《もしもーし、栄治くーん!起きてますかー?》
寝惚けた耳に響く軽やかな声。
「………ん…」
ぼんやりとした頭に染み込むそれは、生まれてから今まで変わらずに馴染んだ彼女のもの。
変わったことといえば、ここ二年ほどでそれが“俺の恋人の声”になったことと、ここ一年ほどのその声が“ずれた時間”の中で響いていることぐらいか。
「……今、何時…?」
《えっと、こっちが今22時だから、……7時くらいじゃない?》
「……眠い」
《あぁ、こらっ!二度寝しちゃだめだってば!今日も練習でしょう?》
そうだ。
それで葵にモーニングコールを頼んだんだっけ。
早く起きなくちゃならないことはわかっているけど、それでもやっぱりベッドが恋しくてなかなか起きるのがつらい。
うぅ…、と再び唸ると、携帯の向こうからくすくすと笑い声が聞こえた。
《栄治ー、またキャプテンに怒られちゃうよ?》
鼓膜を擽る“15時間先の”彼女の声。
例え半日以上先を生きていても葵の朝の口癖は変わらないらしい。
毎朝俺の部屋にやって来ては口にしていた言葉は、変わらずに俺の頭を次第にはっきりさせる。
仕方ない、そろそろ起きるか。
「……っと、」
暖かいシーツに別れを告げてなんとかベッドから這いだし、床に転がったスリッパに足を入れる。
もちろん耳に当てた携帯はそのままで。
《起きた?》
安心したようなこの声を電波を通さずに聞けたらどんなにいいか。
考えたって仕方がないけど、起こしてもらうたびに思ってしまう。
「大丈夫、起きたよ」
《よかった》
「っていうか葵、おはよう」
《あ、忘れてた……おはよう》
まぶたの裏に葵の姿が浮かんだ。
きっとちょっと照れたように笑っているんだろう。
18年間一緒にいるとそういうことが自然とわかってしまう。
「葵は明日も学校?」
《うん、今テスト期間なんだよねー》
嫌になっちゃう と拗ねたような声で言うその表情は、きっと唇でも尖らせている。
携帯を持っていない右手は、そう、自分の髪でもすいているんじゃないだろうか。
「そっか、じゃあこれから勉強するよね」
《うん。今日頑張らなきゃ卒業できないかも》
「え、それはまずい。頑張れ」
俺なんかと違って頭のいい彼女に限ってそんなことはないだろうけど、勉強する予定は事実なんだろう。
時間があれば朝飯を食べながら少し話したかったのに……、残念。
《ありがとう。栄治も頑張ってね、いってらっしゃい!》
明るい声を最後にぷつりと電波が途切れる。
途端に一人で迎える朝を意識してしまって憂鬱だ。
ふう とひとつ息を吐いて、俺はいつものようにキッチンへと向かった。
* * *
生まれてすぐ 隣にバスケットボールがあったように、生まれてすぐ 隣に葵がいた。
葵はうちの隣に住んでいて、お袋と葵の母さんが仲が良かったこともあってか俺たちはまるで兄妹のように育てられた。
生まれて初めての友達は葵。
毎日一緒に通学路を辿ったのも葵。
毎朝起こしてくれたのも葵。
それから人生で初めて好きになった女の子も葵で、人生で初めて俺のことを好きになってくれた女の子も葵だ。
きっと俺がバスケをしているのを一番長く近くで見ていたのも葵だったと思う。
もちろん親父以外で だけど。
バスケ狂の親父は葵にまでボールを買ってやって小学校高学年になる前くらいまでは俺と一緒に鍛えていたけど、彼女のその壊滅的な運動神経に早々見切りをつけたみたいだった。
それからの葵は俺の応援役で、親父とお袋以外でこの世界で最初の沢北栄治のファンとなった。
きらきらした目で試合中の俺を追う葵のことを考えるとプレーするのが楽しくて、だから中学で嫌な思いをしても頑張れたし高校では日本一になるために奮起できた。
葵がいたことが俺が今ここにいる理由のひとつだと思う。
いつの間にか“特別な幼馴染み”から“特別な女の子”に変わっていた彼女に格好いいところを見せたくて。
それでも男ばかりの工業高の応援には来てほしくなくて。
試合のたびにもやもやしていたあの頃の自分を思い出して笑ってしまう。
「You look happy,EiJi
(ご機嫌だな、栄治)」
チームメイトの言葉を曖昧な笑顔でかわしてアップを続ける。
“ご機嫌”だって?
