「キッドー、髪結んで!」
うちのお嬢様ほどらしくないお嬢様はいないと思う。
右手に結い紐、左手に櫛を持ってぱたぱたと俺のもとに駆け寄ってきた“お嬢様”を見て、改めてそう思った。
「…シン、お前いい加減に一人でできるようになれよ」
「え、無理だよ。頑張ってもいつのまにか絡まっちゃうんだもん」
念のため言っておくが、やって!と可愛らしく微笑み、両手のものを差し出して俺の膝に座る彼女は勿論幼女なんかじゃない。
成人こそしないものの、そろそろ結婚相手が見つかってもいいほどの年頃だ。
「仕方ねぇな…」
自立させなくてはという思いに反してなんだかんだ言うことを聞いてしまう俺も、勿論じいやなんて年じゃない。
こいつの結婚相手になるだろう男と大して年は変わらないはず。
そんな立派な“男”の膝に易々と乗ってくるなんて、やっぱり俺はどこかで教育の仕方を間違えたらしい。
「……ほら、これでいいか?」
「うん、完璧!ありがとね」
そう言って来たときと同じように忙しなく駆けていくシンを見てため息を吐く。
執事としてシンに仕えて5年。
堅苦しいことが苦手な俺にとって、『××しなさい!』『仰せのままに、お嬢様』みたいなアホらしい関係でなくここまで来れたのは有難いが、果たしてこれでよかったのか。
さっきのようなことはまぁ5年も一緒にいれば、と割りきれなくもないが、近頃のあいつは根本的に何か危ない気がしてきた。
これはつい一昨日のこと。
朝いつものようにシンを起こした後ベッドを整えていると、着替えたシンが近寄ってきた。
なにやらワンピースの胸元を押さえているようで、不思議に思って振り返ると…
「キッド、チャック上げて?」
あいつは悪びれもせずに素肌の背中を俺に向けて言ったのだった。
とりあえず無言でチャックを上げてやり、笑顔で礼を言うシンを見送って作業に戻ったのだが、実のところ頭の中は大混乱。
あいつのことだからわざとではないと思うが、それだけに俺の悩みはでかくなる。
おまけにそれは日を追うごとに増している気がするから頭が痛い。
一体どこで間違えたのか。
いつからあいつはあんな無防備な女になってしまった?
この事はもうあいつの両親にバレているのだろうか?
もしこの事が知られたらどうなる?
“お嬢様なるもの貞淑かつ清楚であるべき”という世の習いから大きく外れてあいつを教育してしまった俺は、当然何らかの処罰は免れられないわけで。
はぁ、とため息が出た。
「キッド、どうしたの?眉間のしわすごいけど」
「あ?……いや、なんでもない」
いつのまにか茶を淹れる手が止まっていたようだ。
シンが不思議そうな目で見上げている。
「ふーん。変なキッド」
変なってなんだよ。
お前のせいでこっちは職を失いかねないというのに。
ムッとして少し眉をひそめると、こっちを見つめて、ふふふ なんて楽しそうに笑っていた。
……やっぱり、こいつは早いうちに矯正したほうがいいようだ。
「なぁ、シン。お前そろそろ自立しないか?」
「へ?どうしたのいきなり」
「お前ももう大人だろ?いつまでも俺に頼っててどうすんだよ」
「…まだ成人してない」
「歳の話じゃねぇ」
「……」
「とにかく、髪ぐらい自分で結えるようになれ。…それと、着替えもな」
それだけ言ってカシャリとポットを置く。
執事の俺がその主であるシンに自力しろなんて言うのも可笑しな話だが、いつまでも俺が側にいられるわけでもない。
シンに婚約者でもできたら、俺なんか早々に解職だろうな。
でもいざその時になってシンがまだ一人で何もできないような状態じゃ、こいつの両親は安心して嫁にやれないだろ?
俺のこういった判断もその事を思うが故だ。
チラリとシンを見ると俺に怒られたのが不満なのか、うつむいて何も言わなかった。
こいつが反論しないなんて珍しい。
ひとつ、ため息を吐く。
最近多いな、ため息。
このまま二人でいてもシンは何も言わないだろうと感じた俺は、シンを残して部屋を出た。
パタンと閉じた扉の音が、何故か寂しかった。
‐ ‐ ‐
シンがおかしい。
あれはいつからだったか。
昨日?
一昨日?
