黒耳の騎士と靴屋の新月
四章 誘惑は盛大に
ヴィグンはなんだか朝からそわそわと落ち着きがなかった、と挨拶を交わしたヴィグンの部下がこぼしたので、アーリグは仕事の合間に様子を見に行くかと昼の鐘が鳴る前に演習を終えて、三階の副師団長執務室を目指していた。どうせ昼休憩に入るしついでに食堂に誘うかと軽快に階段を上っていると、執務室の前に一人団員が立っていたので声をかける。
「お疲れー。ヴィグンに用か?」
「あ、アーリグ隊長」
橙色の腰帯を巻いたその団員は、心臓の辺りに拳を乗せる自警団式の挨拶をしたあと気負った風もなくアーリグに答えた。
「お疲れ様です。副師団長にお客様がいらしていて」
「そりゃ珍しいな、女か?」
挨拶を返して牙を見せながら揶揄したアーリグに、その団員は苦笑を漏らして「違いますよ」と返す。
「あの堅物に限ってそりゃ無かったか」
「副師団長相手にそんな冗談言えるのはアーリグ隊長ぐらいですよ。そうじゃなくて、靴屋の方がいらしていて」
「ああ、頼んだって言ってたな。わざわざ配達させるとは、色男はよくやるねぇ」
「あまり副師団長をからかったら駄目ですよ隊長」
「お前等、用があるなら入って来い」
ノックもせずにドアの前で会話をしていた二人に気付いたヴィグンが、呆れた顔で執務室から顔を覗かせた。団員の方は慌てて姿勢を正したが、アーリグはくだけた表情のまま挨拶をする。
「よぁ、色男。なんかそわそわしてるみたいじゃないか。女でもくるのかとお前の部下が気にしてたぜ」
先程団員にもそれとなくたしなめられた言葉を臆面もなく本人に言い放ったアーリグに団員の方が顔色を悪くする。言われたヴィグンは嫌そうに眉を寄せたが、ニヤニヤするばかりのアーリグから団員に目を移して「どうかしたか?」と問いかけた。ヴィグンに目を向けられた団員は緊張した面持ちで、先程アーリグに話していた声より幾分硬い声で用件を告げる。
「はっ、副師団長にお客様がお見えです。靴屋の方だそうですが、門の所でお待ち頂いています」
「ああ、私の客で間違いない。お通しして、応接室へ。私も直ぐに向かう」
「了解しました。応接室にお通しします」
団員は敬礼して直ぐに階段を下りていった。一つ溜息を吐いたヴィグンは、壁にもたれてやり取りを眺めていたアーリグにうろんな目を向けて何の用だと仕草で問い掛けた。
「いや、だから、お前の部下にさ、なんかそわそわしてるって聞いたから飯がてら様子見に来たんだよ」
「そうか。別段何ら変わりはないぞ」
「みたいだな。せいぜい新しい靴が出来上がったんで浮かれてたんだろう? その靴職人、随分贔屓してるようだし」
ヴィグンが朝から少しそわそわしていた理由をその靴屋の客人の件であっさり解決してしまったアーリグは、詰まらんと肩をすくめて言い放つ。図星を指されたヴィグンは少し恥かしそうな気まずそうな表情をのせて、客人の件はすぐに済むからそのまま食堂に行こうとアーリグと並んで歩き出した。
ヴィグンの執務室がある三階から応接室のある一階まで降りて行くと、先程ヴィグンを呼びに来た団員が困り顔で応接室の扉の前に控えていた。ゆっくりではないが早くもなかったヴィグンの歩みが、その表情を見て駆け足になる。いきなり駆け出したヴィグンに驚いたアーリグが慌ててヴィグンを追いかけるが、追いつくことも出来ずにその背があっと言う間に応接室の前へと移動した。
「何かあったのか」
ヴィグンの重い金属のような硬い声が若干緊張を孕んで兵舎の廊下に響いた。団員は「いえ……」と口篭もってから、戸惑ったようにヴィグンを見上げる。その団員の顔は何故か真っ赤に染まってヴィグンは理由がわからず眉を寄せた。
