弥吉怪談-まってるね-
あなたにはこんな記憶がないだろうか。
子供の頃とても大事にしていた人形やぬいぐるみがいつの間にか無くなっていたり。
誰もいない部屋から声が聞こえたり人の気配がしたり。
公園で遊んでいたらいつの間にか知らない子が増えていたり。
真夜中にトイレに行ったら戸が叩かれて返事をしても何も返事がなかったり。
騒がしい雑踏や家の中が突然無音になり耳鳴りがして背筋が少しざわめいたり。
これらのどれか一つくらい、経験がないだろうか。夢か現か幻か判断のつかないような曖昧な記憶の奥底に。
『怖い』という感情は根付いている。
弥吉怪談
「まってるね」
うつらうつらと古びた埃っぽいソファーに座る弥吉は首を不規則に揺らしていた。四月半ばの空気はどうしても眠気を誘う温度をしている。柔らかな緑に透かされた陽光は窓から室内に緩く注いで、いっそ午後の講義は全てエスケープしてしまおうかと弥吉を誘惑してくる。
そんな穏やかな時間を無粋に破ったのはいつも何かしら喧しい弥吉の友人を名乗る男だった。
「みーよしくーんっ」
野太い声で上げられた猫を撫でる時のような媚びを含む声は聴力への暴力行為だなと、心地良い睡魔の腕を追いやられた弥吉はじっとりと眉を寄せた。程なく建て付けの良くない部室のドアが遠慮なく開かれ、錆びた蝶番が女の細い悲鳴のような音を出す。
ドアを毎度訪れる度に壊しかけるこの喧しい男の名は紀佑という。弥吉の親友を名乗る紀佑との付き合いは大学に入ってからで、交友関係を広げない弥吉が唯一大学で話をする同窓の男だ。
「なんど言やぁわかんだキスケ。静かに入ってこい」
「ごめんごめん。食堂で見なかったからさー、パンあるけど食う?」
ニコニコと弥吉の棘のある言葉には気付かぬような顔で左手にぶら下げた袋を掲げた紀佑に、弥吉は諦めたような吐息を漏らしてソファーに沈んだ。
「要らない」
「ええー、食べようよ。はいイチゴパン」
話を聞いてるようでまったく聞かぬ男だなと会話の度に思うのだが、それとなく弥吉が避けても何故か紀佑にはすぐ見付かってしまうのだ。弥吉はだから紀佑の事を避けようのない天災だと思う事にしている。
無理やり持たされたイチゴパンを見て弥吉は深く溜め息を吐いた。イチゴパンは確かに弥吉の好物で以前何かのおりに呟いた記憶があるが、よく覚えてたものだとそのマメさには感心する。
「……飲み物」
「はい、紅茶」
要求するとすかさず紀佑がダージリンのストレート缶を差し出しすのに、弥吉はついに苦笑してしまった。やはりそれは弥吉の好みであり、購買横の自販機にしか置いていないメーカーのドリンク缶である。
「マメだなキスケ」
「良い婿になるでしょ」
「嫁の間違いじゃねぇの」
寝そべっていた古いソファーから身を起こして缶のプルタブを引くと、木と埃の匂いを押しのけるように一瞬紅茶の薫りが弥吉の鼻孔をくすぐる。
少しだけ機嫌を直した弥吉がイチゴパンにかじつくのを見計らって、紀佑も惣菜パンをかじりながら口を開いた。
「なんで俺は女子にモテないんだろ……」
「外見に見合わずマメなとこが薄気味悪ぃんだろ」
弥吉の言葉とおり、紀佑はマメな性格に合わない豪快な外見をしている。高校時代は柔道部で鍛えたという体躯は逞しく短く刈り上げだ短髪とパーツの大ぶりな顔立ちは、どうにも大雑把なスポーツ人間だと周りに印象付けるらしい。
反対に弥吉の第一印象は細かく神経質な人というイメージだ。硬質な黒髪は綺麗に後ろに流れ、全体的に細い体躯と繊細ささえ感じる顔のパーツからどうしてもそういった印象をもたれてしまう。実際弥吉が神経過敏になるのは対人関係のみで、あとは紀佑の足下にも及ばぬ無神経さを発揮するが。
鼻で笑いながら言われた一言にわかりやすくいじけた紀佑が、恨みがましくねめつけてくるのをさらりと流した弥吉は好物であるイチゴパンの最後の一口を名残惜しそうに飲み込んで「それで?」とイチゴパンに免じて水を向けてやった。
「今度は何の厄介持ち込んできた」
「俺が厄介を持ち込むという前提のもとの断言ってどうなの」
「お前が俺のトコに来るのはソレしかねぇからだろ」
「酷いよ! 弥吉君のとこに来るのは友情だよ!」
「で?」
慈悲の欠片も見られない硬質な視線を向けられた紀佑はぐっと呼気を喉に詰まらせたあと、観念したようにがっくりと首を落とした。
