黒耳の騎士と靴屋の新月
五章 ある、種族について
ソノラが医務室に運ばれて暫く、難しい顔をしたゼンダが医務室から出てきてヴィグンを手招きした。
「ちょっと話があるんだが」
呼ばれなくとも話を聞くつもりだったヴィグンが軽く頷いて一歩踏み出すと、アーリグから不満の声が上る。
「えぇー、俺は? 俺は蚊帳の外かよ」
「……よろしい、では隊長も入りたまえ」
静かに脚を踏み入れた医務室は、ソノラの香りが充満して白を基調とした普段は清潔なだけの室内をどこまでも淫靡にしていた。アーリグは最初から鼻を押えていて、ヴィグンは寄せられていることの多い眉間のしわをいつもより深めに刻んで耐えている。唯一平然としているゼンダが、ソノラが寝ているベッドからなるべく離れた場所に椅子を置いて二人に勧めたが、意味の無さにヴィグンは溜め息を吐いた。
「彼を一人にすると血迷った馬鹿が出かねんからな。悪いがこの場で失礼するぞ」
せめてもの匂い消しにと、香りの強い豆茶を入れたゼンダはそれを二人に渡して己も椅子に座る。ふわっと一瞬は豆茶の香りが広がったが、すぐソノラの匂いにかき消され、やはり徒労に終わった。
「彼と知り合いなのはヴィグン副師団長だったかな」
「そうです」
「彼は前からあんな?」
「いえ、普通の人間でした。前兆のようなことはありましたが、その時は彼の匂いだと気付かなかった」
「ふむ……」
「なぁ、ゼンダのジイさん。あの子人間なの?」
ヴィグンの話に何かを考えるように黙ってしまったゼンダに、焦れたアーリグが鼻を押えた間抜けな顔で詰め寄った。鼻を押えているせいか声がくぐもって聴き取り難い。ゼンダはしわの多い顔にさらに盛大なしわを作って「急くんじゃないよ隊長殿」と嫌そうに仰け反る。
「熱のほうは、ありゃ単なる風邪だな。本人の話じゃこの季節に水を浴びたらしいから、それが原因だろう。とりあえずはカツァの葉を煎じて飲ませたから、今は眠っとる。心配には及ばんよ」
「そうか……」
ゼンダの言葉に、幾分かヴィグンの表情が和らいだ。あの熱が風邪から来るものなら、そう心配せずとも直治まるだろう。問題は今も本能を揺さぶり続けている匂いの方だ。
「で、どうなんだよジイさん」
アーリグの再度の問いかけに、ゼンダはなにやら難しい顔をした。ヴィグンの背が少しだけ強張って、アーリグはそれを視界の端に捕らえながらやはりと場違いにニヤけそうな顔に力を込める。
「結論だけ言うと、彼は多分人間じゃない」
「多分?」
「そりゃまた随分あいまいなお答えだなジイさん」
「私とてすべてを知っているわけじゃないよ」
そう言うと、ゼンダは医術書の並ぶ本棚から一冊の古びた本を手に取った。表紙の紙は煤けて随分とボロボロだ。
「君達は、虹種【コウシュ】という存在を知っているかね?」
「というと、あの伝説の?」
「あ? なにそれ」
ゼンダの問いに二人は真逆の反応を返した。ゼンダとヴィグンから呆れるような視線を向けられたアーリグがわずかに仰け反って、しかめっ面で「なんだよ」と怒ったような声を出す。
「お前は、本ぐらい読め」
「字見てると眠くなんだよ、俺は」
「ヴィグン副師団長は知っているみたいだね」
「文字で読んだだけですが」
その昔、亜人種には海で暮らす者達もいたという。殆どが陸での生活を選択した中、彼らは唯一海に残った種族だった。
「確か、大分前に絶滅したと」
「そう。珍しい種族だからね、前時代に乱獲されていつしか消えてしまった種族なんだよ」
「人型は陸生だけじゃねぇの?」
「だから捕らわれたのだろう。私が所有する文献も三百年以上前の、もとは石版の文字と絵を写したものだ」
手にしていた本をゼンダがペラリと捲った。広げられた頁には下半身にびっしりと鱗の生えた人らしきものが描かれている。それは手に水かきがあり、魚とともに泳ぐ男女の絵だった。
「人魚かよ。でも脚は二本だな」
「虹種はいかにも人魚伝説の起源だが、空想ではなく実在していた存在だよ」
「それとソノラに、何の関係が?」
アーリグとともに頁を覗き込みながらヴィグンは怪訝そうに眉を寄せた。ゼンダは顎に生えている毛をゆったりと撫ぜ奥のベッドへ視線を向ける。
「彼は虹種かもしれない」
「はぁ? 手に水かきなんか無かったぞ。脚は知らねぇが」
「脚に鱗も無い。乾季に半ズボン姿を見た」
「話は最後まで聴きたまえ。目に見える特徴はないが……」
ゼンダは本の頁をまたパラパラとめくり、ある頁を見開くと太い指で「ほら、ここだ」と一節を指した。
