弥吉怪談-まってるね-
神妙な顔で頷いた弥吉に身振り手振りで懸命に話し掛けていた紀佑はぱっと表情を明るくし、期待に目を輝かせた。
紀佑が差し入れた紅茶の缶をゴクリと飲んだ弥吉は、床に投げてあった鞄を脚で引き寄せ年寄りのような声を漏らしながら中をあさる。大して中身の入ってない鞄から何枚か紙を取り出し、それを紀佑に向かって投げた。
「ほらよ」
「魔除けのお札とか!?」
珍しい事もあったものだ! と期待に満ち溢れる紀佑は投げ寄越された白い紙を慌てて受け取る。そして新聞紙をグシャッと丸めたように盛大に顔をしかめた。
「まっちろ……」
「レポートよろしくー」
無表情で無情に告げ、用は終わったとばかりにひらひら舞う弥吉の手を素早く掴んだ紀佑が膝で埃の積もる床を掃除しながらソファーに横たわる弥吉に顔を近付ける。
「近い近い近い近い」
「まじで? ここまで聞いて本当に聞くだけ? 弥吉くぅん」
「キモいキモいキモいキモい」
「お願いだよぉ困ってるんだよぉ助けてみよしくぅぅぅん!」
「俺は未来から来た猫型タヌキじゃねーんだよキ、ス、ケ君」
「そんな! いやきっとこれは弥吉君のいつものツンデレだよね! うっかりしてたよ弥吉君はツンデレだから後はデレデレになるだけのは」
皆まで言わせずに弥吉の堅く握った拳が紀佑の顔面をわずかに陥没させた。埃だらけの床を紀佑が今度は身体全体を使い局地的に掃除をする。舞い上がった埃が、窓から差し込んだ陽光にキラキラと鬱陶しく反射して弥吉は咳き込む。少々赤くなった拳につながる腕にはびっしりと鳥肌が立っていた。
「俺は、最初から、話を、聞くだけだと、言ったよな?」
雑巾を見るような眼で紀佑を見下ろした弥吉が倒れている広い背を踏んで更に掃除箇所を広げていく。キュッキュッと軽快に床を肌がこする音がした。
「……大学生協……コロッケヤキソバパン……ダブルチョココロネ」
キュッキュッと軽快に鳴る床の音がピタリと止まった。光明が見えた紀佑は幽鬼のような細く低い声で更にゆっくりと慎重に言葉を紡ぐ。
「三脇さんの牧場で愛情たっぷりに作った牛乳ぷりん……」
「プラス学食の限定季節パフェ」
「交渉成立ァァアア!」
床に突っ伏したまま拳を振り上げた埃まみれの自称親友を、弥吉は何とも言えぬ温度である日向水のような眼で眺めた。
■■■
さて、本題である。
三脇氏の愛情が詰まった牧場ぷりんを無表情ながら幸せそうに食べていた弥吉の前ではうんうんと唸りながらレポートを埋めている紀佑の旋毛が揺れていた。それを丁寧に三回つついてから、弥吉はどうしたものかと口にくわえた木スプーンをプラプラと振る。
紀佑が持ち込んだ面倒な話というのはなんとも本当に面倒で大学生協のレア商品と学食限定メニューの他に逆立ちで敷地内を一周回らせたい程にとにかく面倒を臭わせた話であった。
『あれはもう1ヶ月くらい前の事なんだけど……』
怪談話のように切り出された話は、まとめると三行程で終了する内容ではあったがその三行ですら面倒であるという臭いを隠しきれない。
1ヶ月に前に紀佑は合コンをした。
好みの女の子を持ち帰れた。
それ、人間じゃなかった挙げ句現在ストーカー化。イマココ。
こうだ。最後の一行から漂うデススペルの威力といったら、完全な他人事であるなら指を指して笑い転げたい程の馬鹿さ加減である。完全な他人事にならなかったので弥吉はげんなりとした溜め息を吐いただけであったが。
一ヶ月……紀佑が我慢した期間が長いのか短いのかは計りかねるが。
(どうせならもうちっと早くに話を持ってこいっつーの……)
レポートに向かって唸る紀佑の旋毛を眺めてじっとりと眉を寄せた弥吉はさり気なく視線を動かして紀佑の背後を伺う。
紀佑がイチゴパンを持って乱入してからなるべく意識の外においてはいたのだが、なんとも粘着質な黒いモヤッとした何かが紀佑の後ろにまとわりついていた。
随分とドロドロしているな、と弥吉はその印象を確認する。もしかしたら一ヶ月前はここまでドロドロしてなかったかもしれない、とも弥吉は思った。
せめて、直後であるなら説得という名前の恐喝が効いたかもしれない。
(あーあめんどくせ……)
そもそもこの一ヶ月、紀佑がまったく弥吉に近寄らなかったのは多分ソレの影響があったのだろう。紀佑はどういった体質なのかそういった"よくわからないもの"を頻繁に引き連れている。普段の紀佑であればその手の異変は真っ先に弥吉へ泣きつきいたものだが、今回は一ヶ月我慢した挙げ句の話であった。つまり、もろに影響を受けているのだ。本人に自覚が有るかは弥吉にも判断がつかないが。
弥吉は別にテレビに出てるような霊能力者という訳ではない。というかあの手の人間は総じて苦手としていた。胡散臭いのである。
本当に、ただ、大多数の人間が見えない"何か"がうっかり見えてしまっているだけの普通の大学生であると弥吉は自分を評価していた。紀佑にも散々言い聞かせているが、お祓いやら浄化やら、そう言ったよくわからない力は持っていない。見えるだけでどうにも出来ない。
だからこそ関わりたくなどないと思っているのに。
