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 ──1993年7月18日

 カラコルム山脈のK2地点登頂を目指していた日本の登山チームの先行隊が、AM10:30ベースキャンプへの定時連絡を最後に消息を絶った。

 先行隊の中には世界的に有名な日本のアルピニスト、梶井衛(42)も含まれており現在大使館による安否の確認が急がれている。




 ──1996年5月17日

 カラコルム山脈、海抜約6000m付近第4ベースキャンプ、早朝。

 その日、菅谷秋雄の体調は良好だった。凍てつくを通り越し肌を直接刺すような寒さも彼を妨げる事は無かった。

 連なる高き山脈から零れる朝日を彼は驚愕と感嘆を持って眺めている。


「梶井さんも、この景色を見たんだろうか」


 秋雄の呟いた言葉は万年雪に吸い込まれ、漏れた息は白く薄い大気に霧散していった。

 秋雄に寄り添うように座っていた二匹の犬は、主人の呟きに同時に顔を上げる。


「見付けてやろう」


 気付いた秋雄が犬の頭を撫でた。二匹は甘えるように小さく鼻息を漏らす。

 固い決意をもって、秋雄は人を寄せ付けない山脈を睨み付ける。しかし彼の目には、雄大なる自然への好奇心が同時に宿っていた。

 幼い頃、秋雄は田舎の祖父母の家に行くのが大好きだった。祖父母の家は裏に大きな持ち山があり、そこは秋雄にとって絶好の遊び場だった。

 自分が知らないもの、知らない事、それらの未知なるものは秋雄の心をひどく高ぶらせた。

 裏山では飽きたらず日本中を歩きまわり雄大な自然に心高ぶらせ、その都度好奇心を惹かれていった。

 それが高じて今では世界各地の秘境を渡り歩いている。世間は秋雄を揶揄混じりに冒険者と呼んだ。

 梶井衛とは秋雄がまだ大学生だった頃に出会った師とも言うべき人で、秋雄が本格的に世界各地を歩くようになったのはその衛がキッカケだった。

 三年前、このカラコルム山脈で衛が連絡を絶った時、秋雄はコーカサス地方に滞在していた。日本に帰って来たのは一年後で、衛の訃報をしったのはそれからさらに三日後だった。

 衛が遭難して一年、カラコルム山脈での生存は絶望的と言える。

 秋雄はせめて遺体、ないしは遺品を捜そうと二年の歳月を準備に費やしこうして遙々カラコルム山脈までやって来たのだ。

 カラコルム山脈では珍しい快晴、視界良好。相棒である二匹のアラスカン・マラミュートと数人のシェルパと呼ばれる山の案内人を連れ秋雄がベースキャンプを発ったのは、午前十時二十分だった。

 何処まで続くのか検討もつかない白い傾斜を、衛が通ったであろうルートをなぞりながら秋雄は進んでいく。

 雪に足を取られないようにゆっくりと一歩を踏み暫くそうして進んだ時、後列を歩いていた相棒のジロが一声吠えた。


「何か見付けたのか」


 秋雄が躾た二匹の犬はけして無駄吠えをしない。秋雄は先頭を歩いていたタロとシェルパに合図を送ると、巨大なクレバスに向かって吠え続けるジロを制して二匹に待てを指示し、ピッケルを突き立てそれを支えにしながらクレバスを覗いた。

