ニューライフ
お父さんと呼ばれ、私は振り返った。淡い光が弾ける草原の先に、結った髪のほつれを細い指で押さえながら微笑む妻とまだ幼い息子が見えた。
その眩しい光景に私は目を細める。
何もかもが愛おしく、懐かしい。
『────』
妻が、穏やかに何かを呟く。聞き慣れたその音が、吹いた風にかき消えた。唇の動きで分かった。四文字。
私はその言葉の意味を聞くべく妻のもとへ走る。
しかしいくら走っても妻には追い付かず、私の方へ駆けてきた息子が私の手を取った。
『とぉさんは、もう行けないんだよ?』
何処へと、私は息子に問い返さなかった。
暖かい温もりを左手に感じる。息子は妻と反対方向へ私の手を取ったまま歩き始める。
私は何度も、何度も妻を振り返った。彼女は解れた髪を押さえながら、穏やかな顔で私に手を降るばかりだ。
背筋を這い上がる奇妙な悪寒に、私はただ口を閉ざして手を引かれた。
***
「ッ……!」
嫌な感覚に私は唐突に目を覚ました。背中がやけに冷たい。
ここ一ヶ月と半月程で見慣れてしまった白い天井が見える。
収まらない動悸で身体中が痛いような気がする。口から荒く漏れる呼吸をなんとか押し止めた。
左手が、温かい。
「やっちゃん?」
にわかにまた背筋が凍りそうになり、私は慌てて呼ばれた方に視線を移した。
そこには眉間に皺を寄せた源ちゃんがいて、私は荒い呼吸のままただ源ちゃんだけを見つめる。
「どうしたんだい」
「ひだりて……が」
「左手?」
怪訝な顔をした源ちゃんが、私の左手を振りまわした。己の手と一緒に。
「……」
「左手がどうかしたか?」
私は無言で左手を取り返した。温かい訳である。
一気に気が抜けてしまって怠惰に起きあがると、ベッドサイドのペットボトルを取り中身を飲み干した。
「やっちゃんから握ったんだよ?」
振り払った形になった手をわざとらしく振って、源ちゃんは私をのぞき込む。
その事実に顔が赤らみそうになり、私は源ちゃんを睨んで誤魔化した。
「いつ来たんだ」
「ほんの十分くらい前だね。で、どうしたの? なぁんか顔色悪いみたいだけど」
「いや、夢見が、悪かっただけだよ」
「どんな?」
問われて、私はギュッと押し黙った。改めて思い返せばそこまで怖い夢ではない。
少しばかり衝撃が大きかっただけで。
いっそ源ちゃんに軽く茶化して貰えば腹が立つものの気分もすっきりするだろうと口を開く。
「……死んだ女房に、改めて別れを言われる夢だ」
「……」
てっきり持て囃すと思った源ちゃんはしかし、奇妙な表情をして黙り込んでしまった。何故かまた左手を握られる。
「……源ちゃん?」
「そうか、そうか」
「?」
「振られたのか、やっちゃん」
「怒るよ」
思わず振り上げた右手はしかし、病室の引き戸をノックする音に阻害された。
「どうぞ」
手を引っ込めて返事をする。顔を覗かせたのは、いつも世話になっている看護士の女性だった。
「こんにちわ、英司君」
「こんにちは」
「あら、邑守のおじいちゃんもいらしてたんですか? こんにちわおじいちゃん」
「はい、どうも。ウチの孫が世話になっとります」
看護士の女性は繋がれた私達の手を見て、表現のし難い柔らかい顔をした。私は慌てて左手を振る。
背筋の冷たさは消えていた。
「具合はどうかな、英司君」
何ら気にする事もないという風情で、看護士は私に体温計を差し出した。私も何気ない顔でそれを脇にはさみながら変わりはないと答える。
「そう? 調子がいいみたいで良かった。おじいちゃんもいらっしゃるから丁度良いかな、後で先生の所へ行ってくれる?」
「何か?」
「ふふっ、良い知らせよー。明日退院出来るって」
ピピッと体温計が鳴った。私と源ちゃんは顔を見合わせ、ニコニコと笑う看護士に同じタイミングで視線を向ける。
「勿論暫くは通院してもらう事になるけどね」
「明日?」
「そ、明日。良かったね。詳しい事はおじいちゃんと一緒に先生の所で聞いてね」
差し出した体温計を見てカルテに書き込みながら、看護士はじゃあねと手を振りながら出て行った。
「退院か」
改めて呟くがあまり実感はない。ようやくと身体の感覚には慣れたが、この身に起こる事は全て他人事のように馴染まない。
「おおっ、良かったなぁやっちゃん。英司の身体で遊び放題だよっ」
「あのなぁ源ちゃん」
「どうせだから海行っちゃう?」
「……好きにすればいいよ」
あれこれともう心の底から楽しそうに遊ぶ予定を立て始めた源ちゃんを尻目に、私は窓の外を眺めた。
雲が青空に大きく、窓ガラスを突き抜ける蝉の大合唱が聴こえる。季節はすっかり夏だ。
不意に、胸を不安がよぎった。
英司君はまだ見つかっていない。
(私はいつまでこうしているのか)
それで英司君が見付かった後どうなるのか。
その疑問を私は源ちゃんにぶつけていない。
どうしてか、それは聞いてはいけないような気がしていた。
***
地面の近い所で、陽炎が揺らいでいる。思ったよりも荒れていない庭を眺めて、私は額を流れる汗を手拭いで拭う。
どこかガランとした縁側から夏の恩恵を受ける緑色の庭をぼんやりと見るともなしに見ていた。
「やっちゃんのせがれは仕事があるってんでイギリスに慌ただしく戻ってったぞ」
勝手知ったる他人の我が家と台所でごそごそしていた源ちゃんが、水羊羹と一緒に麦茶を差し出してくれる。
「あぁ、どうも」
「葬式の三日後くらいかの」
「そうか、無理をさせてしまったなぁ。葬儀は無事済んだみたいだね」
「滞りなくね。遺品の整理はゆっくりやりたいから、この家は暫く残しておくと言っとった。留守はワシが預かっとる」
「死後も世話になるねぇ」
受け取り、蝉の鳴く縁側で二人水羊羹をつつきながら苦笑を漏らした。妙な会話だと。
「鍵はあんたが持っとるか?」
聞かれたので、私は緩く首を振った。
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