ニュラ12 | ナノ
 
 ニューライフ



 なんでもない、普通の朝だった。

 私はようやく見慣れた天井を見ながらぼんやり目を開けて、遠慮がちに部屋から出る。


「あら英司、今日も早いのね」

「おはようございます」

「ご飯食べてから行くの?」

「頂きます」

「そ、じゃあ顔洗ってらっしゃいな」


 私は帰ってきてから毎朝六時には起きて二キロ程走るのを日課にしている。

 智子さんは五時半には起きて色々雑務を片付けているようだった。

 最初朝六時にかち会った時はは酷く驚かれたが、一週間以上も続けば智子さんは私の分の朝食を予め用意してくれる程には慣れたようだ。

 夏休みだからか、由佳里ちゃんが起き出して来るのは8時過ぎだ。ラジオ体操があるだとかで智子さんは六時に起こそうとしているが、由佳里ちゃんは起きようとしない。

 源ちゃんの息子である藤吉郎君が起きてくるのは出勤時間一時間前の七時。源ちゃんが起きてくる時間は早いときもあれば遅いときもある。この時間に起きてないという事は、今日は遅いのだろう。

 私は洗面所で軽く顔を洗った後、一旦部屋へ戻りジャージに着替えた。


「用意出来てるわよ英司」

「今行きます」


 下階から智子さんに呼ばれリビングに入ると、ダイニングテーブルには湯気を立てる朝食が用意されていた。

 それを有り難く頂戴してから、智子さんに一声かけて出掛ける。

 外に出て感じたのは既に顔を覗かせた太陽の光だ。夏の朝は明るい。七十までは毎日欠かさなかったジョギングも膝を悪くしてからは控えていたので、こうして苦も無く走れる事は朝の密かな楽しみであった。

 見慣れた町内も視線の高さが違えばいちいち新鮮で、私は走りながら四方へ視線を散らせてしまう。

 規則的なリズム、浅く速い呼吸、流れる汗が気持ちいい。

 町内を気ままに走りながら、毎回なんとなく足を向けてしまうのは源ちゃんのお社だった。

 様子を見て掃除をしたりそこで休憩を入れたりするのが習慣になっているのだろう。

 獣道のような社へ続く山道を少し上がると半ば土に埋もれてしまった石畳がちらほらと顔を覗かせる。石畳をしばらく登れば、山の濃い緑に対照的な色の褪せた鳥居が不思議な情感で見えてくるのだ。

 夏になり活性化した雑草が繁殖する社は、寂れているのに活気がある妙な具合で、私はいつも源ちゃんらしいと思ってしまう。


「……はて?」


 しかし、その日は社全体がどこか、静かだった。

 私は頬を伝う汗をタオルで拭いながら古い石畳の階段を上がり、雑草を掻き分けて崩れかけた社の前に立つ。

 静かだ。

 表現し難い感覚の話になるのだが、神社や仏閣などの神仏に関わる場所と言うのは静かなようでいて割とざわめいているものである。

 落ち着いて辺りに気を配れば木の葉のざわめきや風の抜ける音に混じり、微かになにか、静かなような賑やかなような気がしてくるものだ。

 けれども。


「静かだ……」


 社の前に立つと、それは顕著だった。純粋な木の葉のざわめきしか聞こえない。


「な、んだ……?」


 私の胸に、言いようの無い不安が押し寄せる。静寂とは落ち着きと不安の背中合わせの空間だと思う。


「源ちゃん」


 あの陽気な爺の本体が眠るという社に呼び掛ける。そうすれば何となく、ひょっこりと出てきそうな気がした。

 しかしそこは静寂を保つばかりで、私は何を馬鹿なと首を振る。


「なに、気のせいさな」


 家で呑気に寝ているに違いないと息を吐く。この所慣れたようで慣れない生活に少し情緒が不安定な自覚はあった。そのせいだろう。

 私は普段ならいくらか抜いていく雑草も放置して、早々にその場を引き返す事にしたのだ。




 それが起こったのは、ジョギングから帰宅してすぐだった。

 少々急いで走ってしまったので荒くなった息を玄関で整えていると、玄関のドアをするりと通り抜けた金が随分焦った表情で出てくる。


『利保様、利保様っ!』

「な、にごとだね」


 幽霊のような登場に似たような存在であったと驚いた心臓を宥めつつ問う私の胸には、社で感じた不安が蘇る。


『九曜様がいらっしゃらないんですぅう!』

「は?」

『ですから、九曜様がいらっしゃらないんですぅうう!』


 細い金の目玉から、ポロポロと流れる雫を見て、私は一気に頭から血液が下がった気がした。

 金を掴んで抱き上げると慌ただしく玄関を開け、源ちゃんの部屋である一階和室に騒々しく向かう。

 途中、リビングで朝食を取っているらしい智子さんの「英司帰ってきたのー?」という声を聞いたが、答えている余裕は無かった。

 滑りの良い障子を引くと、様々な物で埋まる部屋の中心に主の居ない敷き布団がポツリとある。

 その傍らには茫然自失といった風情の銀が、しきりに布団の匂いを嗅いでいた。


「源ちゃん?」


 呼び掛けに答える声は無く、代わりのように銀が顔を上げる。


『利保様……』


 覇気のない声に、頭の中がスッと冷えた。小脇に抱えた金は小さな声でひたすら源ちゃんの名を呼んでいる。


「いなくなっとは、どういう事なんだ? 英司君を探しに」

「帰って早々なんなの英司。挨拶くらいしなさいな」


 金よりいくらか冷静に見える銀に問いかけようとした背後から、不意に智子さんの声がして私は小脇に抱えていた金を落としてしまった。


『ぎゃんっ!』

「と、智子さん」

「やぁね。お母さんと呼びなさい。慌ただしくどうしたの?」

 ヴーと唸る金に心の中で謝りつつ、私は智子さんに向き直りなるべく穏やかに聞こえるよう殊更ゆっくり口を開く。


「源ちゃ……いや、あの、お祖父さんは?」

「おじいちゃん? 今朝私が起きた時にはもう出てたみたいだけど」

「どちらへ」

「さぁ? テーブルに暫く旅に行くって書き置きだけ。いつもの事だから、三日くらいで帰ってくるでしょ。心配しなくても大丈夫よ」


 カラカラ笑った智子さんは私に風呂へ行くよう言ってからリビングへと戻って行った。


「大丈夫……?」


 ちらりと、二匹の狛狐に目を向ける。二匹の目には不安が一杯に映っていて、私はざわめく心臓の上を掴んで、落ち着けと言い聞かせた。

 何が大丈夫だと言うのだろう。




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