07/27 Sat 02:01:06
「晴子ちゃん、グラスってどこにあるー?」
「あ、それはもうそっちに用意してありますよ」
指差したダイニングテーブルには様々な食べ物が並んでいる。 市販のお菓子や彩子さんが作ったケーキやサンドイッチなど、いかにもパーティーらしく楽しげだ。
今日ここで行われるのはわたしたち湘北高校男子バスケットボール部の卒業記念打ち上げ。 といってもメンバーはわたしたちが一年生だったときの14人、会場は当時のキャプテンの家、つまりわたしの家という簡単なものなのだけれど。
開始まで一時間を切った会場のキッチンでくるくると動く彩子さんは大学生になってますますきれいになった。 言い寄ってくる男の人も多く宮城さんがいつもピリピリしているらしいが、先ほど三井さんと話す彩子さんを見つめる宮城さんの目にはわずかながら恋人の余裕がうかがえた。
「彩ちゃん、これどうしたらいい?」
「あら、もう書けたの。早いわね」
「へへ、そりゃあ彩ちゃんに頼まれたものだから…」
大きな画用紙を抱えてキッチンへやって来た宮城さんが嬉しそうに笑う。 二人の関係は昔とそう変わらないように見えるけれど、付き合い始めたと報告してくれた彩子さんの顔がとても柔らかかったことをわたしはちゃんと覚えている。 きっとこの二人にはこういう空気があっているんだろう。
「これ飾るの、向こうの壁のところでいいか?」
後ろから三井さんがぬっと現れて宮城さんからその画用紙を奪った。 その拍子にひらりと画用紙に書かれた大きな文字がわたしたちの目に入る。
『サヨナラ、流川』
シンプルなその文字に、どきりと心臓が跳ねた。
「『サヨナラ』ってあんたたち…」
「だってサヨナラじゃねぇかよ。生意気にアメリカに行くとか言いやがってよ」
「そうだよ彩ちゃん。あの流川がちゃんと2年で帰ってくる補償もないし」
「あいつ、案外むこうの金髪の姉ちゃんに囲まれてにやにやしてっかもしんねぇぞ」
「もしかしたらそっちに釣られてそのまま帰って来なかったりして…」
「くそっ!流川め!」
「確かに羨ましい……、って彩ちゃん!今のは違うんだ!俺には、」
―――スパン、スパン!
「うるっさい!とっととこれ貼ってこい!」
カウンターに置いてあった布巾が鮮やかに舞い、まるでいつかのハリセンの如く二人を黙らせる。 今だに二人とも彩子さんには敵わないらしく、宮城さんはしゅんとしながら、三井さんはしぶしぶとリビングの方へ向かった。
二人の背中を見つめながらわたしは気を落ち着けようと深く息を吸った。
本当に、自分が嫌になる。 流川くんとサヨナラだから、流川くんが2年で帰って来ないかもしれないから、アメリカで恋人を見つけるかもしれないから、だから何なのだ。 同じ部の仲間が遠い地に行ってしまう寂しさ以外の感情をわたしが持つのは筋がちがうだろう。
「ごめんね、大丈夫…?」
肺の半分ほど空気を吐き出したとき、彩子さんがこちらを見つめていることに気付いた。 きっと彩子さんはわたしの今のこの気持ちに気付いたのだろう。
「…大丈夫です」
「ならいいけど…。まったくあいつらは、いつになってもお馬鹿なんだから」
デリカシーがないって言うのかなんて言うのか…、そう続けてやれやれとため息をつく彩子さんは相変わらず優しい。 バスケ部でお世話になっていたときもその後も、いつでもわたしのことを気にかけてくれていた。 特に、わたしと流川くんのことを。
「彩子さん、」
そんな彩子さんには言わなくてはと思っていた。 彼女には当然、ということの他に、わたしが誰かに伝えて確かなものにしたいということもあるのだけれど。
「わたし、流川くんのこと諦めることにしたんです」
諦める。
ついに言ってしまった。 卒業式からの数日、心のなかには何度も浮かべていたが口にするのは初めてだ。 自分の声で聞こえたその5文字が自分の耳へと戻ってきて、心のなかにあったときよりもずっとしっかりとしたものになった気がする。
どきりと一度大きく脈打った鼓動を受け止め真っ直ぐ前に目を向けると、彩子さんはわずかに眉を下げこちらを見つめ返していた。
「……いいの?」
「…はい。もう決めたんです」
わたしがこれ以上想っていても、何にもならないので。
口にして、自分の言葉ながら寂しくなる。
そうなのだ。 その通りなのだ。 わたしがこれ以上流川くんのことを好きでいたって、この想いが実を結ぶことはない。 それはこの三年間で十分わかった。
だからもういいじゃないか。 三年間たくさん脈打って、たくさん傷ついて、たくさん頑張ったわたしのこの心を、そろそろ休ませてあげても。