「どうも、なにか様子がおかしいみたいで」
「彼の?」
「はい。医療班のゼンダ先生に声をかけようか迷っていまして」
「体調が悪そうなのか?」
団員の言葉を聞いて瞳孔が開いたヴィグンは常にない様子で応接室の扉に手をかけた。そこにヴィグンを追いかけてきたアーリグが呆れたように声をかけてきたので、開けずに手を止め視線をアーリグに移す。
「急に走ってどうしたんだよ、何かあったのか?」
「ああ、どうやら彼の体調がよくないらしくて」
「じゃあ医療班を……あ、今日ゼンダのジジイか」
団員同様、アーリグも少し困ったように眉を寄せた。亜人種の多いレスターニャ自警団に所属している医師は亜人種を専門にしている医師が多く、今日第二支部兵舎に出勤しているゼンダ医師もその一人だった。人間と亜人種では身体の作りが違うので、亜人種専門の医師が人間を見てもせいぜい怪我の治療が出来る程度である。
「ま、いないよりマシだろ。とりあえず呼んで来い」
「わかりました!」
アーリグの声に団員が駆け出したのを見送り、ヴィグンかグッと眉間にしわを寄せたまま、扉にかけて中途半端に止めていた手に力を込めた。
(やはり私が取りに行けばよかった。そうすれば彼が無理をする事は……ッ!?)
少しばかりの後悔に見舞われながら扉を開けた瞬間、ヴィグンと後ろにいたアーリグが絶句した。頭を直接揺さぶられるような強く甘い匂いが、扉を開けた瞬間廊下の端まで一気に広がっていく。ともすれば膝から床に倒れてしまいそうで、ヴィグンは奥歯を強くかみ締めた。グラリと傾ぐ視界とともに意識が持っていかれそうになる。繁殖期にもっとも強くなる本能が、時期を前にして目覚めそうな気配に眉間に力を込めた。後ろにいるアーリグも同様のようで、こちらは壁にもたれ必死で呼吸を整えている。
「な、なんだこの匂い……!」
「知るか!」
戸惑って声を上げるアーリグに怒鳴り返しながら、ヴィグンはしかしこの香りに覚えがあった。あの時はこれ程強烈では無かったが、本能を揺さぶる匂いという意味では同じ、蠱惑的な甘い香り。
その香りの中心にいる人物は、箱を抱えて床に崩れていた。
「ソノラッ!」
駆け寄ったヴィグンが抱き起こすと、ソノラの身体が動いた事によってより香りが広がって窒息してしまいそうだった。強烈に揺さぶられる本能を押しやり、硬く目を閉じてカタカタ震えているソノラの頬を軽く叩く。触れた頬は驚く程熱を持っていて、心配に本能が一時押し退けられた。
「おい、大丈夫か? どうした?」
「……ぁ」
抱き起こされたソノラの瞼が薄く開く。細く覗いた瞳は熱に潤んで、ヴィグンの喉が自覚の無いままグゥッと鳴る。
「靴を、届けに」
吐き出されたソノラの声は震えて、甘く擦れていた。耳を愛撫されたような感覚を覚え、ヴィグンの肩が小さく跳ねる。力無く差し出された箱を床に置いたヴィグンは、油断すると腰に集まりそうな痺れを誤魔化すように厳しい声を出した。
「馬鹿、連絡してくれれば取りに行ったものを! 体調が悪いなら気を使わなくて良かったんだ」
医師の到着を待つよりは医務室へ運んだ方が早いと判断したヴィグンが力強くソノラを抱き上げると、ソノラの身体が大きく震える。
「ぅアッ……!」
あまりに甘い声音だった。抱き上げたことによって近くなったソノラの唇から漏れる熱い吐息がヴィグンの頬を掠めて、脊髄を直撃して本能のままに暴走してしまいそうだ。ソノラから発せられているだろう香りも強さを増す一方で、ヴィグンは己の理性が徐々に崩されていくのを感じ無闇に混乱しそうになる。
