林檎3 | ナノ
 
 林檎をかじった王子の話




 雪白の本当に恐ろしい所はここだ。コイツは未だに俺の嫁さんになりたいと、本気で思っているのである。


「おまっ……」

「ああっ、何してるのみーくん! はい布巾、染みになる前にちゃんと拭いて」

「あのなっ」

「拭けないの? しょうがないなぁ」


 どうにかしようと声を荒げた俺を軽く無視して、テーブルを回り込んだ雪白が甲斐甲斐しく布巾で俺のワイシャツを拭っていく。


「あーあ、これ洗濯しないと駄目だね。上から着替え持ってくるから脱いでて。いつも言うけど、お風呂に入る時じゃなくて帰ったら直ぐに着替えてよ?」

「聞けよ!」


 怒鳴ると、雪白はきょとんとして漸く手を止めた。

 無駄に上がった呼吸を整えようと肩で息を吐く。


「お前本気で俺と結婚しようとか思ってんのか」

「……え、なんで?」


 どうしてそんな事を聞くのか全く解らないといった表情を雪白をする。何でそんな顔をされるのか俺には解らない。


「だって、みーくんと教会いったよ?」

「あ、あんなんお前が五歳の時だろうが!」


 そもそもその時、俺は雪白を女の子だと思っていた訳だし、どう考えても無効だろう。

 つい怒鳴れば、雪白は布巾を握ったまま不自然に固まって、小さく呟く。


「キスだってしたもん」

「き……って子供の頃の話だろっ」

「元気に大きくなったらお嫁さんにしてくれるって……」


 あぁ言った。確かに言った。だが、まさかこんな俺の身長も越すような健康優良児になるとはまったく思わなかったし!


「お嫁さんお嫁さんって、そもそもお前、男だろうが!」


 ずっと言おうと思って、どうしてだか言えなかった言葉を俺は言った。ついに言った。


「でも、みーくん、言ったも……お、お嫁さんに、してくれるって……大きくなって、元気になったら、してくれるって」

「な、泣くなよ!」


 震えていた雪白の目からボロリと涙が零れた時、俺は物凄く慌てた。やってしまった。

 雪白は布巾に握り締めたまま俯いた。リビングの床に水滴が小さく散らばる。


「みーくんが言ったから、俺は毎日牛乳飲んだし、身体も丈夫にしようって頑張ったし……料理、だって、お嫁さん修行だってたくさん、おぼえた、のに」


 鼻を啜りながら、雪白は目元をゴシゴシと擦った。嫌な罪悪感だ。出来るなら過去に戻って小さい俺に拳骨をかましてやりたい。

 そんなに目元擦ったら赤くなるだろと、止めたい衝動を俺は押し込んだ。


「ホモになんだぞ、お前意味解ってんのか」

「日本、じゃ結婚、できな、いから……俺、知ってるよ」


 微妙に論点がズレてないだろうか。そもそも常人と感覚がズレてなきゃ中学三年にもなって男の嫁さんになりたいなんて言い出さないだろうが。


「おれ、だめ? みーくんの、お嫁さんに、なれない? どこがだめ? なおす! なおすから!」

「そーいう問題じゃないだろ」


 雪白の必死さは、見ていて何だか痛かった。

 心臓が嫌な音を立てる。

 家のリビングで泣いている雪白と向き合いながら、もしかしたら雪白とこんなゴチャゴチャした話をするのは初めてかもしれないと思った。

 いや、初めてだ。

 雪白はいつも、なんだかんだ言って俺の横に居た。当たり前のように。

 初めて俺に彼女が出来た時だって、俺は雪白が邪魔してるのを知っていながら強くは止めなかった。

 その後も同じ繰り返しだ。


(そうだ、俺は)


 雪白のやる事なす事、文句を言いつつ容認していた。それは多分。


(雪白は、怖い)


