ニューライフ
気まずい昼食を何とか終えて私は源ちゃんの案内で英司君の部屋へと通された。
智子さんが掃除しているのか部屋は思いの外綺麗で、私はようやく詰まったようだった息を吐いた。
「このままじゃ心労で死にそうだ」
ベッドへ緩く腰掛け、頭を抱える私に源ちゃんがカラカラと笑う。
「気にしすぎなんだよやっちゃんは。記憶喪失って言ってるんだから普通にしてればいいのに」
「源ちゃんは気軽でいいよね……私は智子さんの顔を見るのが辛いよ」
「あー、だから、ごめんなさいって。早いとこ英司見つけるから、そんなに思い詰めないでよ」
困ったような声を出した源ちゃんは私の横に腰掛けると、労るように背に腕を回してくる。足元にいた金と銀も私を見上げて小さく鳴いた。
『元気を出してください利保さま! 利保さまの元気がないと、何だか我等も悲しいのです』
『お心はよくわかります。我等の主がご面倒ばかりおかけしてしまい、申し訳ありません』
「金……銀も、ありがとうな」
足元に居た二匹をギュッと抱き上げる。英司君の身体だとそこそこ大きな二匹も軽いものだった。
二匹は代わる代わる私に頭を擦り寄せ、慰めてくれる。
「わ、ワシだって頑張ってるもん……」
ぼそりと呟かれた言葉を、私は軽く無視した。それくらい心労が酷かったのだ。
人助けとは言え、それなりに見知っている人を騙すような真似は気分の良いものではなかった。
私がそっぽを向いていると源ちゃんは暫し黙ってから小さな溜め息をついた。
源ちゃんは源ちゃんで、必死に英司君を探してくれているのだろう。
これ以上その場の空気が重くならないよう、私は昼食からずっと気になっていた事を切り出した。
「時に源ちゃん」
「なんだいやっちゃん」
思いの外源ちゃんは普通に返してきた。それを有り難く思いながら口を開く。
「さっき金と銀に聞いたんだけどね」
そう切り出すと、抱き込んだ二匹は「なぁに?」とでも言うように、同時に顔を上げた。
……愛らしい。
「金と銀から、誰か居る所で話がしたいなら願えと言われたんだが……どういう事かな?」
「ああ。見えない者には不自然だからねぇ。やっちゃんはお参りに行くとき、柏手を打つかい?」
「そりゃあね」
源ちゃんは分かり易く目の前でパンッと柏手を打つと、手を合わせたまま拝むように顔に持って行き目を瞑る。
「そんで賽銭したら、手を合わせて何かしら願い事するだろう? 無病息災とか家内安全とか」
「するねぇ」
「それだよ」
「は?」
クワッと目を開いて、人差し指で眉間辺りを突かれた。少しばかり痛かったので思わず片手でそこを押さえる。
「願い事をする時、わざわざ声に出して言わないだろう?」
「あぁ」
「その要領で話せばいいんだよ。ワシらはそれを聞き取るんだ。金と銀にもそれが聴こえる」
「そうなの?」
「そうなの」
私はモノは試しとばかりに拝むように二匹へ言葉には出さす話かけてみる。
(聞こえるかね?)
