※名前変換なし
ビターテイスト
越野目線
「空が飛びたい」
それがこいつの口癖だった。
毎日、昼休み、屋上。
高校生活の決まりきった日常の一部で、こいつは多くを語らない。
けれど、何が言いたいかなんて俺にはバレバレだった。
「ねぇ、越野。もうすぐ卒業だね」
塗装のかすれたフェンスに指をかけて下を見下ろすこいつは、いつものように購買の焼きそばパンにかぶりつく俺に不意に声をかけた。
うん、やっぱりいつもの味だ。
うまい。
これがもう食べられなくなるなんて残念だ。
「もうすぐっていうか、卒業式明日だろ」なんて心に浮かんだ言葉は口いっぱいにつまった炭水化物に阻まれて、ゆっくりと味わう咀嚼の合間に俺は喉だけを使って「んん、」と返した。
「越野は神奈川残留組だよね。会わなくなるねー」
そっけない俺を気にも留めず相変わらずフェンスの向こうを見つめるこいつは春から関西で暮らすらしい。
しっかりしているくせにどこかマイペースなこいつがなぜ勢いと笑いの国、大阪をえらんだのか甚だ疑問だが、なぜだかなんとなくそこには触れてはいけない気がして今日まで聞けず仕舞いだ。
明日の卒業式を終えて俺たちが新しい環境に入るまでにまだ時間はあるが、きっとその間に俺がそれを尋ねる機会はないだろう。
ごくりと口の中のものを飲み込んでフェンスに預けた背をずらして後ろへ顔を向けてみるが、俺のいる角度からは少しフェンスから離れたところにあるコンクリートの終わりとその向こうに広がる霞んだ空しか見えなかった。
俺の横で立っているこいつには何が見えているのだろう。
1、2年は午後一番の授業中だし、3年のほとんどは学校にいない。
俺たちのように早々推薦で決まってしまったやつらは自宅で惰眠を貪り、一般試験を終えたやつらははらはらしながら後期試験に向けて参考書を捲り、完全にこけて浪人が決まったやつらは絶望しながら予備校の資料を読みあさっている、そんな時期だ。
俺たちがいる屋上の真下の昇降口付近には誰もいないはず。
こいつの目に見えるのはきっと誰もいないグラウンドと、少し離れたところにで波打つ海と、それと、体育館くらいだ。
体育館。
俺が毎日過ごした体育館。
でもそこを見つめていたであろうこいつにとっては、“俺が”毎日を過ごした場所ではないんだろう。
体育館は、仙道が過ごした場所だ。
「ねぇ、最後だからわたしの恥ずかしい話聞いてくれない?」
「どんな?」
こちらに目線を寄越さずにかけられたお伺いに訊き返すと予感しつつも予想外な言葉が返ってきた。
「恋愛系。しかもちょっと危ないかんじの」
俺とこいつの間に漂っていた不確かな話題がついに言葉になるのか。
そう考えると卒業に際した別れを俺は改めて実感する。
そうか、卒業するのか。
しみじみとしながらいいぜ、と答えた小さな声は、別れの匂いがする3月の空気にすっと馴染んで消えた。
ありがとう、と返ってきた声を聞いて、俺は顔を背骨に垂直の方向へ戻す。
なんとなく、この話題をこいつの顔を見ながら聞いてはいけない気がしたからだ。
余計な気遣いかも知れないけれど、なんとなくそうしたほうがいいと俺のこの3年間の付き合いが言っていた。
「あのね、」
俺が目線を外してしばらくして、隣に立つ友人はふう、と一息吐いてからゆっくりとを開いた。
「仙道は、真面目だよね」
突然出てきた名前に不意をつかれる。
3年間の大半を共に過ごした3人組の最後の一人。
そして今ここにはいないあいつ。
進路も決まって手続きも済んですっかり自由な時間ができたあいつは、今ごろどこかの海岸で釣りでもしているんだろう。
この名前が出てくることは心のどこかでわかりきっていたはずだったのに俺の心臓がどきりと鳴ったのは、こういう話題ではっきりとその名前が空気に触れるのは初めてだったのと何よりこいつがこんなにすっぱりと切り出すなんて思いもしなかったせいだ。
それにしても。
仙道が、真面目か。
どこが。
あんないつも練習に遅刻してくるようなやつの、どこが。
「寝坊しました」
なんてへらりと笑うチームメイト及び無二の友人の姿が浮かんで思わず否定の言葉が出そうになったが、これも口にはださなかった。
「……あぁ、そうだな」