…そうだ、この間俺が説教してからだ。
あれからシンが俺に何か頼むことはなくなった。
むしろ避けられている気がする。
まず、朝いつものように起こしに行くとすでに起きてベッドは自分で整えてある。
その後の着替えも一人で済ませ、髪も不器用ながら一応はまとまっていた。
食事もいつもは俺に嫌いなものを差し出してくるはずなのにいつのまにかニンジンは皿から消えていて、夜は眠れないと駄々をこねることなく静かに眠っている。
一体あいつに何が起きた。
別に悪いことではない。
これでシンは一応いつでも婚約者を決められるようになったのだし、何よりあいつが俺にまとわりつくことがなくなったおかげで俺も通常の執務に集中できる。
これが本来の状況なのだから、きっと仕事もはかどるはずだ。
なのに、
一向に減らないこの書類の束はなんだ。
正直言って、こうもシンが静かだと逆に心配になる。
まさかどこか体の調子が悪いんじゃないか。
まさか俺に伝えずに一人で外に出ていったんじゃないか。
まさか俺が執事であることが嫌になったんじゃないか。
まさか、
俺のことが嫌いになったんじゃないか。
気付いたらシンの部屋の前にいた。
ノックをしてドアノブを回す。
「…シン?」
「え、キッド!? ――わっ!」
ガシャンと音がして、シン握っていたティーポットが倒れ、中の熱い湯がシンの手にかかる。
「っ!…何やってんだよ!」
素早く腕を掴み、バスルームへ引っ張っていった。
自分のシャツの腕を捲ることも忘れてシンの手に冷水をかける。
「……」
こんな状況ではあるが二人きりでいるのは久しぶりで、何だか無言になってしまう。
シンもまた俺に怒られると思っているのか何も言わない。
バシャバシャと、水の音だけが響く。
沈黙を破ったのは俺だった。
「…茶を淹れるときぐらい俺を呼べ」
「……ごめん」
キュッと蛇口をひねって水を止める。
シンの手の赤みを見ようとして、浴室の電気がついていないことに気づいた。
それほど急いでいたのか。
「別に怒っちゃいないが、…俺の見てないところで勝手に怪我すんなよ」
「……」
何も応えないシンに、はぁ とため息を吐く。
シンが静かになっても変わらないこれは、近頃俺の癖になりつつある。
掴んでいた手首を放そうとすると、逆にシンに手首を掴まれた。
「……だって、…キッドが自立しろって言ったんじゃん」
うつむいたまま、ぽつりと言葉を続ける。
「だから何でも自分で頑張ってみたのに…」
…なんだそれ。
「まさかお前、それで俺を避けてたのか…?」
「……ごめん」
シンの応えを聞いた瞬間、俺の中でずしりと重かった何かがふっと軽くなった。
この感情は"安心"というものに似ている気がする。
……何故安心してるんだ?
自分でも訳のわからない安堵に焦って、顔をそむけた。
それでもシンの指は俺を掴んだままで、ますます目を合わせられなくなってしまう。
「…あのね、キッド。自立するの、もう少しゆっくりじゃだめかな……」
合わない視線のまま、シンが呟いた。
「ここ何日か何でも一人でやってみて、特にできないわけでもなかったんだけど、…その……」
もごもごと口ごもるその言葉の先を、俺は敢えて聞かないことにする。
あまり深く追求すると都合良くとってしまいそうだし、何より俺のこの訳のわからない感情の意味を理解してしまいそうだ。
今はまだ、その時ではないだろう。
「…別に、すぐに自立しろなんて言ってない。追々やってけばいいだろ」
ちらりとシンの方に目をやり、思いがけなく合ってしまった視線に驚く。
意地を張って逸らすまいとしていると、それはシンの方からはなれていった。
「……わたし、ちょっとずつ頑張るからから」
そこまで言ってぱっと俺の手を放す。
そして再び交わった視線に捕らわれて動けない俺に、その言葉の続きを投げつけてバスルームの外へとかけて行った。
…なんだ、あいつ。
言い逃げなんて卑怯だろ……!
「……おう」
一人ぼっちの浴室にぽつりと落ちた俺の返事は意外なほどタイルに響いて、俺の胸をむず痒くした。
一人じゃ何もできないから
だから、
わたしがちゃんと自立するまでは
「そばにいてね!」
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執事キッド。
ちらりずむ様提出
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