弥吉怪談-まってるね-
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紀佑のアパート部屋の中心にある万年こたつにすっぽりと収まり所謂こたつむりとなった弥吉は、塩辛い空気の漂う畳をものともせずにぺとりと頬をつけて横目で夕方のニュース番組を眺めていた。
西日が差し込む部屋は眩しいと薄暗いが混雑し、目を開けているのが辛くなる。
部屋に入って食材を冷蔵庫に突っ込みさぁ塩を流そうと浴室に向かった紀佑の首根っこを鷲掴み、台所の流しに押し付けたので弥吉は少々疲れていた。紀佑は風呂に入れられそうになっている猫のようにじたばたと暴れたのである。説明もなく無言で頭からミネラルウォーターをかけられたら誰しも暴れたくなるだろうが。
端から見ればもはやただの虐めである。案の定紀佑は涙目であったが、弥吉が一度帰ろうとした後はすっかりと大人しくなった。
当の紀佑は現在、濡れた上着を脱ぎ髪を乾かして部屋に散らばる塩を掃除した後、虐めの現場である台所にて包丁を小刻みに動かしていた。まな板の前に置かれたそこそこ大きな土鍋には野菜と肉と豆腐が華のように配置されている。題名の不明な鼻歌がニュース番組の合間を縫うように弥吉の耳に届き、その度に弥吉はなんとも言い難い気持ちを味わう羽目になった。
どんなにマメで、料理もそこそこに出来て、エプロンを着けて鼻歌を歌いながら台所に立とうとも、あれは大学生の、しかも体格は平均より育った男なのである。
途切れ途切れに聴こえてくる間抜けな鼻歌は、低い。それだけで帰りたい気持ちが増してくるのである。間違っても台所に立っている姿は目撃したくない。
ニュース番組がCMに入ると同時に、弥吉がこもっている殻がゴトリと振動した。首だけ動かして天版を見るとカセットコンロと具材の入った土鍋が置かれている。
弥吉は視界の端に映る緑のエプロンを見なかった事にした。
「何鍋?」
「シンプルいずベストで水炊き」
「塩出汁……」
「やめて、塩はついさっきトラウマになったの」
胸を押さえた紀佑が訴えるように弥吉を見たが、弥吉はCMの開けたニュース番組に視線を移してしまっていた。
「無視は傷付くんだよ弥吉君……」
「お前にいちいち反応してたら俺の神経がすり減るだろ」
「どんだけ繊細なの。蹴られたり目潰しされたり塩投げられたり水ぶっかけられたりした俺のが神経すり減ってるとは思いませんか」
「わかってないなキスケ」
ニュース番組が目を離さないまま弥吉が慈悲を込めたような声をだした。
「俺の行動には、全部意味があるのに」
「まじで」
「お前がもがき苦しむ様は見ていて愉快だよ」
「今から俺泣くね」
止めないでよね! と叫んだ紀佑は準備が終わったのかエプロンを着けたままいそいそとこたつに入り、こたつむり弥吉の横っ腹にかかとを当てて本体を奥へ寄せた。奥へ追いやられた本体が面倒そうにようやく身を起こして座る。
こたつの天版の中心ではカセットコンロにかけられた土鍋が火に照らされ、周囲には後から投入されるだろう野菜や肉、皿が置かれて陰影を作っていた。
紀佑はようやく部屋が薄暗い事に気付いたのかこたつから立ち上がり部屋の電灯を付けてカーテンを閉める。
「電気くらい付けてよ」
ぶつくさと漏らした紀佑は再びこたつに入ってテレビのチャンネルをいじり、ニュースからアニメにかえてビールを一本弥吉に手渡した。
「めんどくさい」
こたつから片手を出した弥吉は受け取ったビールのプルタブを片手で開けて、口の前にビールの缶を置くと出した手をまたこたつに収めそのまま口だけでビールを一口すする。
呆れた顔の紀佑は諦めたように「零さないでよ」と一言注意し止めるでもなく己もプルタブを引っ掻いた。
「弥吉君てこたつ入ると本当に動かないよね」
「こたつと結婚したいからな」
「買えばいいじゃん」
「自分の部屋にあると破滅するだろ」
首から下の全身を収めていた先程の光景が容易に紀佑は想像出来た。紀佑がどうしてか神妙な顔で成る程と頷くのをどうでも良さげに見た弥吉がチャンネルをいじりニュース番組にかえる。
「でさ、弥吉君」
「なんだいキスケ君」
ちびちびビールを飲みつつチャンネルを奪った紀佑が再びテレビをアニメにかえて口を開く。
「どんな塩梅でございましょうか」
「あー……」
紀佑の手からチャンネルを奪いニュース番組にして、チャンネルをそのまま手ごとこたつに収納した弥吉はぐるりと部屋を見たあと嫌そうに眉を寄せた。
「よかぁねぇだろうなぁ」
「まじで」
「鍋とニュース以外は見たくない感じ」
「さりげなく要求したね今」
「腹が減っては戦が云々」
「煮えてから! 鍋は煮えてから!」
まるで鍋奉行のような叫びを上げる紀佑のデコを中指ではじきつつ、弥吉は天版の空いたスペースへぺとりと頬を付けて唸った。腹を空かせた野生の獣のような呻きだと紀佑の頬が引きつる。
「あんま好きじゃねーんだけどよ」