わかってないな、あいつ。
そりゃあ葵のことを思い出すと自然と笑顔になってしまうけど、でも……、
ギャラリーを見上げると女の子たちがおしゃべりをしながらゲーム開始のブザーを待っていた。
うちのチームはなかなかファンが多いからこういうちょっとした練習試合でも結構観客が入る。
見回してみたってもちろん葵はいない。
思い出して笑うのと実際に会って笑いあうのとではずいぶん違うと思う。
だから葵のことを思い出したあとは決まって切なくなるんだ。
会いてーな…。
ブザーと共にコートに入る。
こっちに来てから一年、英語はまだあやふやながらチームメイトともわりと打ち解けた俺はよく試合に出してもらっていた。
ありがたいことだ。
高校生と言えども本場はやっぱり本場で、例えるなら、そうだな…
毎回の試合がインターハイ決勝みたいな感じ。(と言っても、俺は一度しか経験してないけどさ)
分かりにくい表現だけど、とにかく一人一人のレベルがかなり高い。
そしてその選手はみんな河田先輩並の身長だから厄介だ。
2メートル越えのやつも結構いて、開始早々俺をべったりマークしてる目の前のこいつもそのなかの一人だと思う。
俺だって日本じゃ結構でかい方だったけど、さすがアメリカ。
こいつは俺より15センチくらいでかいかな。
15センチ、ね……。
この前葵が言っていた。
「地理の授業中に計ってみたら、日本からアメリカまで15センチだったの!」
すごく近い気がして嬉しかった、そう言って笑っていたっけ。
馬鹿だな、葵は。
それはあくまでも地図上の話だろ。
実際ここから日本まで約6000キロ。
近いわけがないだろ。
本当に葵は昔から楽観的で……、
「Hey,EiJi!Wake up !
(おい栄治!集中しろ!)」
「っ!……Sorry
(……すみません)」
あーあ。
またキャプテンに起こられた。
今回は葵のせい なんて言った葵にまで怒られるか。
怒鳴り声と同時にまわってきたボールをつきながらゴールに向かって走る。
……楽観的な訳じゃないよな。
彼女がこの関係を明るく受け止めようとしてることぐらい俺にもわかる。
6000キロの遠距離恋愛なんて、さぞかし不安なんだろう。
日本に帰るのなんて夏の長期休暇くらいしかできないし。
「、おっと」
例の2メートル越えが意外な俊敏さで仕掛けてきてびっくりした。
考えごとをしながらのドリブルはここでは危険だ。
またキャプテンに怒られるところだった。
日本ではなんでもなかったこのドリブルは、こっちに来てから途端に難しくなった。
今までならあっという間に置き去りにできた相手のプレイヤーもちょっとやそっとじゃ抜けない。
ここがどこなのか改めて感じる。
やっぱりすごいよな、アメリカは。
俺より上手いやつなんかゴロゴロいて、あの山王よりもいいチームもたくさんあって、俺の前に立ちはだかる壁は天辺が見えないくらいに高くて。
だから楽しいんだ。
毎日毎日新しいことを感じられる。
相手や仲間のすごいところを見つけて悔しく思ったり厳しい練習を辛く思うこともあるけれど、楽しくて楽しくて仕方がない。
試合になれば尚更だ。
目の前に立つ例の2メートル越しに改めてゴールを見据えた。
奴の殺気にも似たボールへの執着心にぞくりと背筋が震える。
しかしそれが俺の緊張感も昂らせて、なぜか笑いが込み上げてきた。
絶対に渡さねぇぞ。
相手が怯んだ隙をついて抜き去る。
壁の天辺が少し近くなった気がした。
18年間ずっと耳の奥で響き続けているボールの音。
足元で鳴るバッシュの音。
手のひらに吸い付く皮の感触。
俺のために体を張って道を作るチームメイト。
観客席からの応援の声。
大好きなバスケがここにある。
葵はここにいないけど、ここにはバスケがある。
越えたいと思える高い壁を持ったバスケがある。
正直俺も日本に帰りたい。
葵の側にいたい。
不安になんかさせたくないし、普通の恋人同士がしているように 手を繋ぐだとかデートをするだとかキスをするだとか、そんななんでもないことを葵としたい。
でも、
だからと言ってバスケを捨てて帰るなんてことは俺にはできないんだ。
この壁を越えるまでは帰りたくないんだ。
だからせめて、
いつかこの名前が、この沢北栄治と言う名前が太平洋を越えて日本に大きく轟くように、
たどり着いたゴール下。
誓いを胸に、俺はワックスが光る体育館の床を思いきり蹴った。
高く翔ぶ
太平洋を跳び越えるくらいに、
高く、高く、
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20130401
こりゃひどい。
沢北謎すぎ わけわかめ。
次ページは細かい後書きです。
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