黒耳の騎士と靴屋の新月
医務室まで行くとアーリグが不満もあらわにベッドメイクをしていて、それに苦笑しつつヴィグンはようやく頭が少し冷静になったのを感じた。ソノラの匂いは依然そこかしこに充満していて、チラホラと昼休憩に入った嗅覚の敏感な亜人種の団員がそわそわと落ち着き無く医務室の周辺に集まっている。ヴィグン自身も先程より落ち着いたとはいえ、腹の底にまだ燻っている熱があるのを否めなかった。
「ほれ、散らんかお前ら。患者が落ち着かんじゃないか!」
肩を怒らせたゼンダが窓の外や廊下にいた団員を怒鳴り散らし、ついでとばかりにヴィグンもアーリグも医務室から追い出される。なんとなくそのまま昼食に……という雰囲気でもなく、二人は医務室の外で壁にもたれ同時に溜め息を吐いた。
「なんだ、ありゃ……」
「私が知るか。しかし、強烈だな」
医務室の扉は閉められているのに、一度鼻につくと廊下に残る香りが気になって仕方ない。変に緊張して凝り固まった首をグリグリと回しながら、ヴィグンはもたれていた背を起こして廊下の窓を開ける。
「お前が贔屓にしてる靴職人は毎度あんな匂いさせてんのか? お前よく理性保ってんな」
感心したようなアーリグの言葉にヴィグンは眉を寄せつつ、こんなのは初めてだと呟いた。
「彼からは普段、革となめしと松脂の匂いがしているくらいだ。こんなことは……」
そこでふとヴィグンは、いや、初めてではないかと顎に指を当てた。マニダに行く為のブーツを頼んだ日にも、微かに感じた匂いだ。
「前に私が気になる匂いがあったと言ったのを覚えているか?」
「ああ、あれ」
むしろ本人より気になってアーリグが職権を乱用してまで調べたのに手掛かりすら掴めなかった件のことだ。そういえば、靴屋に行った時に嗅いだと言っていたなとアーリグは思い出す。
「まさか同じ匂いなのか?」
「ここまではっきりとはしてなかったがな」
じゃあいくら亜人種を洗い出したところで見つからない筈だとアーリグはがっくり頭を垂れてから、ふと違和感に気付いて顔を上げた。視線を向けたヴィグンの方も気難しい顔で窓の外を見ている。
「おい、ヴィグン」
「なんだ」
「あの靴職人は人間だよな?」
「……そのはずだ。彼からは亜人種の、どの特徴も見受けられない」
「じゃあ変だろ。こんな強烈なフェロモン、人間は出さない」
「亜人の中にもここまでは居ないだろうな」
直接神経を揺さぶって無理やり本能を叩き起こすようなあの芳香は嗅覚の鋭い種族には一種の凶器だ。普通、亜人の女性が発する誘発物質も繁殖期に入って活発化されようやく強みを増す程度で、こんな多種の本能を揺さぶるような香りではない。
「だよなぁ、見た目もまるっきり人間だし」
言いながら、アーリグはがりがりと頭を掻いた。外に向けられていたヴィグンの視線が戻ってきて、目が合った瞬間二人でまた溜め息を吐く。考えていたことは一緒らしいと、こんな時ばかりは互いの理解力を呪いたくなった。
「あれ、は……まずいだろ」
「まずいだろうな。というか、いつからか知らんがよく今まで無事だったものだ」
「一過性か、これからずっとああなのかは知らねぇけどよ、あの状態を街に放り出すのは自警団としてまずいぞ。混乱を招きかねん」
「無論だ。詳しいことが分かるまではとりあえずここで保護するが」
「……本当、何者だよあの靴職人は」
アーリグの視線が医務室の扉に移って、それを追ってヴィグンも医務室へ目を向けた。あの中ではゼンダ医師がとりあえずの処置をしているはずだ。
ヴィグンから見たソノラはごく普通の、靴を作る腕の良い好感を持てる人間の青年だった。いつ店を訪れても明るく笑っていて、楽しそうに仕事をしている、ごく普通の青年。
(それが、あんな……)
赤く染まった頬に、誘うように潤んだ瞳。薄く開かれた唇は少し湿っていて、零れた呼気は熱を孕んでいた。漂う甘い香りはヴィグンをどこまでも許容するように刺激してくる。
頬に触ったソノラの吐息の感触を思い出してしまい、ヴィグンは思わず口元を大きな掌で覆った。己の頬に熱が集まっていくのがわかる。こんな感覚に陥ったのは初めてのことだった。
「お、おいヴィグン? お前顔が……」
「……言うな」
アーリグの縦に裂けた瞳孔が驚きで丸くなった。どんな美女にせまられ誘惑されても始終面倒そうな表情しかしなかった男が、何を思い出したのか顔を真っ赤に染めて困り果てている。
(これは、まさか……!)
にわかにアーリグの心拍数が上がった。口端が半月型に上がり、真っ赤な顔の友人を見る。
「とうとうッ!?」
「なにがだ」
「いやいやいや、お前だって、そんな顔はじめて見るぞ俺は! もしかして、もしかするのか!?」
「うるさい、はしゃぐな!」
一人テンション高く騒ぎ出したアーリグに赤い顔のままチロリと視線を向けて怒鳴り返したヴィグンの声が響いたのか、医務室からゼンダが「静かにしないか!」と怒鳴り、二人は同時に首を竦める。基本的に怪我の耐えない自警団員は、長年医療班として勤めているゼンダに弱かった。それに例外はない。
「で、で? どうなんだよ実際」
まったく懲りてないアーリグが声のトーンを若干落として改めて聞いてくる。ところが、ヴィグンはあからさまに落ち込んだ顔をしていて、ただアーリグの失笑を買った。
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