ヘビースモーカーと夜の星
「はぁ? ちょ、姉さん! 切るなお前っ、待てっ」
唐突にかかってきた電話は、かかってきた時と同様唐突に切れた。
通話が終わったあの気の抜ける電子音を聞きながら俺が頭を抱えるのは、三年と少しぶりのような気もする。
原因がどちらも実姉というのが何とも物悲しい。
『文紀ごめーん、デキちゃった。ちょっと援助してくんなーい?』
三年前、脳天気にシングルマザー宣言キメた俺の姉は、今回も至って脳天気にとんでもない要求をしてきた。
『文紀ごめーん、海外出張決めちゃった。隆文預かってくんなーい?』
眉間のシワを揉みながら、なんとしてもかけ直すべきだろうと電話のリダイアルを押したら無情な知らせ。
『お掛けになった電話番号は、現在電波のとど』
「ヤロウ確信犯かよ!」
叩き付けた電話の音に、これまた脳天気な調子で「何騒いでんのー?」と後ろから声がかかる。
それに頬をひくつかせながら、あの姉は俺ん家の環境をちゃんと把握してんだろうかとまた頭を抱えたくなった。
ヘビースモーカーと夜の星
キラキラと眩しい同居人の目に、俺は繋いだままの小さな掌がキュッと強張ったのに気付いた。
そんなに警戒しなくてもこの生き物に他意はないんだ、と言い聞かせた所で三歳児に理解が出来るだろうか。
だって、目をキラキラ輝かせながらこちらを凝視している生き物は、大人の俺でさえちょっと引くくらいキラキラキラキラ好奇心に満ち溢れている。
まぁ似たような精神年齢なので直ぐに打ち解けんだろ。
「ミノリン、ミノリン。この小さい子誰っ!? なんかミノリンに似てるけどもしかしてもしかして俺達の」
「落ち着けど阿呆」
玄関先まで四つん這いでにじり寄ってきた馬鹿の顔面に、気味が悪いので素足をお見舞いしてやったら当たり前のように舐めてきやがったので、切り忘れていた足爪で額を引っ掻いてやった。
ってか、俺達の何だと言う気だったんだこの馬鹿は。頭涌いてんのか。
「痛い!?」
「気持ち悪いんだよ変態。子供の前だ、自重しろや」
のたうち回る同居人を、甥の隆文がハラハラと見守っているので、ポンと背を押してやる。
気味が悪い生き物だが無闇に噛みついたりしねーから大丈夫だぞーと。
「隆文、俺の飼い犬だ。自己紹介は?」「犬!? 犬っつった今!?」
「わんわん?」
見えないよ? とぷっくりした顔をしかめて見上げてくる隆文は、まぁ身内の欲目もあるだろうが可愛い。
あの姉からこの子供が産まれたって事は、種がよかったんだろうな。うん。
けして母親のようには育ってくれるな。
「ねぇ、今犬っつったよね?」
「うるせーよ馬鹿。ほら、隆文」
「かなみたかふみ、さんさいです」
「あ、俺は沢渡雷太、三十歳です」
「わんわん?」
「ちがうよー」
あぁほのぼのしい、ほのぼのしい。首を傾げた隆文に、同じく首を傾げた同居人、雷太。
俺はどうやら問題無さそうな二人を見ながら、深い溜め息を吐き出す。
どうせなら、問題があった方がまだ断れただろうに。
天気、快晴。
仕方なく仕事を半日で終わらせた俺は、喫茶店の隅っこで姉の文子と待ち合わせをしていた。
事の発端である電話の内容は既に彼女の中で決定事項であるらしく、つまり俺に拒否権という素敵な権利は発生しないわけだ。
文子が遠い異国に旅立つのは三カ月後に決定していると言うのだから笑わせる。
そのための準備という事で、隆文を慣らすために一週間のお泊まり訓練を申し付けられ、俺はのこのこ待ち合わせに応じてるのだ。
