ体調でも崩して、」
「リヴァイ、」
そこに様子を見ていたのかミケ分隊長が兵長の腕を掴んで食堂から引き摺るようにして連れ出してくれた。私は割れたカップを拾いながら震えが止まらなかった。なんで、どうして、今なの、と。
「ペトラ…、」
オルオが隣にしゃがんで手伝ってくれる。そのオルオも何とも言えない苦い顔を、していた。
「オルオ…」
「…」
「私…悔しい…」
「……きっと、兵長も、だろ。いや、あの人の方がこれから、ずっと辛いだろうな」
「……」
それから兵長は自分に起こったことを幹部の方たちから聞いたのだろう。顔色は悪かったけれど通常業務や壁外調査ではいつもと変わらなかった。その強靭な精神力には正直感嘆したけど、ナマエの存在を振り切ろうとしてる風に見えて寂しかった。
「私はその伝達を聞いて居ても立っても居られなくて、班長の許可をもらって右翼に進路を変えました。」
その時同じ班にいたオルオも一緒に。黒い煙弾は空に消えて名残りが靄のように揺らめいているだけ。それはもう煙弾を打つ人間が居ないことだろうか。唇を噛みしめ逸る気持ちのまま馬を走らせた。
そうしてそこで見たのは大勢の人間だったものと何体かの巨人の残骸。何度見ても見慣れない残酷なそれ。
「…そこで2体の巨人に、掴まれた彼女を見ました。」
兵長がひゅっと息を飲んだのが聞こえた。口元を手で覆い少し目線を落とした。けれどすぐに顔を上げて「続きを」と促した。
だけど、私の喉から声が出なかった。あんな、残酷なこと、きっと兵長を苦しませるになるだろうこと…。
「どんなことでも構わない、口にするにおぞましい事でも。俺は、知っておきたい知ってなきゃならない。あいつの生きた軌跡を。忘れていたからこそ、1つも、取り零したく、ない。」
オルオ、ペトラ、辛いだろうが、頼む。
悲壮なまでの思いに私は涙が止まらなかった。
嗚咽で話せない私のあとをオルオが引き取って続けた。
「ナマエは、来るなと叫んでました、逃げろとも。俺たち二人で一体ずつ、倒しました。その時に……一体に左腕を持っていかれて、もう一体を倒す時には下半身が巨人の、口の中でした。」
ペトラがうなじを削いで、口からこぼれたナマエをオルオが抱き留めた。かろうじて体は繋がっていたけれど一目で理解できた、もう。
残っていた巨人はその2体だけだった。ナマエを下におろせばペトラが彼女の手を握った。
「ナマエ、頑張ったね、さっき撤退の合図が出たの、帰ろう。」
「仕方ないから俺の馬に乗せてやらんこともない。光栄に思えよ。」
だけどあの子は『置いていけ』と言った。もう自分は長くないからと。
「そんなことっ、できるわけねぇだろう!お前は連れて帰る!へ、兵長に会いたくねぇのかよ!」
「そうよ!どんな形でも……兵長にあなたを、会わせたい!」
『遺体…荷物に、なる。二人には、ぶじに、帰って……ほし、い』
「嫌だ!絶対、絶対連れて帰るんだからっ、!」
握りしめた手から暖かさが零れ落ちていく。ペトラこ温度を移すように力を込めるけどすり抜けるばかりで。そして三人の時間を阻むかのように遠くに見えた巨人。いつこちらに気づくか分からない。オルオと顔を見合せてナマエを抱えようとしたけれど、どこにそんな力が残っていたのかと思う力で振りほどかれた。
『行…って、』
「ナマエっ!」
『…はや、く』
力尽きて倒れ込んだナマエはそれでも緑の煙弾を残った右腕で指差した。
『兵長、を、支えて、』
私の代わりに
そんなあの子の心の声が聞こえた気がして
あなたじゃないと意味無いのに、私達じゃダメなんだよ、あなたじゃないと……。だけどそれは声にならなかった。
「安心しろ、兵長はこのオルオ様が、ちゃんと支えてやる!」
「オルオだけに任せてたら心配だわ、……私だって、」
涙を拭えば彼女は嬉しそうに笑った。笑って、敬礼をした。
「それから、しばらくして、息を……引き取りました。」
