最悪。
オフィスを出て、数メートル先に広がる霞んだ雨の世界に溜め息がでた。
生憎傘はもっておらず、もう時刻は9時を過ぎているために社内に残っている知り合いはきっといない。本当に今日はついていない一日だ。
出社と同時にお局さまから呼び出しをくらって心当たりのない嫌味をくどくど聞かされ、
やっとそれから抜け出してパソコンに向かったらいけ好かないえろ親父に「お疲れ様〜」と肩を揉まれ、
やっとそれからも抜け出して最近入ったばかりのバイトさんにコーヒーを頼んだら見事に書類の上にこぼされ、
自分の仕事が終わって帰ろうと思ったらどうしても外せない用事が入ったと同僚に仕事を押し付けられ。
それに重ねてこの雨。
駅まで走るにしてもこの勢いではすぐにびしょ濡れだろうし、昨日から少し風邪っぽいから無理はしたくない。かといってタクシーを使うのはお財布に痛いし…。こんなことになるなら朝しっかりと天気予報を見ておけばよかった。仕方ないから小降りになるまで待つしかない。
雨の中を走り抜ける車をぼんやりと眺めていると、不意に白い車が寄ってきてわたしの前で止まった。
この車…。
嫌な予感がする。
「ミア、ちょうどよかったな」
予感は的中。運転席の窓から顔を出したのは、近頃見慣れてしまったサングラスとにやりとした笑みだった。本当、タイミングがいいんだか悪いんだか。
「…どうしてここにいるの?」
「フフッ…、そりゃあ神様のお導きってやつだろ。ほら、早く乗れよ。送ってく」
その神様にわたしも感謝するべきなのかどうなのか。
確かにわたしは今大いに困っている。でもここでドフラミンゴの車に乗って、本当に大丈夫?まぁ今までの行動からしてそこまで強引に何かするような人でないのはわかっているけど、今日がどうかはわからない。
悩みながらちらりと空を見上げるが、そこから降りそそぐ雨は弱くなる気配がない。このままここで待っていたら夜中になってしまうだろう。
あぁ、もう…、仕方ない。
「……じゃあ、お言葉に甘えて…」
雨音に紛れさせてやっと聞こえるほどの声で言うと、ドフラミンゴは楽しそうに笑って車から下りた。
「どうぞ、お嬢さん」
勝手にわたしの手を引いて助手席にエスコートする。その間わたしが濡れないように自分のスーツのジャケットでさりげなく庇ったりして。
あ、そっか。
今日の彼はどこか違和感があると思ったら、いつものコートを来ていないのだ。品のあるダークブラウンのスーツがあまりにもしっくり似合っているせいで気付かなかった。日頃あんなに変態っぽい行動をしながら、時々こうして紳士ぶって、しかもそれが様になってしまうだろうところがドフラミンゴの嫌なところだと思う。
「車出すぞ」
世の女の子たちがよく男の人の車を運転する姿にときめくと言うけれど、ちょっとそれが理解できた気がする。真っ直ぐ前を見つめてハンドルを握る彼は格好よくて少しだけ心臓が跳ねた。……あくまで少しだけだけど。
雨の中から拾ってくれた恩人にお礼を言うべきなのだろうけど、わたしは俯いて黙ったままで、ドフラミンゴも珍しく静かだ。こんな状況だとかえって緊張してしまう。ただただ、早く家に着いてほしいと思った。
「チッ……、別の道行きゃよかったな」
「…え?」
顔をあげて窓を見ると、わたしたちを囲む車のライトが雨粒に反射してきらきら輝いていた。どうやら渋滞にはまってしまったらしく、そういえば先程からほとんど進んでいない気がする。
「この雨だから、事故でも起きたんだろ」
「……」
どうしよう。
車が進まないということは、もうしばらくドフラミンゴと二人きりでいなくてはならないということ。まずい、鼓動が速くなってきた。
車という場所のせいかいつもより距離が近くて、耳を澄ませれば彼の息遣いまで聞こえてしまいそう。もしかしたらわたしのこのうるさい鼓動も聞こえてしまうかもしれない。
どうしてこんなにどきどきしているのだろう。
隣の彼がストーカーまがいの男だから?
二人きりになっては危ないから?
体が自然と警戒しているから?
いつもよりも距離が近いから?
彼の服装がいつもと違うから?
彼がいつもみたいなふざけたことをしないから?
それともわたしが彼を…、
「…ミア、」
気付くのが遅れたのは考え込んでいたせい。
声に反応して顔をあげるとすぐそばにドフラミンゴの顔があって、いつのまに外したのか初めて見るサングラス越しではない瞳がこちらを見つめていた。
いつもみたいなにやにやした笑みを浮かべていたらそのままひっぱたくこともできたのに、そうできなかったのは彼の顔があまりにも真面目な表情をしていたからだろうか。なにもできないでいるうちにどんどんと距離は縮まる。このままではまるでわたしがドフラミンゴを受け入れてしまったみたい。
自分への警告も意味をなさず、結局わたしの体は動かなかった。
唇に感じる淡い熱。彼はわたしの唇を優しく食むと、わたしが抵抗しないとわかったのか後頭部に手を回してくる。もうなにも考えられない。
ドフラミンゴの体がぐっと近づいたとき、ふとある香りがわたしの鼻を擽った。
華やかに香るそれは、きっと女の人の香水。
どうしてそれが彼から、と考えて、頭の中ですべてが繋がる。この時間に出掛けていたこと、珍しくスーツを着ていたこと、体から女の人の香りがすること。
そうか、……女の人と、一緒にいたんだ。
ほんの数秒前まで甘い空気にのまれていた自分に嫌気がさす。所詮そんなものだ。
彼みたいな人がわたしに手を出すのはおかしいと最初からわかっていたじゃないか。彼の思い通りにはならないと決めていたじゃないか。それなのに雰囲気に流されて、バカみたい。
「…やめて、」
彼の胸を押して無理矢理離れる。
「ここまでありがとう。……あとは、歩くから」
「おい、……ミア!」
彼の静止も無視してドアを開け、霞んだ世界に飛び出した。
まだ歩いて数十分かかるだろう自宅を目指して足を動かす。雨は弱くなるどころかさっきよりも勢いを増し、わたしの体はあっという間にずぶ濡れになった。
ようやく家に着いて、雨を吸って重くなったジャケットを脱ぐ。放り投げたそれはぐしゃっとソファに着地して、わたしの今の状況を象徴するかのようにすごく惨めだった。
クリーニング、出さなきゃ。
そんななんでもないようなことはしっかりと考えられるのに、肝心なことについては全く頭が回らない。どうしてこうなったのだっけ。
考えようとしてもなにもわからなくて、ただ心の中がぐちゃぐちゃとかき混ぜられるだけ。頭がひどく痛む。体が熱い。
明日も会社なのに と思いながらも体は思うように動いてくれなくて、ふらふらとソファに近づくのがやっとだ。
明日になって、すべてなかったことになればいい。
消えゆく意識の中で、そう願っている自分がいた。
レイニーブルー
天気予報を見ていれば、
こんなことにならなかったのか
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20130401
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