実際、ヴィグンはこの状況に混乱をしていた。
ソノラを抱き上げたまま固まってしまったヴィグンを見て、ソノラの香りにあてられていたアーリグが幾らか冷静さを取り戻したのか、壁に体重を預けたまま声をかける。
「おい、大丈夫かヴィグン」
硬直していたヴィグンはアーリグの声を聞いて、らしくなく驚きを隠さない焦った表情を向けた。その顔にアーリグこそ驚愕し、二人して木偶のごとく固まる。奇妙な沈黙を破ったのはアーリグに言われ医務室へ向かい、戻ってきた団員の青年だった。
「ゼンダ医師を連れて……うわっ」
勢いよく応接室に飛び込んできた団員は短く悲鳴を上げて元々赤くなっていた顔をさらに赤く染めた。狗種の彼は彼で、ソノラの発する香りにあてられてしまっているらしい。
「さっきより強烈な匂いになって……る」
呆然と呟きながら鼻を抑えたその団員は、室内で何故か硬直している副師団長と隊長に首を傾げた。
「どうしたのですか、副師団長?」
「な、なんでも、ない。それよりゼンダ医師は」
油の差してないゼンマイ人形のような動きで振り返ったヴィグンは、ぐったりと己の胸にもたれるソノラをなるべく見ないよう団員に視線を固定している。アーリグはアーリグでそんなヴィグンを凝視していた。
「なんだねこの匂いは? 繁殖期の女性でもいるのかな?」
唯一暢気とも取れる声を発したのは団員の後ろからノッソリと顔を出した、一足速く昼食を取りお茶を飲んでいるところを呼びつけられた亜人種専門医のゼンダで、彼は頭を掻きながら熊種【ユウシュ】の大柄な身体を屈めて室内に入った。頭の上にちょこんと乗っている耳がピクピクと動いている。
「何を馬鹿のように棒立ちしているのかね副師団長。早くその子を見せたまえ」
もう大分年齢を重ねているゼンダはソノラの香りに胸焼けをおこしたように腹の辺りを己で撫でながら、動かないヴィグンにゆっくりと近付いて行く。
「何があった?」
「くわしい、ことは……私にもわかりません。熱があるみたいで」
「ふむ……」
ヴィグンに抱えられたまま苦しそうに荒く呼気を吐き出すソノラの額に手を当て、ゼンダは壁に張り付いたまま未だヴィグンを凝視していたアーリグに「医務室でベッドを開けてくるように」と告げた。
「ここに居ると隊長もキツイだろう。邪魔だから準備してきて」
「邪魔って、俺にそんなん言うのジイさんくらいだよチクショウ!」
確かにゼンダの言葉通りそれ以外この場で役に立ちそうにないアーリグは、文句を言いながら助かったとばかりに素早く踵を返して応接室を出て行った。ゼンダは己を呼びに来た年若い団員にも「持ち場に戻っていい」と告げ、ヴィグンの腕からソノラの身体を取り上げる。
「ひっ……」
「ああ、動くとキツイかね。ちょっと辛抱しておくれ。ベッドまですぐだから」
小さく頷くソノラに微笑み返して、ゼンダはソノラを抱いていた腕をまだ下げもせず佇むヴィグンに呆れたような表情を向ける。
「副師団長殿、年若いあんたがこの匂いの中では色々と大変なのもわかるがしっかりしてくれ」
「……すみません。ゼンダ医師は平気なのですか、この香り」
「私はもう年だしね。血の気の多い時期は通り過ぎてるよ。冬眠の季節でもあるしねぇ」
くぁっと大きな欠伸をしたゼンダは、なるべくソノラを揺らさないようのそのそと歩き出した。床に置いていた、靴の入った箱を持ち上げたヴィグンは、微妙に強張っているその背を見ながら複雑な表情でゼンダの後を追った。
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