兵長は深い息を吐いて「そうか、」と呟いた。
次いでしぼりだすように「危険な中であいつを看取ってくれてたんだな、感謝する」と私とオルオに敬礼をした。
もし、兵長がその場にいればあの子は助かったんだろうか。兵長が怪我をしなければ、彼女を忘れなければ。そう仮定の思考を今さらいくら考えたって仕方ない。けれどひとり寂しく逝くことは避けられただろうに。
「何か、残っているか?」
「ありません。…その、部屋の遺品は全て遺族の元に送り返されました。」
「そう、だったな、」
もっと早く兵長があの子のことを思い出していれば、本の一冊、小物の1つ、分けてもらえたのかもしれない。けれどこの時にはまだ兵長にとってナマエは一部下でしかなかったから。
でも、今は。
だから、ナマエごめんね。
「兵長、」
右胸の内ポケットから取り出してみせたのはジャケットについていた、あの子の腕章。テーブルに乗せ兵長の前にそっと滑らせる。兵長はじっと睨みつけるように見つめ、ゆっくりとした動作でそれを手に取った。そうして慈しむように撫でているのを見て、私の中で何かの感情が膨れあがった。
「…ほ、本当は、持っていかないで、と、言われました。」
「…どういうことだ?」
「あの子が、ナマエが…息を引き取る前に…
言ったんです。」
翼だから
ずっと、高く、どこまでも
空を飛んでいきたいから
だから、持っていかないで
「ナマエの遺志を、尊重しようと、思いました。」
膝に置いた両手をグッとにぎりしめた。その手にまだ冷たくなっていく彼女の手の温度が残っている。きっと忘れられない。
「ペトラ、なにしてんだ!?」
彼女の残った右腕の腕章を力任せに剥ぎ取った。オルオが非難じみた声で私を詰った。けど
「ウソつき!」
飛んでなんて行かせない、
「ほんとは、帰りたいくせに!っ、…誰より兵長の傍に、帰りたいくせに!」
きっと優しいあなたは兵長の重荷になりたくないと思ったんだよね。馬鹿ね、あなたの好きになった人はそんなこと考えもしないで、むしろ喜んで背負ってくれるよ。
だからどこにも飛んでいかないで、
待っていて、
「彼女を、連れて帰って、しまいました。きっと怒ってるかもしれませんね。」
「…ふ、心配するな。小言なら俺が引き受ける。今までの文句も含めて、」
キシッと音を立てソファから立ち上がった兵長はそのまま窓際に向かうとそのまま空を見上げた。私とオルオはソッと部屋を出ることにした、けれど最後にお願いがあると足を止めた。
「私は、人は死んだら終わりだと考えます。だけど何かの本で人の魂というのは巡ると読みました。」
もし、もし、あの子の魂が巡り巡って兵長の前に現れた時には
「ああ、その時は…。」
もし、次があるなら今度こそ幸せになって、ナマエ
「お前は今も、この空のどこかにいるのか?」
窓から空を見上げたリヴァイは、今は亡き想い人に問いかける。つれない薄情な男を最後まで思いやってくれた彼女が飛んでいるなら、ならば自分はどこまでも高く、高く空を飛ぼう。誰より近くナマエの傍にいる為に。
リヴァイの頬に生温い水が流れて落ちる。
「…ナマエっ、」
その涙は誰も知らない。
ただ澄み渡る青空だけが知っていた。
〈もう一度逢えたなら〉
「もしもし、エルヴィンか、なんだ?」
スタンドカフェでBlackBerryを見ていたリヴァイはマナーモードにしたスマホが震えたことで手を止めて電話に出た。相手は直属の上司であるエルヴィン・スミス。その手腕と頭脳を認められ三十代半ばで部長の椅子に座る男だ。
「いや、たいしたことじゃない。先ほど相手先から連絡があったよ。上手く纏めてくれたみたいだね。」
「まぁ、技術屋と畑違いの営業じゃ譲れない部分があって当然だ。だがどっかで折り合わなきゃならねぇ、」