すると、二匹は耳をぴこぴこと動かして聞こえますよと同時に返した。
「ほう、これは凄い」
「まぁ便利だよね。あぁ、心配しなくても、普段からその心の声が聴こえる訳ではないんだよ。願うように言わないと駄目だ。不躾に思ってる事を聴かれるのは嫌なもんだからね」
「よく出来たものだな」
感心したように呟けば、源ちゃんは得意気に笑った。
しかし直ぐに真剣な顔をするとそのまま黙り込んでしまう。
「どうしたんだい源ちゃん」
声を掛けたら、直ぐにはっと正気付いた源ちゃんが笑ってなんでもないよと返してくる。
とても何でもないという表情ではなかったのだが何となく聞くのを躊躇っていると、唐突に源ちゃんが声を上げた。
「そうだ、海に行こう!」
「……は?」
叫んだ源ちゃんは、一人うんうんと頷きながら立ち上がる。
「夏と言えば、海だろう!」
この爺の突飛な言動には慣れていた。拳を振り上げ海を連呼する源ちゃんを私は諦めたような気持ちで眺め、呟く。
「いやまた、唐突な」
「せっかく若いんだからやっちゃんだって遊びたいだろう?」
「遊ぶ目的で英司君に入っとる訳じゃあないぞ!」
「いいじゃないか。気分転換だよ気分転換。ボードを持ってサーフィンと行こうじゃないか」
「呑気な」
逆らえる気がせずにただ溜め息に混ぜて呟く。もうここまでやる気ならテコでもその意志を動かす事はないだろう。
源ちゃんがサクサクと一人気ままに計画を話出したその時、コンコンと部屋のドアがノックされた。私はそれにビクリと肩を揺らす。
誰が来たのだろうと源ちゃんを見たら、源ちゃんは勝手に「どうぞー」と間延びした声で促していた。
少しだけ開いたドアの隙間から顔を覗かせたのは、今日一日ずっと距離を保ち私を伺っていた由佳里ちゃんだ。
「……なんで、おじいちゃんがいるの?」
由佳里ちゃんは幼い顔をぐっとしかめて部屋に入ってきた。
金と銀が慌てたように私の膝から降りてベッドの端に寄る。どこか怒ったような由佳里ちゃんは荒い足取りで部屋を横切ると、私の横へドサリと腰掛けた。近い。
「お兄ちゃん」
「……何かな?」
今日一番、兄妹らしい距離だった。幼く高い声でお兄ちゃんと呼ばれると、どうにも背筋がむず痒いような気がしてくる。
「本当に忘れちゃったの? イタズラとかじゃない? みんなで由佳里をからかってるんでしょ」
「そんな事はしないよ」
心外なと呟く。英司君本人もやんちゃ坊主だがそこまで質の悪い悪戯は仕掛けないだろう。
同時に、今日一日どうにも可笑しな由佳里ちゃんの挙動にも合点がいった。からかわれていると思ったのだろう。
まぁ、にわかには信じがたいだろうし、身内が記憶喪失など悪い冗談だと思うのも無理はない。
「だってお兄ちゃんがおじいちゃんと仲良いなんて変よ! 散々おじいちゃんのこと気持ち悪いって言ってたもん」
「……」
思わず源ちゃんを無言で眺める。源ちゃんは不自然に目を逸らしわざとらしく口笛を吹いた。
随時と英司君には虐げられているようだ。それでも英司君を見捨てない源ちゃんに、石を飲んだ気分に陥る。思春期の青少年は難しいしな。
「前はそうだったのかな?」
「そうよ。忘れちゃったの?」
「覚えてないなぁ」
何度も何度も口にした台詞はすらすらと出た。言うのには慣れた。しかし、この台詞を言った後の、相手の反応にはいつまでも慣れない。
「……由佳里の事も、忘れた?」
「ごめんね」
「お、お兄ちゃんなんか、キライ!」
しかし、そのままウワッと泣き出した由佳里ちゃんには部屋の全員が慌て騒然となった。源ちゃんはわたわたと無意味に手を動かし、金と銀は由佳里ちゃんの周りをうろうろと歩き、私は私で由佳里ちゃんの横でどうすればいいのか弱り果てる。
「お兄ちゃんのバカー! キライィィイイ!」
「あ、ああっ、あんまり泣くと目が腫れて喉を痛めるぞ! 源ちゃんっ」
「大丈夫、大丈夫だ由佳里! 英司はきっと直ぐに全部思い出す! 思い出すから、なっ」
「ウソツキー! もうずっと忘れてるんでしょーっ」
『ゆ、由佳里さま! あまり泣かれるとお身体に障りますぅうっ』
『由佳里様、そんなに声を出しては喉を痛めてしまいますよっ』
「ウワァァァァンッ」
尚も泣き叫ぶ由佳里ちゃんに、私はとっさに叫んでいた。
「そうだ! 海に行こう!」
叫んだ勢いで由佳里ちゃんを抱き締めた。華奢な身体だ。どこからあの音量を出したのか。
由佳里ちゃんは一度大きく肩を震わせると、しゃくり上げながら小さな声で「うみ?」と私を見上げてきた。
私は腕の中でひっくと喉を震わす由佳里ちゃんが再び泣き出さないよう、緩く背中を叩きながら畳み掛けるように先程の源ちゃんの言葉を絞り出す。
「夏と言えば海だろう! もう学校も夏休みだろうし、私と源ちゃんが連れてってやろな? 楽しいぞ海は。いい気分転換にもなるだろう!」
なぁっと源ちゃんを仰ぐ。源ちゃんは勢い良く頷いて、そうだぞ! 海は楽しいぞと由佳里ちゃんを宥めた。
「やっぱり、お兄ちゃん変」
ボソボソと呟いた由佳里ちゃんは、それでも海に気を取られたのか少しだけ唇を吊り上げてくれた。
←/→