 もう俺の生活には雪白が当たり前になっていて、脳内の片隅にはいつも幼かった頃の、身体が弱くて可愛かった雪白が笑っている。

 それが、何かの弾みに居なくなる事が、怖い。

 だから俺は雪白に強く出れないでいるんだろう。

 面倒な会話や嫌がるような行動は避けて、なんだかんだ雪白を甘やかしてしまう。

 歳を重ねるにつれ身に付けた常識や理性が、雪白の行動をおかしい、変だ、怖いと思わせても、本当に怖いのは。


「りょうりが、もっと、できないとだめ? いえのまえで、まってんの、う、ウザい?」

「雪白……」

「だめなとこ、ぜんぶなおす。なおすから、いってよ!」


 どうすればいいのか。

 泣き崩れた雪白を前に、俺はただ途方にくれた。こんなに取り乱した雪白を見るのは随分と久しぶりで、前はどう宥めていたのか思い出せもしない。


「泣くなよ」


 無力にも程がある呟きを俺はこぼす。脳が停止したみたいに他の言葉は出てこない。

 いつも居心地の良いリビングが、その時ばかりは重い沈黙で逃げ出したい場所になっていた。ただ雪白の鼻をすする音が静かに沈黙を細かく壊す。


「俺、迷惑……かな」


 暫くそれが続いた後、落ち着いたのか随分しっかりした声で呟いたのは雪白だった。

 俺は反射的に首を振った。振った後で、否定してどうすると理性が叫ぶ。

 理性と感情は俺に真逆の訴えをする。理性は感情を否定し、感情は理性を否定する。

 普通でありたい俺。

 雪白とは決別したくない俺。
 どっちもを選ぶのは無理だ。雪白は明確な意思表示をしているのだから。

 結局、理性と感情の中間で振り回されている俺はどっちつかずのフワフワした駄目風船みたいなもんだ。

 情け無い。俺は泣かせた幼なじみを前にしても決着がつけられないのか。


「みーくんは、嫌なの? 俺とは居たくない?」


 額から汗が流れた。冷たい。頭の中で雪白との事が走馬灯のように高速で流れた。

 決断を迫られた。きっかけを作ったのは俺だ。

 目の前のカードは二つ。二者択一のカード。

 白か、黒か。

 進むか、戻るか。

 自分が本当は、どうありたいのか。

 喉が口に溜まった唾液を胃に送って不自然に鳴った。苦い。


「俺は……」


 雪白はじっと俺の目を見ていた。無言のプレッシャーに押されゆっくりと口を開く。

 答えはまだ出ない。テストの前は全く働かない脳が依然フル回転している。

 雪白が居る生活を手放して平穏で普通の生活を叫ぶ理性と、雪白が居る生活をそのまま続けたい感情と。


(どうして俺とお前は)


 友達にはなれないんだろう。友達ではいられないんだろう。

 間違えたのはどこだ。


(クソッ、答えなんか出るかよ!)


 どっちを選んでも、俺は後悔するだろう。

 でも俺は、今ここで、答えを出さなきゃいけないんだ。

 問題なのはどこで間違えたかじゃない。疑問なのはどうして友達では居られなかったかじゃない。

 答えを出さなきゃどこにも進めないかで、俺がどうしたいのかだ。


「俺は」


 雪白の目を真っ直ぐに見た。答えによっちゃもう見る事の出来ない目は、不安で揺れていた。

 それを見た瞬間、とっさに俺は叫んでいた。


「お前と居たい」


 あぁやっちまった。理性が呟いた。もう知らないとも。

 雪白の不安に満ちた目が、喜色に染まった瞬間、何だかどうでもよくなった。悩むのも馬鹿馬鹿しい。

 今までと同じ、何も変わらない。雪白が玄関で待ってて、色々ズレた事を言って、飯を作って笑ってる。

 残念なのは俺よりデカい男と言う事だけだ。後は俺の理想なんだ。それでいいじゃないか、理性糞食らえ。


「いーよ、俺の嫁は、昔の約束通りお前だ」

「みーくんっ」


 雪白が、赤い目元を輝かせて俺にダイヴするように抱き付いてきた。受け止められる体格は無いのでそのまま床に背面から着地。

 頭を打ったのはまぁ泣かせた迷惑料という訳で。

 二者択一のカード、選んでみたものの、何か変わっただろうか。

 現状は大して変わらない。変わったのは俺の心境だけだ。

 脳内では、幼い雪白と今の雪白が揃って笑っている。

 あぁ、いいじゃんそれ。はいはい幸せ幸せ。

 俺は思った。見るとも無しにテレビで見た天気予報、明日は晴れだ。

 きっと明日も青空を見上げながら嘆くのだ。

 俺の上で雪白は幸せそうに笑っていた。

 ああ。現状は何も変わりはしない。


end


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