火炎の異端士
夜を裂くような咆哮をソレは上げた。
ネオンの光が届かないビルの合間、路地の奥。
暗い……と言うよりは黒いその場所で、ソレは小さく動いた。
辺りは異様なまでに静まりかえっている。
すぐ側は交通量の多い通りだと云うのに、エンジン音どころか人の通る音さえ聞こえない。
背の高い男がネクタイを緩めつつ路地の入り口に立った。
逆光でシルエットが黒く浮かび上がる。男は首筋の汗を乱暴に拭った。
夏は間近で、湿気を多量に含む空気が重い。
男は異様に鋭い眼孔を路地の奥に向け、ソレを睨みつけた。
「視界の隅でチョロチョロしやがって、ウゼェんだよッ」
男は叫んだ。同時に火炎が男の掌から現れ飛んでいく。
轟音が響く。周りのビルが微かに揺れた様な気がした。
球体状の火炎がソレに直撃し、膨れ上がり火柱となる。
確かな手応えを感じて男は満足気に嗤った。
路地の突き当たり、黒いもやの様なソレは先程上げたものより禍々しい咆哮を上げ、苦しむ様にその触手を空に伸ばし、やがて沈黙し空気に無散した。
「終ったか」
錆びた鉄の様な声が虚空から聞こえた。
男はその声に頷き、襟首からネクタイを抜き取って丸める。
「あー疲れた。お前もご苦労さん。結界、解いて良いぞ」
丸めたネクタイをポケットに押し込んだ男は、虚空に声を投げる。
同時に小さく硝子が破れる様な音がした。
「ったく、小者の癖に歯向かうなっつーの」
続いて唐突に男の周りで音が復活する。
車の行き交う音、通りを行く人の声。街頭スクリーンの音声。
先程の轟音など聴こえなかったかの様に、夜の街は通常の風景を保っている。
実際、音と火炎の光は人々に聴こえなかったし見えなかった。
欠伸を噛み殺した男は凝った四肢を伸ばし、投げ遣りに呟く。
「もう今日は断固として労働拒否だ。夕飯はお前が作れよ」
誰に投げたのか解らないその言葉に、確かに解答があった。
「何時も私が作っているではないか」
しかし、不満気なその声など聴こえなかった様に男は路地に背を向け、家路を急いだ。
不思議に、路地の奥に破損の跡は無く、何事も無かったかの様に野良猫が通り過ぎた。
藤宮香織と云う男には物心つく頃から不思議なモノが視えていた。
空中を浮遊する様に蠢くソレは藤宮にとって日常の風景だったが、どうやらソレが自分にしか視えないモノだと気付いた時、藤宮は一切他人にその物体が視える事を告げなくなった。
ソレは様々な形状をしていて容易には語れない程多種多様であったが、藤宮に対して例外無く攻撃的であった為、幼くして藤宮は己を守る術を要したのである。
藤宮が師事したのは近所でも評判な神社の神主である三上と云う初老の男だった。
藤宮同様、彼の眼も不思議なモノを映せた為、藤宮にとって三上は師であると同時に藤宮の幼少時代唯一の理解者であったと云える。
だが五年も経たず藤宮の力は三上を上回り、藤宮の成長と比例するように狂暴さを増すソレ等により強い力を求めた藤宮は、三上との修行を軸に独学で多種の術を身に付けるまでに到ったのである。
これが藤宮香織を語る最も重要で解りやすいの略歴であるが、彼は別にそれ──いわゆる霊能者や陰陽師と呼ばれる類──を生業としている訳ではない。
「昼間のビールって格別だと思わねぇ?」
晴れた日曜日、藤宮はリビングのソファでビール片手に怠惰に寝そべりながら、ベランダで洗濯物を丁寧に干す、くすんだ赤い長髪の男に声をかけた。
開けた窓からは風が吹き込んでくるが、湿気を含む生暖かいそれが不快だったらしく、藤宮はエアコンのリモコンを手に取ると冷房のスイッチを入れる。
藤宮に声を掛けられた赤毛の男はYシャツの皺を伸ばしつつ、音の低く鈍い金属の様な声で答える。
「酔わぬ故解らん。と云うか、これは式の仕事では無いような……?」
洗濯物を干し終えた男は洗濯籠を片手に、己の主を振り返った。