仕方がない。両親は五年前に他界して、頼れる親戚もいない俺達は、いざという時互いだけが頼みの綱だ。
「ごめんごめん、遅くなっちゃったぁ。文紀、もうご飯食べた?」
しばらく独りで煙草を吹かしていると、騒々しく喫茶店のドアベルを鳴らし騒々しく喚きながら入ってきた女がいた。残念ながら俺の姉。
「とりあえず静かにしろ。飯はまだ」
「じゃあここで食べちゃお。奢るよー」
一直線に向かいの席へ座った文子は、後ろをポテポテ付いてきた隆文を抱き上げてメニューを開く。
俺は吸いかけの煙草を灰皿へ押し付けて、苦味の残る口へ水を流し込んだ。
「隆文、何食べる?」
「ぼく、おむらいすがいい」
「じゃあママはハンバーグにしよっ。文紀は?」
「ハヤシ」
「すいませーんっ、注文お願いしまーす」
無愛想がウェイターが文子が早口で告げる注文を、伝票へ書き込んでいくのをぼんやり眺めながら、ついでに灰皿も下げてもらうかと手を伸ばした矢先、小さな手が俺の手を止めた。
「みーの、こんにちは」
「あぁ、元気だったか、隆文」
灰皿へと伸ばした手を取って緩く上下に振りながら、隆文がぷっくりした頬を赤く染めて笑う。
隆文と前に会ったのは三カ月前だが、相変わらず可愛いので頭を撫でてやったら、はにかみながら喜んだ。
その間にウェイターはさっさと厨房へ引き込んでしまい、結局灰皿はテーブルの片隅へ残ったままになった。
「うん、ぼくげんき」
「そーかそーか、真っ直ぐ育ってるみたいで俺は嬉しいぞ」
「可愛いでしょ。可愛いでしょ」
「姉さんが育ててる割にはな」
「なによ」
プクッと頬を膨らませる姉の年齢を考えて、俺は背筋が寒くなる。文子は俺より三歳年上だ。
「つーか、海外出張って本気かよ」
「本気本気。出世の道が開けたわー」
「隆文はどうすんだよ」
「だぁからぁ、あんたが居るじゃない。向こうに移り住むつもりはないから、隆文は日本に居させてやりたいよのねー」
親心ってやつぅ? と何処までも脳天気な姉の言葉に俺は頭を抱えたくなる。
隆文は大人しく会話を聴いているが、内容がちゃんと把握出来ているかはわからない。
時折出る自分の名前に首を傾げていた。
「やりたいのよねーじゃねぇよ。そこら辺ちゃんと隆文に話したのか」
「話してるわよ。隆文はイイコだから大丈夫」
「あのな、一年だぞ。幼少期の大事な時期に母親と一年も離れる子供の気持ちはどうなる」
「パパと一緒に居る感覚?」
「誰がパパだ!」
「……みーの、怒った?」
軽いノリの姉に思わず素で突っ込みを入れたら、大声に驚いたのか隆文が大きな目を見開いて伺うようにこちらを見た。
俺はニヤニヤ笑って様子を傍観する文子を睨みながら、隆文には会社で鍛えた友好的な笑みを浮かべて、まだ目を見開いている隆文の頭を撫でる。
「怒ってないよ」
「あのね、ママどうしてもいきたいんだって。ぼくのしょーらいのためなんだって。だからね、みーのにおねがいなの」
「隆文」
「ぼくイイコにしてるから、ママがいないときはおねがいなの」
「子供に言わせて恥ずかしくないのか姉さん」
「やぁねぇ、隆文がイイコだから出る発言でしょ」
あまりのいじましさに絶句してしまった俺は、どことなく意気消沈してる隆文を対面から抱き上げて膝に乗せる。
正面から見てたらすぐさま頷いてしまいそうだ。
だけどウチは、簡単に頷ける環境ではない。
「ウチに預けるのがどういう事かちゃんとわかってんのか」
マイノリティなカップルの住む家に子供を預けるのは、対外的にも隆文自身にもあまり良い事とは思えない。
「わかってるわよー」
←