小説スタイルシート
ぷかりぷかりと浮くシャチの背に由佳里ちゃんを乗せ、私は彼女に請われるままシャチを引いて沖合へと出てきた。
砂辺近くで遊ぶ人が多いため広い海に取り残されたように、私達の周りには波音しかしない。
「きもちーねー」
「そうだな」
由佳里ちゃんはシャチの背に身を任せながら、時折足でパシャリと水面を弾いた。
足の届かない浮遊感を味わうのは久しぶりだった。歳を取ってからは体力を使うレジャーなど避けていたから。
私は苦もなく水中を蹴る足に幾ばくかの感動を覚えていた。思うように動く身体のなんと素晴らしい事か。
遊びで英司君の身体へ入っている訳じゃないが、なる程これなら色々と身体を動かしてみたくもなる。
「あのね、お兄ちゃん」
シャチの浮き輪にうつ伏せた由佳里ちゃんは、小さな手のひらで水面を撫でながら私を呼んだ。顔は反対側を向いているので表情はわからない。
「由佳里、ずっと寂しかったの。お兄ちゃん高校に入ったらなんだか由佳里の事嫌いになっちゃったみたいで、それまでは遊んでくれたのにちっともかまってくれないんだもん。
なのにバイクで事故して由佳里の事忘れちゃうし」
私はなんとも表現し難い気分に陥った。英司君の年齢を考えたならばさほど珍しい事ではない。しかし、それを十二歳の少女に話した所ですんなりと理解はしてくれないだろう。
まして私が何かを言った所でどうにかなる事でもない。私は所詮部外者なのだから。
気落ちを漂わせる由佳里ちゃんの背中に心が痛んだ。英司君が事故を起こしてからこの少女はずっと寂しさと大きな不安と闘っていたのだ。
「由佳里ちゃんはお兄ちゃんが大好きなんだね」
私は小さな背中にそっと手を添えた。せめて今は由佳里ちゃんの寂しさを少しでも拭ってあげたい。
「変な言い方……」
吐息を漏らす笑い方をした由佳里ちゃんが、こちらを振り向く。陽に当てられた頬は赤く染まり、私はそっとシャチの浮き輪を海岸の方へ引いた。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ」
答えの困る問いに私は苦笑を漏らす。身体は確かに間違いなく英司君だ。
「私は由佳里ちゃんの知ってるお兄ちゃんとは……違うから」
「でもお兄ちゃんなの。由佳里の事忘れても、お兄ちゃんはお兄ちゃんだもの」
それにねと、声を弾ませて由佳里ちゃんは続ける。そこに幼い気遣いを見付けて、私の心臓を細長い針がチクリと通り抜けて行った。
「由佳里、今のお兄ちゃんも嫌いじゃないよ! 優しいし、遊んでくれるもん」
シャチを引く私を水面を蹴り飛沫を上げながら手伝う由佳里ちゃんは、次の言葉だけ音調を下げて低く呟いた。
「だから、もう病院でずっと寝たままになんてならないで……」
低く呟かれた幼い少女の願いを私の若く性能の良い耳はしっかりと捉えた。
「大丈夫だよ」
ポンと軽く由佳里ちゃんの頭を撫でる。
英司君はきっとあのおちゃらけて騒がしいが頼りになる爺の神様がなんとかしてくれるだろうから。
「大丈夫だ」
由佳里ちゃんにというよりは己に言い聞かせるように重ねて呟いた。
ジリジリと、太陽が肌を焼いていく。
砂浜に戻って由佳里に休憩を申し渡すと、由佳里ちゃんは不満を全面に押し出した表情をしながら大人しくビニールシートに座ってスポーツドリンクを飲み出した。
私はその場を動かないように念を押して未だ肌を焼く友人の隣へ腰を下ろす。
「なぁ源ちゃん」
至福の顔で目を閉じていた源ちゃんは、私の呼び掛けに目を開けると首だけ回して私を見上げる。
「なんだね」
「私は、心苦しくて叶わん」
脳裏に、先程泣き出すのを隠すように笑顔を浮かべた由佳里ちゃんが過ぎる。
「英司君は、まだ見つからんか」
退院して、一週間近くが過ぎていた。時間を重ねる毎に膨らんでいくのは、戸惑い寂しそうな顔をする"家族"に対する罪悪感ばかりだ。
「私は、彼らを騙して……」
「違うよやっちゃん」
呟いた私に源ちゃんはきっぱりと否定を吐いた。
「あんたは何ら責を感じる事ぁない。あんたは救う側だ。だからいいんだ」
「……なぁ、源ちゃん。私は利保だよな」
「あぁ」
「身体は英司君でも、私は利保なんだ」
「あぁ」
「だが頭が英司君なら、この身体に持ってる記憶は英司君のものだ。何故私のままなのだ」
いっそ、意識が"英司君"であればどれほど私の良心は楽だっただろう。
落胆する母の顔、戸惑ったような父の顔、違和感を隠す少女の顔。
そられを見ている、私の意識は。
「あんたはあんたでいいんだ、やっちゃん。他の誰かになろうとしなくていいんだ」
砂浜で寝そべる源ちゃんだけが、私を"見る"顔をしている。
「入れ物が違っても、どれだけ上辺を取り繕っても、本質までは偽れない。他の何かにはなれない。だから、いいんだよやっちゃん」
宥めるような声を聴きながら、私が欲しいものは免罪符なのだと思った。
あの優しい人々を偽っていてもいいんだという。
「ワシ、あんたには本当に感謝しとるんだ。だからあんたにはあんたのままでいて欲しい。気に病む必要はどこにもない」
「私は」
聞きたい事も、言いたい事もどれも明確な言葉にはならない。
ただただ私は唇を噛み締めてこのもどかしさをやり過ごす。
源ちゃんの言葉を聴きながら、これからの事を考えた。
早く、英司君が見つかればいい。
そうすればきっと彼らはもっと健やかに笑えるだろう。
(私だけが)
今この瞬間も、ただ異質なのだと。
そう考えなくてもいいように。
「お兄ちゃーん!」
少し遠くで由佳里ちゃんの声がした。彼女は暇を持て余したようにシャチの浮き輪に跨りこちらに手を振っている。
霧散した重たい空気の残滓を消し去る声は明るく澄んでいた。
私は弾かれるように顔を上げ笑顔を浮かべる。
「かき氷食べたーい!」
「じゃあ財布を引っ張って行くから、少し待っておいで」
「はぁい」
「財布とはワシかやっちゃん」
「と、言うわけで行くよ源ちゃん。焼きすぎは肌に毒だ」
立ち上がり手を伸ばした先に、先程の会話など微塵も感じさせない苦笑が見える。
「可愛い孫の頼みだ。喜んで財布になろうじゃあないか」
笑いながら確かに私の手を握る源ちゃんの感触に感じる違和感は、最初に比べれば各段に小さくなった。
何故かそれが、少しだけ怖いような。
口にしてしまえば本物の恐怖になる気がして、私はやはり口を閉ざした。
ジリジリと、太陽が肌を焼いていく。
源ちゃんが姿を消したのは、海に行ってから二日後の事だった。
←/→