藤宮は相変わらずソファに寝そべり、首を回して男と視線を合わせる。
「詰まらん事は気にするな火矢。かの安部晴明だって式を使い家の事をやらせたそうだぞ」
「家事をやらせたいなら式を増やせ。その方が効率がよい」
「面倒臭ぇよ。仕込むのに割りと時間食うしな。いいじゃんか、お前がいるんだから」
火矢と呼ばれた男は、引き締まった体躯を僅かに屈めて、ベランダから室内に入る。長身故にそうしないと縁に頭をぶつけるのだ。
割りかし背が高い藤宮と比べても幾等か高く、より筋肉質である。
特徴的な長い赤毛は後ろで1つにまとめてあった。
それは犬の尻尾の様に火夜の動作に合わせて動き、藤宮は口の端を僅かに吊り上げる。
「そういう問題ではないだろう」
赤い色の太い眉を可能な限り寄せ、火矢は藤宮の前を大股で横切り洗濯籠を風呂場に隣接している洗濯機の上に置きに行く。
「お前独りで充分機能してるだろう我が家は。昔みたいに家が馬鹿デカイならともかく、そんなに必要ねぇよ」
「……そうか」
火夜は怠惰に寝そべる主を複雑な面持ちで一瞥し、諦めた様に今度は台所へ向かう。
昼飯を作る為だ。
炎鬼である自分が何故に包丁を持ってネギを切らねばならないのか。
式の主は未だにビール片手にテレビのリモコンをいじっていた。
(面倒だからチャーハンにするか)
藤宮が独り暮らしを始めてすっかり増えた料理のレパートリーから、手間の掛らないものを選択する。
幸い藤宮は余程味が酷くなければメニューに文句をつける事もない。
手際の良くなった己を嘲笑いながら、火夜は黙々と手を動かした。
都内の、少し前まで最悪と言われた程土壌汚染が進んでいたが、最近綺麗になりつつある川沿いの賃貸マンションの13階に藤宮は住んでいる。
土地開発が進む市は工事中のビルやマンションも多く、藤宮が住むマンションもつい3年程前に出来たばかりだった。
半より上のその階は夜景の綺麗な2LDKだ。日曜の昼には河原に作ったグラウンドで草野球チームが練習する声が聞こえる、割りと閑とも言える場所である。
藤宮はそのマンションから歩いて最寄り駅まで行き、電車を利用して会社まで通うごく普通のサラリーマンを生業としている。
藤宮の式である火夜は藤宮の能力を生かした仕事につけば面倒も少ない等とぼやくが、幼い頃から藤宮にその気は無かった。
世にはあまり理解されぬ力を藤宮は恥じたりしてはいないし確りと向き合ってはいるのだが、無ければ無い方が楽ではあるのだ。
何より、他人の為に態々己を餌にするのは愚かな所業だと藤宮は思っている。
幼い頃から培われた闇なる存在への恐怖と拒絶感は、藤宮の根底に確かにその黒い手を伸ばしているのだ。
故に藤宮はサラリーマンになった。その他大勢に混じる事で、少しでも己を闇から遠ざけようとしたのだ。
「あぁ、月曜って本当嫌い……」
洗面台にぐったりと手をついて、藤宮は呟く。藤宮にフェイスタオルを差し出した火夜は、そんな藤宮にお馴染となった言葉を出した。
「なら、止めて陰陽を専業にしたらどうだ? そうすれば曜日など関係なくなる」
「だから、大概お前もしつこいな。嫌だって言ってんだろ」
髭をあたり顔を洗い終わった藤宮がフェイスタオルを受け取り水分を拭う。
時刻は午前の七時過ぎを指していた。
仕事の週始めである月曜は、藤宮が最も嫌いな曜日だ。
「火夜、飯」
「私は香織の女房ではないのだが……」
呟いた火夜に藤宮がそんなゴツイ女房がいてたまるか、と返して寝間着代わりに着ていたスウェットを脱ぎ捨てた。
「怠慢せずに、洗濯機に入れるぐらいしろ」
「はいはい」
それを見た火夜が包丁片手に言って、藤宮は気の無い返事をしながらスウェットを洗濯機に放り込みスーツに着替える。
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