その日、朝の鍛錬を終えた幸村が汗も拭わず縁側に腰掛けていた。
その表情はここ数日、憂いの色に染まっていて彼の部下である佐助はため息を吐き出しながら手拭いを差し出した。


「はい、旦那。風邪引くよ。」

「ああ、」

「なぁに?また先の世の夢?」

「……」


幸村は何事にも生真面目で真っ直ぐな性格をしている。諸事に対してはっきりとした考え方を持ち受け答え方もそれに相応し。良い意味での単純である。

その幸村の考え込む姿が最近増えている。それは主がある日縁側から突如消え、また突如佐助の上に落ちて帰ってきた日よりひと月たったここ最近である。

幸村はふた月と少し、先の世で暮らしていたと言うが、こちらでは10日程であった。たかが10日されど10日。この間佐助本人はもちろん真田忍軍総出で幸村を探し、上田城主に穴山小助を影武者として立てなんとか「幸村不在」を凌いだのだ。

帰還した幸村から「ここよりずっと先の世にいた」と言う言葉を聞いても信じられなかったが、なにせ気配も無く突然自分の背中に落ちてきたのだから忍びにあるまじき「不可思議」を認めるしかなかった。

その幸村であるが戻ってきた当初、あちらの世界での便利な道具や見たこともない絡繰りの事、鮮やかに溢れる食材、何より求めて止まない"平和"に治まった世を目を輝かせながら佐助に語っていた。
そして、幸村の恩人である名字家の人々。亭主の拓也、妻の春香、一人娘の名前を語る時には近しい者のように話しては、どうしているだろう、幸せでござろうな、と優しい目で空を仰ぎ締め括るのだ。


「泣いて、おられるのだ、」


その幸村が最近見る夢の中で子供が泣いている。初めこそ誰とも知れないか細くて小さな声だったが日を追う毎にその声は明瞭になり今でははっきり名前の声だと聞き取れるまでになっている。


「その子が泣いてるの?」

「うむ、いつも花のように笑う女童でござった。なぜ、あのように泣いているのか…。」


膝の上で握りしめた拳、その夢を見る度に、如何したのだ、なぜかように泣いておられる。
早く、早く傍寄って差し上げねば!そう思うのにどうして幸村の体は石の如く動いてはくれないのだ。


「…せめてこっちの世なら俺様すぐにでも捜し出しに行くんだけどね。」

「俺とてそう思う。ここなら如何様にもご恩返し出来ようものを、」


ただ案ずるばかりでは痛たまれぬ。そう言いもどかしさに更に深くなる主の哀愁に何とかしてやりたいと思う佐助だが、まず時代が違うのだからどうしようもない。
二人の間に沈黙が落ちる。

さわさわと風が揺らす葉の音に誘われ、仰げばあの世で見上げた空と何ら変わらない青。

いついつまでも幸せでいてほしいと願った家族。何があったのか、何かあったならばあの恩を返す時は今だろうに!


「何も出来ぬとは不甲斐なしッ…!叱ってくだされお館様ぁあ…むぐ!?」

「旦那、シッ!」


右手で幸村の口を塞ぎ左手で苦無を構えた佐助にただならぬ様子を見た幸村は瞬時に態勢を整える。
そうして二人、気配を探っているときだった。


―お――さ…、―か―ん…、

「声、子供だね。」

「うむ、どこから…、」

辺りを伺うがそれらしい童の姿も気配もない。一体どこからと更に耳を澄ましていた時、


「だ、旦那ッ!足下!」

「な、なんと!?」

すかさず飛び退った、たった今二人が立っていた地面がぐにゃりと歪み黒々とした穴が開いた。そうして、それと同時に「子供の声」がくっきりと聞こえるようになった。


「こ、この声…名前殿?名前殿ッ!?」

「待てよ旦那ッ!」


穴を覗き込もうとした幸村を体で押し留めた佐助。かれこれ2尺程広がった穴の奥深くからはやはり名前と思しい声。
矢も立てもたまらずに幸村は「危ないだろ!」そう叫ぶ佐助を押しのけて再び深淵を覗き見た。


『おと…さぁ…ヒック…―あさ……』

深く暗い穴の中。見下ろせば真っ暗闇な底にぽつんと一人座って泣いている子供。
肩を震わせ嗚咽を漏らし手で何度となく目をこすっている姿は痛々しい。それが名前だと思えばたまらず幸村は吠えた。