「虹種の繁殖期について?」
「ここの記述と、彼の状態が一致している」
ゼンダから慎重に本を受け取ったヴィグンが紙面に目を走らせる。後ろから覗き込んできたアーリグは嫌そうに顔をしかめてから、椅子に座り直した。鼻を摘んだまま豆茶を飲んで、やはり顔をしかめる。
「なんて書いてあんだよ」
焦れたようにアーリグに肩を揺さぶられ、ヴィグンは「子供か!」と怒るため一瞬口を大きく開けてしまった。口内から室内に充満していた香りを一気に吸い込んでしまい、グラリと脳が揺れる。
「大丈夫かね、ヴィグン副師団長」
「な、なんとか……」
奥歯をかみ締めて荒い呼気を吐き出すヴィグンに、ゼンダが憐れみの目を向けた。ヴィグンは予定通りなら三日後に街を出発する事になっている。つまりほぼ繁殖期に入っていると言っていい。この匂いの中は相当キツイだろう。
「アーリグ隊長も、落ち着かないか。匂いに興奮しているのはわかるが、君は既婚者だろう」
「悪かったよ! で、何が書いてあるんだ」
喉元を押えながら呼吸を整えているヴィグンにはとても説明する余裕がなさそうで、ゼンダはヴィグンの膝にあった本を取って出来の悪い生徒に言い聞かせるように、噛み砕いて文字を読んだ。
「いいかねアーリグ隊長、成人した虹種の繁殖期は年に一度、新月の晩に来る。時期は生息地域によって違うようだが、ここら辺に昔住んでいた虹種の繁殖期は冬だったと記述があるから、彼はその生き残りではないかと私は思っているんだ」
「なんで? そもそもあの靴職人、姿が違うだろ」
「亜人の中には人間と交配出来る種もいる。近い種同士なら可能なのは君も知っているだろう。虹種は海の中で生活するが、おそらく人間に近い種族だったんじゃないだろうか? 彼がもし虹種と人間の混血だったなら、見た目が人間でもこの強烈な誘発物質に私は納得がいくんだがね」
「そうか、海……」
喉元を押えながら、ヴィグンが喘ぐように呟いた。ゼンダは微かに頷いて、疑問に満ちた顔をしているアーリグに視線を向ける。
「虹種はね、陸生の亜人と違い基本的に男が子育てをする。だからかはわからないが、繁殖期になると女性ではなく男性の方から誘発物質が出るみたいだ」
そしてまさしく今日は冬に入った月の新月の日だ。
「いままで何もなかったのは、彼が虹種として未熟だったんだと私は推測している。虹種の成人は二十五歳らしいから年齢的にも合うんじゃないかな? 強い匂いは、おそらく海水によって妨げられる匂いを確実に女性まで届くようにするためだと思うが……」
陸だとただの凶器だよねと、ゼンダは暢気に呟いた。昼休憩はそろそろ終わるというのに気配を探れば結構な人数が医務室周辺に留まっている。あまりの威力にゼンダが溜め息を吐いた。
もろに煽りをくらっているヴィグンを眺め、臆面無く鼻を押さえているアーリグが気の毒そうに見る。
「お前、運悪いな」
「うるさい……」
同情をしているように見せて確実に目の奥が笑っている友人をヴィグンは弱々しく睨み付けてから、ゼンダへ視線を戻す。
「それ、で、彼は本当に、虹種と人間の混血なのですか?」
「あくまで私の推測だから、確実なことは言えないね。本人は自覚がないようだし、他の虹種がいない今となっては調べる方法もない」
大きな肩をすくめてゼンダはわかりやすくお手上げと、歳をとっても衰えの見えない筋肉の乗った腕を上げた。
「ま、推測が正しければピークは今夜の新月だろうから、あの匂いが消えれば彼も普段の生活に戻れると思うよ」
それまではここで保護したほうが安全じゃないかなと言いかけて、ゼンダはふと顔を上げて窓の外に視線を向けた。つられてヴィグンとアーリグも窓へ視線を移す。窓の外にはチラチラと医務室を覗く数人の年若い団員がいた。
「まったく、この分じゃここも少し危ないな」
ゼンダは重い腰を上げると窓に歩いていきこれでもかと牙を剥く。
「昼休憩はとっくに終わっとるだろうが! 持ち場に戻らんかお前らッ」
大声の威嚇に窓ガラスが軋んで揺れた。外にいた団員達はクモの子を散らしたように尾を膨らませて逃げていく。
「あー、ここの奴ら基本的に若いからな」
鼻を押さえてくぐもっているアーリグの声が呆れたように響いた。中には師団を示す薄紫の腰帯をしている者もいて情けない思いがし、ヴィグンはどうしたものかと頭を抱えた。
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