ニューライフ
見知った扉が、今は何故か未知の扉に見える。
「大丈夫かやっちゃん」
隣家である源ちゃん家の前で戸惑いに脚の止まった私を見て、源ちゃんは軽く背中を押してきた。
声には出さず私は一つ頷くと大きく息を吸ってからその扉を開ける。
「あら英司、おかえり」
「た、だいま」
玄関には源ちゃんの息子の嫁である智子さんが何気ない顔で出迎えてきたが、私はその心の内が私と同じ不安で埋まっているのを知っていた。
英司君として目覚めた日、主治医の診療最中に智子さんは病室に駆けつけてきた。
泣きながら殴られたのは、英司君の行いを考えれば当然と言えよう。だから私は彼女に、その言葉を投げるのをとても躊躇したのだ。
泣いて息子を心配する母親にアナタは誰だなどと、どうしてあっさり吐けようか。まぁ言うしかないので言ったのだが。
以来智子さんはどう私に接すれば良いのか解らないらしく、腫れ物を扱うように接している。本当に申し訳ない限りだ。英司君が戻った暁には心底安心して眠って頂くとしよう。
最初は毎日アルバムやビデオ、英司君が好きらしい食べ物を持って智子さんは病室へ来た。その必死な姿が痛ましくて私が源ちゃんに頼んで来る頻度を下げて貰ったのだ。
「おじいちゃん、お迎えご苦労様でした。身体の具合はどうなの英司」
強い母の顔で、智子さんは私を真っ直ぐに見た。これは逸らしてはいけないんだろうなと、私は気まずく思いながらも智子さんを見返す。
「大分良くなりましたよ」
「……そう、もうすぐお昼ね。用意するから、手を洗って、リビングでゆっくりしてらっしゃい」
「……はい」
私の言葉に、智子さんは酷く寂しそうに笑った。
台所へ向かう智子さんを確認して、私はこっそり後ろを振り返る。
私の後ろでは微妙な顔の源ちゃんと何故か緊張している二匹の狐が私を揃って見ていた。
このお狐様の緊張は私につられたのだろうか。
「罪悪感に耐えられそうにないぞ源ちゃん!」
「いや暫くは辛抱してよ、早くバカ孫見付けるから」
「そうは言ってもな!」
「悪かったって! でも見付からないんだから仕方ないでしょっ」
「玄関先で何してんの?」
源ちゃんと小突きあっていると、背後で幼い女の子の声がした。驚いて私の肩が盛大に跳ねる。
恐る恐る振り返ると、そこには源ちゃんのもう一人の孫で英司君の妹である由佳里ちゃんが怪訝な顔で私達を見ていた。
しかし由佳里ちゃんは私と目が合った途端逃げるようにリビングへと駆けていく。
私は呆然とその小さな背を見送り、背後へと呟いた。
「私、何だかとても不安なんだが」
振り返ると、源ちゃんは明後日の方向を見てワザとらしく口笛を吹いた。
居心地悪くリビングのソファーに座りながら手持ち無沙汰に金を撫でていると、ガラスの大皿一杯に盛られた麺と付け汁を盆に乗せて智子さんが台所から出てきた。
「今日は暑いから素麺にしたの。夜は退院祝いに豪勢なの作るから、今はこれで我慢してちょうだい」
「いえ、どうもありがとうございます」
私は一瞬助けを呼ぶように源ちゃんを見るが、源ちゃんはテレビの水着女性に釘付けになっていた。
その横にちんまりと座りながら沈黙を守っているのは由佳里ちゃんだ。時折伺うようにこちらを見る視線が刺さるようで、私は逃げたいような叫びたいような気持ちに陥る。
(もうろく爺っ)
思わず源ちゃんに向かって暴言を心の内で呟いた私を誰が責めようか。
不安に金の毛をギュッと握ってしまい、金が抗議するように小さな声を上げる。
『アイタ!』
「あ、すまん!」
「何が?」
ダイニングテーブルへ皿を配置していた智子さんが、私の声に振り向く。
私は慌てて大きく首を横に振りながら「なんでもありません!」と叫ぶように答えた。
「やぁね英司、そんな畏まんなくていいのよ? 他人じゃあるまいし」
「……は、はは」
冷や汗で全身が冷たいような気がした。
余程顔色が悪かったのだろうか、横で大人しく控えていた銀がソファーの背に乗り、柔らかい尻尾を私の首に巻き付けてくる。
『落ち着いてください利保さま。大丈夫です』
「しっ、しかしな」
小声で返した私に、銀はシッと音を出すとポンポンと巻き付けた尻尾で私の首を叩く。
『我等の声は、見えぬ者には聴こえないのです。ですから、我等の言葉に返事をしては不審に思われてしまいます』
『落ち着いてください利保さま! 我等への返答は、声に出してはなりません』
私に掴まれた箇所を舐めていた金も、銀に被せるように高く言う。
それじゃ無視をしろと言うのだろうか。
聞き返したい気持ちを押し殺し、私は用意する智子さんの背をじっと眺める。
『我等に何か申し付けたい時はどうぞ心で願ってくださいまし』
『利保さまのお言葉は、我等にちゃんと届きます故』
どういう事だと眉が寄った時、智子さんが振り返って出来たわよと間延びした声で言った。
「さ、食べて食べて。おじいちゃん! あんまり近くで見ると目を悪くしますよ! 由佳里もこっち来て食べなさい」
「……はーい」
「へいへい。さて、食うか食うか。英司もぽやっとしてんでこっちこい」
「あ、うん」
私達はぞろぞろと智子さんの掛け声でダイニングテーブルに集まる。
私は自然に源ちゃんの隣へと座った。対面する形で着席した由佳里ちゃんが、驚いたように目を見開く。
「……お兄ちゃん、本当に変になっちゃったんだ」
私はその言葉に、思わず源ちゃんに対する英司君の扱いが気になってしまったが、今はそれよりもこの場をどう誤魔化そうか必死だった。
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