友情だなんだと暑苦しい言葉を口にするが友人にはまったく困っていない紀佑が己のような閉鎖的な人間に関わってくるのはとどのつまり、紀佑にとって利益が高いからだろうと弥吉は分析していた。
弥吉はお世辞にも己が側にいて心地良い人種だとは思っていない。むしろ大多数の人間には付き合い憎い事この上ない人種だとカテゴライズしている。無愛想で口が悪く、ちょっとした事で機嫌を直ぐに損ねしかもそれが顕著に態度として現れる非常に扱い憎い人種だと。
むさ苦しい、が枕詞として付きまとうものの華やかな交友関係を持つ紀佑の打算的な部分が、つまりは扱い憎い己に関わらせるのだろう。
それが不快で腹を立てるような可愛げがあれば弥吉もこんな性格にはなっていなかったのだろうが、生憎と弥吉は紀佑のわかりやすいその部分が見えるからこそこうして会話を成立させているのだ。
でなければ、たとえ避けようもない天災のような存在であろうと口を開かなかっただろう。
「あのですね……」
「めんどくせぇ」
「まだ何も言ってないのに!?」
「イチゴパンじゃ割にあわねぇ」
「だからまだ何も言ってないじゃんっ」
おずおずと口を開いた紀佑の言葉を、弥吉は一言遮って埃臭いソファーにずるずると沈み込んだ。会話を許すのと、関わる事には天と地程の差がある。
そして出来れば会話以外の事を紀佑とはしたくないのが弥吉という男である。
弥吉はもし許されるのであれば誰もいない静かな遠い所で独りきり、読書だけしてゴロゴロしていたいという願望を持つほど対人にして極度に物臭な所があった。
大学生活にしても自ら関わるのは単位くれる教授と共同課題を抱える人間だけに留めたいと思っている。紀佑はただの五月蝿いイレギュラーだ。
「毎度言ってるが俺ァ見えるだけだ。専門職に相談しろよ」
「そんな知り合いいないって……知ってるなら紹介してよ」
「生憎俺にもいねぇな」
「じゃあ俺が頼れるのは弥吉君だけじゃんか」
「頼るな」
「酷い……こうして土産持ってきた俺の相談を聞くくらいソファーに寝そべってても出来るでしょうに!」
大仰に泣き崩れる紀佑に冷たい一瞥をくれて、ソファーに沈む弥吉はぼそりと一言呟く。
「武井教授、惑星科学のレポート」
「やります!」
間髪入れず答えたあたり、紀佑は本当に困っているらしいと弥吉は小さく眉を寄せて目頭をぐりぐりと揉んだ。面倒臭いという雰囲気を醸しながら沈んでいたソファーから身を起こし、ちらりと紀佑を見る。
周りに花が飛び散るような喜色を顔に浮かべた紀佑が身振り手振りを交えて話すのは、成る程厄介な話であった。
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チャネリング、という単語がある。十九世紀あたりから使われはじめた言葉で、日本ではオカルト用語として八十年代、九十年代頃よく用いられていた。霊界との感覚を合わせる、通信手段を持つ、交信するなどの意味合いがある。
弥吉はそういう意味でチャンネルが噛み合っていた人間だった。きっかけがなんなのかは本人にもわからない。物心ついた時にはもう弥吉のチャンネルは修正不可能であった。
テレビのリモコン操作をするように、簡単にチャンネルは変えられない。それが二十年生きた弥吉の出すとりあえずの答えである。
"見え"るという事が一部の人間はステータスにもなるようだが弥吉に限ってそれは厄介の種であるだけだった。
まず、怖い。次に胡散臭い。
それが"見える"事に関する弥吉の感想である。
あらかじめわかっている場合はさほど恐怖もないが、それはいきなり恐怖を植え付けてもくるのでやはり見えない方が幸せなのだと弥吉は思う。
大多数が見えないものが見えると言うのは胡散臭い。弥吉は至って現実的な思考の持ち主であり自ら幻覚を疑い病院に通いつめもしたが、身体と精神に異常は見られず病院通いは高校とともに卒業となった。
ひた隠しにしてきたそれが紀佑にバレたのは偶然だったが、以来何かと"引き寄せやすい"紀佑がこうして大学の片隅に隠れる弥吉を見付けては面倒を持ち込むのだ。
「と、いう訳なのです」
「なるほど」
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