一呼吸置いた俺の返事は、別にこいつに合わせたわけじゃない。
確かに仙道は真面目だ。
バスケのことに関しては全力で否定するけど、他のこと、特にこいつが言っているような意味においては真面目過ぎるくらいに真面目だった。
隣のクラスのあのこに告白されただとか下駄箱にラブレターが入っていただとか、どんなに浮いた話題が出ようともその後にこちらから尋ねたときの答えは定型文で「あぁ、あれ。断ったよ」。
そのたびに「なんだ、もったいない」と返すこいつの声に何が含まれているのか俺が気付いたのは案外早かった。
何度も何度もそのやり取りを繰り返す間に俺は仙道のその真面目さを理解したけれど、同時ににそんなあいつの横でこいつがどんな思いをしていたのかもなんとなく理解していた。
誰かが悪いわけじゃないが、敢えて言うならこの中途半端に固く結ばれた友情が問題だったんじゃないだろうか。
「もうちょっと不真面目ならよかったのに…」
初めて聞いた直接的なこいつの願望は屋上を吹き抜ける少し冷たい風の音に混じって掠れる。
「もうちょっとチャラチャラしてて、いい加減で、女好きで、来るもの拒まずの節操なしならよかったのに」
それでもそれに続く言葉の一つ一つは俺の耳にちゃんと届いた。
「そしたらわたし仙道に、『セフレにして』って言ったのに」
俺に話しかけているはずなのにどこか遠くに向かって語っているように掠れた声は風にのってフェンスを越えた。
きっとそれは行きつくところもなしに大気中を漂うのだろう。
「恥ずかしい話、おしまい。……引いた?」
何の相づちも出来ずにぼんやりと校舎内へと続く色褪せた扉を眺めている俺を不思議に思ったのか、視界の端でさらりと黒髪が揺れた。
目線だけをそちらに向ける。
そのさらさらと揺れる毛先を辿ったところで、3年前より少しだけ大人びた顔が薄い笑いを浮かべていた。
「……いや」
引いたというか、驚いたに近いかも知れない。
俺の想像を絶するほどのこいつの想いの大きさに、ひどく驚いた。
そしてそれと同時に込み上げてきた、なんとも言えない怒り。
こんなことを思うくらいに好きなのに想いを伝えないこいつへの。
こんなにも想われていてしかもそれに気づいているくせに伝える機会を与えないあいつへの。
でも。
俺が怒ったところで今更何も起きないことなんてわかりきったことだ。
だからこそ今ここにこの3年間宙ぶらりんの立場を守り続けた俺がいるのだから。
だから、今の俺にはこいつのこの言葉をしっかりと受け止めてやることしかできない。
結局その後も何も言えずに黙っていた。
「あー…、空が飛びたい」
数分間の沈黙を破ったカシャリという音に気を引かれて隣を見遣ると、友人の両足は地面から30センチほど離れたフェンスにかかり、その右手は翼のように空中に広げられていた。
おい。
まさか、だよな。
そりゃあフェンスの上の終わりはまだまだ先だけど、それでも、
「……飛ぶなよ?」
「あは、ここからってこと?それは大丈夫、心配しないで」
万が一のことを心配してかけた言葉はへらりとした笑顔と共に一蹴にされる。
「まぁ、こんな青空の日は確かに死にたくなるけどね」
その笑顔は見慣れたもののはずなのに、続けられたその危うい言葉にいつものように冗談だろ、と笑い返すことはなぜだか出来なかった。
息を引き取る君の、
彼女が言う“死にたくなるような青空”の下、俺だけは見届けてやろうと思った。
俺だけは忘れないでおこうと思った。
この、俺の親友の、叶わずに散った初恋を。
* * *
俺は彼女に「空を飛んでどこにいきたいのか」と聞いてみた。
彼女は俺に「どこかこことは違うところ」と答えた。
そこが大阪でもいい。
地球の裏側でもいい。
むしろ地球の外でも、二度と会えなくてもいい。
彼女が降り立ったそこが彼女が幸せになれる場所であればいいと、そう思った。
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20131129
全力な男女の友情はアリですか?
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