最初は違和感のあった「諦める」という言葉は、空気に触れたことによってわたしの体に馴染んだらしい。 先ほど宮城さんと三井さんの話を聞いたときからは考えられないほどに気持ちが穏やかだ。
その気持ちに任せて少しだけ微笑んで数秒、視界が急にぐらりと揺れた。 頬にはくるくると巻いた柔らかい髪が触れ、背中は暖かい腕に包まれている。 どうやらわたしは彩子さんに抱き締められているらしい。
「…晴子ちゃん、本当に?」
「はい」
「本当に、本当?」
「本当に、本当ですよ」
「………」
黙ってしまった彩子さんの背中をきゅっと抱きしめ返すと、彩子さんの腕がますます強くなった。
「……晴子ちゃん、わたし晴子ちゃんにずっと黙ってたことがあるの」
「なんですか?」
「……」
「彩子さん…?」
「流川、あいつね……、中学のときから付き合ってる彼女がいるのよ」
どきり。
穏やかに落ち着きかけていた心臓が予想もしていなかった言葉に再び大きく跳ねた。 もしかしたら彩子さんに伝わってしまったかもしれない。
何と言っていいかわからずに黙るわたしの耳に彩子さんの声が入ってくる。
「わたしも最初は知らなくて、知ったのは高校卒業してからで、晴子ちゃんに言おうかどうか迷ったんだけど…、」
晴子ちゃんのことを考えたら、どうしても言えなくて……。
彩子さんの声が震えている。
「彩子、さん…、泣いてるんですか?」
返事は返って来ないが、ぐすっと聞こえた音がわたしの問いに答えていた。
彩子さんが、泣いている。 いつも元気で明るくて強くて、涙なんて見せたことのなかった彩子さんが泣いている。 こんなのは初めてのことだ。
「…彩子さん……、」
「……っ…、」
「…彩子さん、泣かないでください」
「……うん、ごめんね」
「…謝らないでください」
彩子さん、わたしは彩子さんの優しさをちゃんとわかっています。 わたしのこと、守ってくれたんですよね。 もう望みがないようなわたしのことを、傷つけないように。
「……彩子さん、もういいんです。わたし、もう流川くんのこと、…好きじゃなくなるんですから」
ちゃんとわたしは前に進みます。 ちゃんと、諦めます。 だから、もう泣かないでください。
「…彼女さんのこと、教えてくれてありがとうございます。おかげでちゃんと諦められそうです」
そう口にしたらなぜか涙が溢れてきた。 言っていることと矛盾しているみたいで情けないが、どうしても押さえられなかった。
でもこの涙は流川くんのことでの悲しい涙じゃない。 彩子さんがこんなにもわたしのことを想ってくれたことが嬉しいからだ。
それと同時に、高校の三年間についてもあれでよかったのだという気持ちがしてきた。 流川くんだけで一杯だったように思えた三年間の間に、わたしはたくさんの幸せをもらった。 こんなに優しくて頼れる先輩も、大好きな友達も、全国区のバスケ部のマネージャーという経験も、そして、誰かをあんなにも愛することができるという気持ちも。
結果的にはバッドエンドだったかもしれない。 たくさん泣いたし、たくさん傷ついた。 それでも彼のおかげで色々なことを頑張れたのは事実で、彼のことで悩むたびに誰かの優しさに支えられたのも事実だ。 今はまだわからなくても、わたしのこの三年間の想いはちゃんとわたしを成長させてくれたのだろうと思う。
こんなことを言うのはちょっと恥ずかしいけれど、恋ってなんて偉大なんだろう。
「流川くんは彼女さんのこと、大好きなんでしょうね」
「…?」
わたしの言葉に、泣き止みつつあった彩子さんが顔を上げた。 ちょっと目が赤くなってしまっているが、やっぱり彩子さんはきれいだ。
「流川くんがあんなに輝いていたのは、彼女さんがいたからだったんじゃないかと思います」
そう言って涙で濡れた顔で微笑むと、彩子さんは何も言わずにさっきよりも強く強く抱きしめてくれた。
もう大丈夫だ。 わたしの三年間はちゃんと意味のあるものだった。 いつかきっと未来のわたしの役にたつはず。
その日が来るまで、まずは流川くんへの想いをちゃんと思い出にして、ちゃんと前に進もう。 そしていつの日か、流川くんよりもっともっと素敵な彼を見つけよう。
彩子さんの優しさに包まれながら、そう思った。
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20130727
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