林檎をかじった王子の話
『みーくんみーくん』
記憶の中の彼女は、林檎みたいに赤いほっぺたをしていた。病弱故にあまり外に出してもらえず、抜けるような白さの肌をしていた。
いつも絶えず笑っていて、何度も何度も、俺の名を舌っ足らずに呼んで。
大事に大事にされた証拠なのだろうか。
無邪気に寄せられた信頼はやたらにくすぐったくて、俺はいつだって伸ばされた手を拒まずに取ったのだ。
『しーちゃんね、しょうらいはみーくんのおよめさんになりたいなっ』
『しーちゃんはからだがよわいから、げんきでおおきくなったらな』
『うん! がんばって、おおきくなる! だからぜったいだよっ』
確かに約束した。二人で街の教会に忍び込んで、十字架の前でキスまでしたのに。
「何で、こうなっちまったのかなぁ」
青い空を仰ぎ嘆いた所で、現実は少しも変わりやしない。
林檎をかじった王子の話
ダルーい授業から一時解放される憩いの時間、昼休み。
高校三年の夏前という時期故に参考書片手に弁当つつく奴も居る事はいるが、大半が寄り集まって無駄話に花を咲かせている。
俺もその一人だ。
「おぉっ、矢代の弁当相変わらず気合い入ってんなぁ……お袋さん大変じゃねーの?」
「……」
「いーよねぇ、真面目に弁当作ってくれる母親が居る奴は……唐揚げ一個恵んでよっ」
弁当の蓋を開けた瞬間湧き上がる歓声に、俺はいい加減げんなりとしていた。
こいつらは勝手にこの弁当をお袋の力作だと勘違いしているが、これを作ったのは俺の母親じゃあない。
俺はそれをこいつらに打ち明けるつもりも無ければ、その勘違いをわざわざ訂正する気もないが。
(や、本当……相変わらず気持ち悪い弁当だな)
彩りも美しく、栄養バランスもおそらく考え抜かれているだろうその弁当の制作者は、驚く事なかれ一介の男子高校生なのである。
見るからに愛情が詰まりまくったこの手の込んだ弁当を作るのが、まさか年下の男とは誰も思うまい。
そして知られたくもない。
「なぁー矢代ぉー、唐揚げくれよぉおっ」
いつも購買のパンで昼飯を済ます佐山は余程この弁当が羨ましいのか、毎回毎回おかずを一品せしめるまでぼやき続けるので俺は早々に佐山の口に唐揚げを突っ込んだ。変わりにカレーパンを一口強奪しておく。
美味いを連呼しつつカレーパンの恨みを吐き出す佐山を、俺は綺麗に無視してやった。
毎回の事なので周りは流石にもう何も言わず、各々昼飯をつつきながらくだらん話に興じている。
ざわつく教室は食堂よりいくらか居心地もいい。
だが、俺の心は晴れた空でも心地良いバックミュージックでも友人との雑談でも癒やされはしない。
俺は無言で弁当を咀嚼しながらその実、苦虫を食ってるような心境だ。
(クソ、腕が上がってやがる)
弁当は美味かった。食材も味もすべてが俺の好みで出来上がっている。
貰い始めた当初は食えたものじゃなかったが、二年と少しで奴はメキメキと料理のスキルを上げ、日に日に腕を磨き上げていく。
恐怖だ。奴の本気がこの弁当で解ってしまう。恐怖以外にどの感情を覚えろというのか。
それでもその薄ら寒い弁当を残さず完食してしまうのは、やはり味……だろう。
本当に味だけは文句の付けようがないからな。
それ以外にまったく理由が見いだせない。
「でさ、俺はC組みのメグミちゃんなんか良いと思うんだよなぁ……おっぱい大きいし!」
「黙れこのおっぱい星人が! 貴様に委員長の脚線美がわかろう筈がねぇっ」
「……あんの話だ」
飯を食いながら苦虫を噛み潰すのに集中している間に、和久井と畑野が何やら声を上げていた。
真っ昼間の教室で下ネタかよ女子が引くぞと呆れると、口に目一杯チョココロネを詰め込んだ佐山が地味に説明してくれる。
「ひほーのほんはのははひ」
「悲報の本は母の日?」
何言ってんだテメェと水を渡してやる。とりあえず口の中を綺麗にしやがれ。
佐山がしきりに頷き水で口を洗浄している間にも和久井と畑野の下ネタは加速していく。
「だからぁ! メグミちゃんの体育着姿を見ればんなもんは吹っ飛ぶんだよっ」