(キスケめ……)
事がもし無事に片付いたならば、学食のパフェのみならず県内有名店の巨大パフェを驕らせてやらねば気が済まぬ。
うっそりと吐いた弥吉の溜め息をレポートに夢中な紀佑は気が付かない。
■■■
大学の講義を消化し夕方の予定は揃って何もないという寂しさだったので、弥吉と紀佑はスーパーで夕食の材料を買って紀佑のアパートに向かいダラダラと仲良く歩いていた。時折弥吉の右足が紀佑の膝裏に入るという仲睦ましさである。無論、夕食の材料費は紀佑持ちだ。
沈み行く太陽は肥大し、低い建物ばかりである住宅街を茜色に染め上げる。伸びた影がゆらゆらと歩く二人の後ろについてきていた。西日が目に染みて弥吉は瞼を薄く閉じる。
嫌な時間の一つだ。影が伸びる夕方と影すらない真夜中は外を動く時間ではないとつくづく思う。弥吉の横を歩いている紀佑は上機嫌にスーパーの袋を揺らして何くれと弥吉に話し掛けてきた。
「やっぱり人数いる時は鍋だよね」
「二人だけだろ」
「一人だと鍋出来ないじゃん!」
「キスケ君知らないの? 百均に売ってるよ一人用土鍋」
「虚しさが増すだけの鍋を売るなと」
「便利だぞ、あれ」
紀佑が向けてきた生温い眼差しに目潰しをお見舞いした弥吉は、後ろで某アニメ映画の有名な敵役の真似をしている紀佑を置いて見慣れてしまったアパートの階段を上がっていく。
金属製の錆びた手摺りの塗装が握る度にポロポロと落ちて不愉快になり、一気に駆け上がった。築年数が己の歳よりある古いその学生アパートは三階建てで、紀佑が住むのは二階の奥になる。西日がもろに差し込む部屋だけあり家賃はもしかしたら他の部屋より安いかもしれないが、弥吉はせめて隣に移れと言いたい。
「酷い弥吉君……本気で俺の目玉に穴を開ける気だったの?」
「キスケ、鍵」
「涙が止まらないのよアナタ」
「鍵」
「弥吉君のバカー! 取り皿に野菜と豆腐しか入れてやらないからなーッ」
よくわからない啖呵を小さな声で切った紀佑が弥吉の手に大人しく鍵を乗せて頬を膨らませた。大学生の男がやっても不気味なだけのそれをさらり無視した弥吉はじんわりと温い鍵を嫌そうに持って、部屋を開けて一言「塩」と紀佑に手を差し出した。
「のっけから怖い雰囲気いらんですのよ弥吉君」
弥吉の低い一言に紀佑が眉間に深い皺を刻みながら眉尻を下げる。表情筋が日本人の割に妙に発達している男はぷるぷると首を振ったが。
「撒かずに入っても俺は構わんのだが?」
「ささっ、弥吉様! さっきスーパーで購入した天然物のお塩に御座いますよ!」
弥吉の言葉に素早い変わり身を遂げてスーパーの袋から一キログラムの塩を取り出すと、押し付けるように弥吉に向かって差し出した。
無口な気がある弥吉は元々静かな男であるが、紀佑の部屋の前に来てからより端的な言葉しか出さず受け取った塩も無言で袋の端を爪で破ると、ざっと中身を掌に流しそのまま紀佑へと全力で投げつけた。
「へぶぇ!」
再び某アニメ映画の有名な敵役の真似をするはめになった紀佑を蟻を見るような目で見た弥吉が二度、三度と全力で塩を投げつけるのを四度目の振りかぶりでなんとか阻止した紀佑が、涙をボロボロと流しつつ抗議の声を上げる。
「暴力反対!」
「暴力チガウヨ」
「嫌がらせ反対!」
「思い遣りネ」
「おもっきり、目に入ったから!」
「そりゃ失敬」
何事もありませんでしたというような様子である弥吉に、紀佑はがっくりと涙を流しつつ肩を落とす。その肩にもボスボスと塩をぶつけられ、ようやく紀佑は違う意味で背筋からぞわぞわと何かが這い上がるような感覚を覚えた。
「あの、弥吉君……弥吉先生」
「なんだねキスケ君」
「塩の袋がすでに半分無いのですがいったい俺に何故そこまで塩を投げつけるのでしょうか」
「……むかつくから?」
「ちょっ、嫌がらせ反対!!」
「と、言うのはまぁ半分本気で」
半分は冗談だった事に喜べばいいのか嘆けばいいのか、むかつかれていた事に嘆けばいいのか、それともこの塩撒きが半分本気である事におののけばいいのかわからなくなった紀佑の顔が混乱で奇妙に歪んだ。
一キログラム入った塩袋のおよそ三分の二を紀佑に投げつけてようやく弥吉の手が止まる。涙目の紀佑の足元は落ちた塩でうっすらと白くなっていた。
塩の残りを見た弥吉はフンと一回鼻を鳴らし、残りを手にして玄関に一歩入ったあと全力で部屋に巻く。紀佑の顔が絶望に染まった。
「掃除が……」
「がんば」
「うそでしょー」
豆撒きかよ! と一声吠えた紀佑は弥吉の顔を伺いながら己の部屋へ入ろうとし、弥吉が止めずに無言で身体を壁側へ避けたので安堵したように靴を脱ぎ捨て奥へ入っていった。
その背を玄関で見ていた弥吉は一回アパートの廊下に出て、手に握っていた最後の塩を己に向かってパラパラと振る。
「こんなもん、気休めにすぎんな」
深く吐いた息と出た自嘲の呟きは、紀佑の暢気な「ビールは二本までね」という声にかき消された。
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