「名前殿ッ!そこに御座すは名前殿であられるか!?」


びくりと跳ねた肩。キョロキョロと辺りを見回す名前の様子に「上でござる!見上げてくだされ!」そう告げれば恐る恐る小さな頭がこちらを仰いだ。

その顔にはやはり見覚えかあった。あの頃より少しばかり成長しているもののその姿はまさしく名前。


「名前殿ッ、名前殿!どうされたのだ!なぜそのように泣いておられるッ!?」

『ゆ…ゆき兄ちゃん?ゆき兄ちゃんなの?』

「左様にござりまする名前殿!」


初めは訝しく見上げていた名前だが見下ろすのが懐かしい幸村だと分かると、再び大きな瞳に涙を滲ませそれは頬を滑らせた。


『ゆ…ゆき兄ちゃあん…』

「うむ!幸村にござりますぞ!」

『ヒック…名前、ひ、一人ぼっちに…なっちゃたぁ…』

「な、何故!?」

『お、お父さんと、エッ…おか、さん…死んじゃっ、たぁ…』

「拓也殿と春香殿が…?」


泣きながら話す名前に寄ると、二人で彼女の10歳の誕生日の贈り物を買った帰り際、車の事故に遭い亡くなったそうだ。

たったひと月前に別れたばかり、家族として過ごしてくれた優しい二人が常世の国に旅立ったなど信じられず茫然となる。


「旦那、」

「っ!」


佐助に肩を叩かれ、意識を名前に戻せば『ゆき兄ちゃん、』と己を見上げる名前。


『あのね、ゆき兄ちゃん…名前、もうこのおうちに…いられ、ないの…。』

「な、なぜでござるッ!?」


『し、親戚のおばさんが…よういく?して…くれるんだって…だから、そっちのおうちに、行かなきゃ…いけないって…』

でも

『ゆ…ゆき兄ちゃん、わ…たし…行きたくないよぉ…お父さんと…お母さん、ゆき兄ちゃんのいた…このおうちに居たい!』

「名前殿…しかし、」


いくら平和な世とは言えまだ小さな子供が一人で暮らしてゆけるはずもない。身内だと言う叔母御の傍にいたが良いと幸村は思うし、傍らで聞いている佐助も同意見だ。

しかし、次の名前の言葉に幸村の思惑は覆った。


『わたし…親戚のおじさんおばさん達の…やっかいもので…お荷物なんだって…』

「なッ!?」

『お金がかかるのにって…だから、このおうち、売るって…』

ねぇ、ゆき兄ちゃん

『お父さん…、な、なんで…名前を、置いてっちゃったの、かな?』


雫をポロポロとこぼして泣き続ける名前。二人が突然居なくなり淋しさに沈む間もなく、身内の心無い言葉で胸を痛めた子。きっと慰めてくれる人とて彼女の近くにはいないのだろう。


「出会ってまだ少しだけど拓也さんも名前も、もちろん私も、幸村くんが大好きだもの。」

幸せであって欲しかったのだ。かの方々にはいついつまでも笑っていて欲しかったのだ。恩返しが果たせぬならば、この世界からそれを生涯忘れず願っていようと誓った。


しかし、それすら叶わぬならば、一人泣いている彼女の近くにあって抱きあげてやりたい。誰一人彼女を守る者がいないのならば俺が守ろう。そなたは一人ではない、俺がいる。俺達は、家族ではないか。

そう決めた幸村の行動は素早かった。


「名前殿ッ!名前殿ーッ!手を、手を伸ばされよ!」

「ちょ、旦那ッ!落ちる落ちる!」


身を半分以上乗り出した幸村を慌てて掴まえる佐助。それでも、まだ、まだ、と穴の底、小さな名前に向かい幸村は手を伸ばす。


『ゆき兄ちゃん…』

「落ち着けよ旦那ッ!旦那があの子を連れてきてどうするつもりッ?戦ばかりのこの世界でどうやってあの子を守るッ!?旦那や俺様だっていつどうなるかなんてわかんないんだぜ!」

「ならば俺は死なぬ!どんな戦場に立とうと生きて帰る!俺は二度と名前殿を一人になど、せぬッ!」


腹の底から思いの丈を込めた言葉、佐助は深いため息を吐き困ったように顔を曇らせ、そうして沁みいるように笑いこう言った。「それでこそ、旦那だよ。」と。
佐助が認めてくれ力を得た幸村は再び名前に向き直る。その彼女の表情は期待と不安と緊張に彩られ複雑な顔色である。



「名前殿ッ!この幸村のいる世界は、そなたのいる世界に比べ、不便でござる!なれど名前殿が困らぬよう取り計らいまする!遊ぶ玩具も、面白いてれびなるものもござらぬ!なれど某と佐助や皆で毎日散歩や遠駆けに参りましょう!食事も粗末で甘味もほっとけえきもございませぬ!なれど佐助に絶品な団子を作らせまする!」

「ちょっと旦那ッ!何を勝手に…ま、いっか…。」

「いつ、いかなる時にも、もうそなたを一人ぼっちにはいたさぬ!」

『ゆき、兄ちゃん、』

「笑っていてほしいのでござる、」

「名前ちゃん、ほら、」


優しい二人の眼差しが降り注ぐ。両親が死んでから一度として向けられなかった暖かい気持ちに名前は泣いた。そうして彼女は求めた。差し出された手を、異なる世界にいる家族を。


『ゆき兄ちゃんッ!』


伸ばされた小さな手は、逞しい手に誘われ平和な世から戦国の世に引き上げられた。
そうして名前は昔『大好き』と飛び込んだ時のように幸村の首にしがみついた。


「大きゅうなられたのだな名前殿…、」

『ゆき…兄ちゃんッ…、わたし…一人ぼっちじゃない?』

「はい、だから、泣いて構いませぬ。これからはこの幸村が傍におりまする…」

『…一ヒック、ゆ…ゆき兄ちゃ…さ、さみしか…たよぉ…』

「うむ、」

『お父さ…ん、おか…さぁんッ…!』


父母を求める涙声を聞きながら俺もまた、家族を亡くしたのだと目頭が熱くなる。隠すように離れぬとばかり、強く縋る名前を幸村もまた強く抱き返した。


たくさん泣けばよい。
そうして悲しみが薄らいだ時には、
どうか笑うてくだされ。
俺は名前殿の笑顔が大好きゆえ。

名前は小さく頷き

ゆき兄ちゃんも、だよ
いっぱい泣いて
いっぱい泣いたら
いっぱい笑って



あなたの笑顔の理由になりたい

願うのだ。いついつまでも…

2014.7.31初出 吾妻
配布元:秋桜