「馬鹿おま、委員長のあの長いスカートから覗く脚を良く見ろ! あの曲線は完璧だろうがっ」
「理想の女の話だよ矢代」
「へーぇ」
聞いて損したと、俺は再び苦虫を噛み潰す作業を開始する。
心底どうでもいい話だ。今の俺はそれどころではない。このまま行くと俺に明るい未来は無いのだ。
いい加減、そこんとこを俺は真剣に考えねばなるまい。
……ちなみに、俺は尻派であるが。
「とにかく! 胸はメグミちゃん、顔は西山さんが俺の理想だ文句あっか!」
「ねぇよ」
つか何故俺を指して言ったんだ和久井。指すなら熱く議論を交わしていた畑野にしろ。
「いいや! 脚は委員長、顔は細田、胸は首藤先生が理想だろ!」
「そんな女いるか」
そんで畑野、お前も指すなら和久井にしろ。俺を巻き込むんじゃない。
「まぁ二人の理想はわかったけどさぁ、俺としては矢代の理想が気になるなぁ……どうなん?」
で、全く話題に興味を示さなかった俺に向かい佐山がまさかの質問をぶつけてくる。
思わず口に入れてたアスパラの肉巻きを大して噛み砕きもせずに喉を通過させてしまい、俺は変な風に喉を鳴らした。
「……なんで俺」
「矢代ってそーいう話しねぇじゃん?」
「そうだ矢代! お前の理想はどんなだ」
「どんなのって……」
俺の理想は昔から割と一貫している。
肌が白くて、頬が林檎みたいに赤い、笑顔の可愛い女の子。
だがそれは同時にトラウマにも繋がってしまうのだ。
「特には……」
なので、俺は傷を抉らないように茶を濁す答えを返した。無難が一番だとしみじみ思う。
「んな訳ねぇだろ!」
「たまには吐け矢代ぉ!」
和久井と畑野からヤジと手が飛んできて、佐山はキラキラとした目で俺をじっと眺めている。
お前ら、俺の好みを知ってどうしようと言うのだ。
「いや、だから特には」
「嘘だね! 俺らの意見は、矢代の理想はベラボーに高いと一致してんだ。キリキリ吐いてしまえっ」
「矢代って恋愛とか興味無い訳じゃないじゃん。何回か彼女いたし」
「でも、誰も長持ちしなかったのって絶対理想が高いからだよねーって、俺らは思ってたんだけど」
「……」
畳み掛けるように次々と詰め寄られ、憩いの昼休みの筈が身体の芯から重たくなってくる。
俺に彼女が出来ても長持ちしない理由は一つだ。
奴が邪魔をするからである。
だからつまり、この弁当の制作者が。
あれは初めて彼女が出来た中学二年の事だった。
彼女と一緒の、学校からの帰り道、奴が後ろから俺に声をかけて無邪気そうな顔で言ったのだ。
『みーくんの隣にいる女はだぁれ?』
いやー、小学生相手に背筋が凍るとは思わなかったね。無邪気な顔してる癖に、後ろから虎でも睨んでんじゃねぇかって威圧感だったし。
その後もちょくちょく奴に邪魔をされ、結局彼女とは一ヶ月で破局を迎えた。
無論俺は怒った。奴の家までわざわざ出向き、面と向かって説教したのに。
「で、矢代の理想は?」
凝りもせずに和久井がパックジュースをマイク代わりに俺の口へ当てた。
その手を眉にシワを寄せながら退けて、弁当の残りを全部口に突っ込む。結局今日も完食だ。
「まだその話してんのか」
「矢代が曖昧だからだろ! いいじゃんか理想の女の子言うくらい」
「そうだよ矢代。和久井はしつこいよー」
「水向けたお前が言うんじゃねぇよ佐山」
「えー、やっぱ気になるし」
「吐いちまえよ矢代。じゃなきゃ今日の昼休みはずっとこの調子だろ」
飽きたのだろう、頬杖を付いた畑野は欠伸をしながらそう促してきた。
多分その通りなのだろう。弁当を仕舞いながら俺は深く溜め息をついた。
「白雪姫……」
「……はい?」
ボソッと言った一言に反応したのは和久井だけだった。佐山と畑野はポカンと口を開いてアホ面を晒している。
「なんつった?」
「……白雪姫みたいな子」
まぁ爆笑した和久井をぶん殴ったのは詳細を言うまでもないだろ。
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