BBで部下に指示を飛ばし、リヴァイはカップの紅茶を口に含む。あの時代より香りも味も驚くほど上等な物が安価で飲める。世界は豊かで贅沢になったものだ。
「お互いきっかけが見つけられなかったんだろう。君がいいタイミングで間に入ってくれたことによってスムーズにいった。ありがとうリヴァイ。」
「おい、お前が礼なぞ言うとは気味が悪い」
「はは、失礼だなリヴァイ。私にだって部下を労う殊勝さは持ち合わせているよ。」
「は、労う気があるなら酒の1杯でも奢りやがれ。」
「そう言えばお前とは最近飲んでないな。いいだろう、今夜飲みに行くか。」
「さっきの技術屋から美味い肴を出す店を聞いた。頑固親父だからな、酒もいいもんを出すぞ、」
「わかった、後でその店の場所を送ってくれ。」
「了解だ、エルヴィン。」
通話を終えて、少し冷めた紅茶をすする。BBを再び開きエレンに仕様書と見積りを出しとけとメールし、ペトラにエレンをそれとなく見て、手助けが必要ならアドバイスしろと指示をする。何の因果か前世の部下達は今も俺を助けてくれている。
部下だけではない。上司、同僚、近く、遠く、何かに引き寄せられたかのように集まっていた。ただ記憶を持っている者とそうでない者がいて、リヴァイは前者だ。
あの時代の皆が、いる。まだ会えていない奴らもいるがきっとこの世界のどこかで平穏を享受し暮らしているんだろう。それならば、己が愛したかつての恋人も、どこかで。
〈もう一度出逢えたなら〉
いつかどこかで出逢えるだろうか。
もし、出逢えたなら仕方なかったとはいえ、酷いことをしたと謝りたい。
そうして許されるなら、もう一度始めたい。
「は、なんて勝手な男だろうな俺は。」
前髪をかきあげて自嘲のため息を吐く。今頃彼女は違う男と幸せに暮らしているかもしれないだろうに、と。
「そろそろ戻るか。」
今日はエルヴィンも早めに仕事を終わらせてくるだろう。とっとと帰って仕事をこなしとこうと席を立った。
店を出ればもう夕方だというのに、いまだ昼の初夏を感じさせる温い風がすり抜ける。オレンジ色に染まっていく空には薄雲がグレーの線を引いたように描かれていた。
「お前は、どこにいる?なぁナマエよ。」
寂しげに呟いたリヴァイは足を踏み出した。
〈もう一度出逢えたなら〉
「ちょっとナマエー!いい加減に諦めて来なさいよ!」
『や、やっばり合コンなんて無理!お願い見逃がして!』
「何言ってんのよ!年令が彼氏いない歴のあんたの為に組んだんだから!ほら!」
『別に欲しくないよ!遠慮する!』
空から視線を落とせば歩道橋で騒いでいるのは女子大生って奴らだろう。やいやいと言い合う二人は行き交う人間の視線を集めていた。だがリヴァイはそんな騒ぎより合コンを渋る女の名前に足を止めた。もしかして、いや、まさか。
ここから顔は見えない。同名の違う別人かもしれない。確認すればいい。たがリヴァイの足は意思に反して動いてはくれない。怖いのか、あいつだったらあいつじゃなかったら、恨まれているか、憎まれてんじゃないか。唐突に訪れた負の思考にあっという間に侵食され身動ぎ1つ出来ない。
「あ、ちょっと!ナマエっ!」
『ホントにホントにごめんっ!今度ご飯奢るから許して!』
友人を振り切ったらしい女が階段を降りようとしてリヴァイの視界に入ってきた。その姿を目に入れた途端、体中から歓びが沸き上がった。
「ナマエ…、ナマエっ!」
『へっ?あいたっ?きゃあっ!?』
声をかけたことに驚いた彼女は階段で足をくねらせてそのまま落下する。周りの悲鳴や驚く声がリヴァイには遠く聞こえた。
空をバックに、モスグリーンのワンピース。白の薄いカーディガンが風にはためいて、それはまるで翼のようだった。
動かなかった体は力を取り戻し落ちて来る彼女を難なく受け止めた。
〈もう一度出逢えたなら〉
『兵長、ただいま…』
「ああ、おかえり…」
〈もう二度と離さないから〉
初出2016.5.30吾妻