「うん? 水炊き嫌い?」
何故かここだけとぼけたような紀佑の言葉にこたつの中で蹴りを繰り出した弥吉は天版に頬をつけたまま無表情で「そうじゃねぇよ」と言う。
「なんもなきゃそれでいいが、まぁ気休め程度にはなるかと」
「何が」
「塩」
その単語にわずかに紀佑の肩が跳ねるが弥吉はそのまま言葉を続けた。
「まだあるかキスケ」
「ある、けど」
「小皿二つと一緒に持って来い」
「あ、良かった。またぶつけられるかと」
「投げてやろうか」
「直ちに持ってきます」
台所から塩の袋と形がバラバラの小皿を六つ持ってきた紀佑は、それを弥吉の前に置いてこたつに入りじっと弥吉を見入る。
「盛り塩?」
「気休めだがな」
紀佑が持ってきたのは粗塩ではなく食塩だった。粗塩はさっき撒ききってしまい紀佑の家にある塩はこれで全部だ。
「物覚えが悪いお前にはレポート一年分くらい言い聞かせてるが」
小皿に糸を垂らすように塩を流している弥吉は型がある訳でもないのにきれいな円錐形を食塩で作っていた。
「見える事とどうにか出来る事ってのはイコールじゃない」
小皿二つに円錐形を作った弥吉がこたつから出ると、その盛り塩を台所とユニットバスに置きにいく。戻ってきた弥吉は湯気を立てる土鍋を飢えた野犬の目で見ながら背を丸めてこたつに収まった。
「正直お前みたいなのは寺かどっかに入った方が楽だと俺は思うがね」
「……弥吉君は?」
「俺ァまったく向いてないのよ。意地が悪いからな」
自分の事だけで手がいっぱいなのだと弥吉はごちた。ぐつぐつ音を立てる土鍋にまだなのかと催促の視線を紀佑に向けると、いつの間にかチャンネルを手にしていた紀佑がテレビをバラエティー番組に回してまだだと答える。
「坊主が住んでる寺の方がいくらかましだろうさ」
「でも」
温くなるだろうに缶ビールを両の掌で持った紀佑が、わずかに俯いて言いにくそうに何度か口ごもる。
「俺が信じてるのは、弥吉君だし」
その言葉に、弥吉は本当に嫌そうに盛大に顔を歪めて紀佑のデコを本気の力ではじいた。
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鍋の中身争奪戦は凄まじいの一言につきた。バラエティー番組で響く笑い声など無視した二人は殺伐とした雰囲気で睨み合い競うように肉を奪い合う。材料費を出している紀佑が譲るべきだと主張したが弥吉はどこ吹く風とタダ鍋を堪能した。
タダより高いものは……の格言にかかる「高い」の内容が既にわかっているので遠慮は微塵程も見えない。
締めのラーメンを投入した所で二人はようやく落ち着いた。
「ビールも鍋も、俺の財布から出たものなんですが」
「おう、じゃあもう一本ビール開けるか」
「二本までって言ったよね!?」
紀佑が大きな背で必死に冷蔵庫を隠す姿を鼻で笑った弥吉はごろりと寝転がり首から下をこたつへ収めた。両目が満足気に細められ、そうしてると稲荷神社にある狛狐のように見える。
「ラーメンは?」
「煮えたら教えろよ」
「……弥吉君のお母さんはきっと偉大な人なんだね」
「敬い奉っていいぞ」
「どうやったら弥吉君に皮肉が通じるのか考え中」
煮えたラーメンをすする紀佑があーでもないこーでもないと言っているのを流してた弥吉はチラリと時計を見た。短針が九時を過ぎている。普段なら風呂に入ってのんびりするのだが、今日ばかりは入る気にならず弥吉はこたつの中でもぞもぞ動き居心地の良い体勢になると、ラーメンもどうでもよくなり目を閉じた。
「あれ、寝るの?」
「かも」
「飯だけ食って終わる気なのですか弥吉様……」
「泊まってもらってるだけ有り難い嬉しい崇めちゃうとなればいい」
「わーい弥吉様だいすきぃ」
「キモい」
「どうしろっての」
高い声音をわざわざ作って出した言葉をばっさり折られた紀佑は肩を落としながら残りのラーメンをずるずるとすすった。
腹が満ちると眠くなり片付けは明日でもいいかと、弥吉に倣ってこたつへ全身を収めようともぞもぞ寝転がる。
「おい狭い」
「俺のこたつだもん」
小さなこたつに男二人の全身が収まる訳もなく、こたつの中で覇権を奪う二人争いは紀佑の敗北で落ち着いた。
「理不尽が身に染みるわ……」
腰より下しか収められなかった紀佑が俯せで泣き真似をする。もはや半分夢の中となった勝利者である弥吉はぼんやりとにじむ視界で時計を確認したあと、腕を枕に完全に目を閉じた。
「キスケ」
「なーにー」
「風呂は明日の朝にしとけ」
「それもなんか意味のあるコト?」
「今から一人で盛り塩置いてある風呂に入りたいなら止めねーよ」
「朝にします」
「ん。俺ァ、ちょっと、寝る、わ」
途切れた言葉をぽつぽつつむいだ弥吉は沈む意識に呑まれながら、紀佑の「寒くなったら布団に移動してよ」という言葉が放つマメ具合にひっそりと苦笑を浮かべた。
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