 大地に取り残された氷河の裂け目は深く暗闇が遮って底は見えない。しかし手を伸ばせば届きそうな場所に、見覚えのある一眼レフのカメラが引っかかっていた。


「あれは……!」


 ドクリと、秋雄の興奮を表すように心臓が全身に血をせき立てる。しかしそれは同時に、微かにあった希望の喪失でもあった。

 見慣れたその一眼レフには金色の、扉を模したキーホルダーが付いてる。


『秋雄君、冒険は好きかい?』


 雪焼けして目の周りだけが白い赤ら顔をほころばせる衛の豪快で優しい笑顔が秋雄の脳内を過ぎる。

 扉は衛の信念の現れだった。衛はそのキーホルダーを持ち物の幾つかに付けて、事ある毎に緩く指先で撫でるのが癖だった。


「梶井さん……」


 惜み絞るように、秋雄はその名を呟く。偉大な人だった。彼にはまだ教えてもらいたい事が山のようにあった。

 衛は、おそらくこの氷河の亀裂へと飲み込まれていったのだろう。もしクレバスの底が見えたなら、彼は今もそこに横たわっている筈だ。

 秋雄は悲しみとも悔しみとも取れない気持ちを抑え込んだ。より深く刺したピッケルをロープで固定し、そのロープを更に胴体に巻いて端を握り、衛の一眼レフへと手を伸ばす。

 少し離れた場所を捜索していたシェルパが秋雄を見て、ネパール語で何かを叫んでいたが秋雄は少しも注意しなかった。衛のカメラがすぐそこにあるのだ。

 限界まで伸ばした手はカメラのボディをかすめる程度でなかなか手中には収まらない。


「後、少し……!」


 せめてあのカメラだけでもと秋雄はついに身を乗り出し、さらに手を伸ばした。


(掴んだ……!)


 秋雄の手はしっかりとカメラのレンズ部分を掴んだ。かなり乗り出した上体を上げるべく腹筋に力を込めた時、ズルリとピッケルの滑る嫌な感触を胴体が感じる。


「しまっ……!」


 背筋を冷たい汗が一気に流れた。秋雄は咄嗟に上体を捻り衛の一眼レフを上に投げる。


(これだけでも残さないと!)


 衛の最後に見た光景が撮されているだろうそのカメラをなんとしても。

 しかし一眼レフは高く上がり再び秋雄の方へと落ちてくる。思わず秋雄は罵り叫んだが、それを掴みもう一度投げる時間は無かった。

 時間にしてみれば一瞬だろう。しかしそれはスローモーションの如く秋雄にはゆっくりとした瞬間だった。

 秋雄を支えていた万年雪が秋雄の体重で崩れる。景色が反転し、暗闇の底を覗いていた視界は青空に変わった。ピッケルの抜けるモゾリという音。

 周囲にいたシェルパは雪に足を取られ秋雄を止める間もなかった。内一人が「危ないぞ」と叫んだ言葉を、秋雄は無視してクレバスへ身を乗り出したのだ。

 低い悲鳴と怒号が静かな山を騒然とさせた。秋雄の身体はクレバスへと放り出され、静かに落ちていく。

 その瞬間、秋雄はあらゆる可能性を模索し同時に覚悟した。


(此処で終わりなのか!)


 世界にはまだ秋雄の知らない未知なるものがあるのに。


(梶井さん……!)


 祈るような気持ちで、再び秋雄の手へと落ちてきた一眼レフを抱く。

 閉じようとした視界の端で、秋雄は待てを指示した二匹の犬が止めていたシェルパを振り切り秋雄を追って飛び込むのを見た。


「バカ野郎! 来るんじゃないッ!」


 秋雄は叫んだが二匹は既に飛び込んでしまっていた。秋雄を追うように激しく鳴きながら前脚を秋雄へと伸ばす。

 秋雄はカメラを抱いていない方の手を、追ってきた二匹へ必死に伸ばした。捕まえて素早く二匹をカメラと共に腕へ抱く。

 タロとジロが秋雄の指示を破る事はけして無かったのに、指示を無視して追ってきた事実に秋雄の胸は締め付けられる。

 抱き込んだ二匹は秋雄の頬に頭を擦り付けて小さく鳴く。


(梶井さんっ)


 今まで何度も危ない目にあった。けれどもこんな諦めた気持ちになったのは初めてで、秋雄は再び衛の名を心の中で叫ぶ。


『秋雄君、冒険は好きかい?』


 雪焼けして、パンダの模様を逆にしたような顔になった衛が、あの豪快で優しい笑顔を浮かべ秋雄に聞いた。秋雄は子供のように笑って「何よりも好きだ」と答える。


『君が見ようと願えば、その冒険への扉はいつでも君の前にあるんだ』


 笑顔の衛が、秋雄へマメだらけの固い手を差し出した。秋雄がその手を取ったのは、もう随分と前だ。


『見たいなら願おう。そうすれば、扉は常に私達の前へと現れる。あとは最初の一歩を、踏み出すだけだよ』


 扉は常に我々の前にある。

 霞んでしまいそうな意識の中で、浮かんだのは梶井が己の信念として唱えるその言葉だった。

 やがて訪れる衝撃を予想し、秋雄はギュッと身体を小さくする。


(梶井さん俺、ドジ踏んじまった)


 心の中の衛に呟くと、衛は「バーカ」と軽く言葉を投げてきた。それが何だか衛らしくて秋雄は少し笑う。

 クレバスの底が見えた瞬間、秋雄はただ祈るように目を閉じ、そして冷たい氷河の底へ叩きつけられた。




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