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 ニューライフ




「はい、そう……頑張って歩いて、いっちに、いっちに」


 眼が覚めてから二週間程経った梅雨間の晴れた午後、私は院内のリハビリセンターで歩行訓練に励んでいた。


「む、ままならんな」

「焦らないで良いよ英司君。君のリハビリは驚くくらい順調なんだから」


 半年もの間寝たきりだった英司君の身体は大分筋力が落ちていたらしく、最初の一週間はベッドでの起床訓練だった。今となっては笑う程辛かったが、流石に若い身体は違うといった所か。ギシギシと軋んでいた関節も今ではかなりスムーズに動く……ように思う。

 他人の身体と言うのはどうも使い勝手が違うらしく、むしろ私はリハビリよりこの身体に慣れる方が大変なように感じた。


「で、英司君、その後どう? 何か思い出したかい?」

「……まだ、なにも」

「そっか。まぁ焦ってもしょうがないから、今はゆっくり身体の調子を整えていこうか」

「はい」


 横で何かと声をかけてくる理学療法士の方には悪いが、私は彼の声を半ば無視してリハビリに没頭した。下手に親しくなるとボロが出かねない。

 あの後、事情を話し終えた源ちゃんは医者を呼ぶ前に私に一つだけ注意をした。


『あんたの身体は英司だが、あんた自体はやっちゃんだ。詳しく話すとややこしくなるから、やっちゃんにゃこれから記憶喪失の振りをしてもらう』

『……記憶喪失?』

『医者が来たらこう言えばええよ、僕は誰ですか』

『何だねそれは』

『そう言えば英司との齟齬をうやむやに出来るだろう? 英司の事を聞かれたら解りませんとだけ言えば面倒な事にゃあなりゃせんから』


 つまり、今の私は英司君の記憶がごっそり抜けた記憶喪失状態と言う訳だ。あの爺は伊達に長く生きとらんで、変な所に知恵を回すもんだと感心してしまった。

 やってみればなる程これは便利で、私は私を取り繕う事もない。


「よぉ、やっとるなぁ英司」

「源ちゃんか」


 無心で崩れそうな脚を動かしていると、後ろからハキハキした声が掛かった。振り返れば真っ青なハイビスカスのアロハシャツとハーツパンツ姿の源ちゃんが、コンビニの袋を片手にリハビリセンターの入り口で手を振っている。


「おじいちゃん、よく来るねぇ」


 理学療法士の男は感心したように呟いた。


「暇なんだろう」

「せっかく来てくれてるのにそんな事言ったら駄目だよ英司君。おじいちゃんも来たし、今日はここまでにしようか」


 そう言う私を窘めるように彼は肩をポンと二回叩くと、端に寄せていた車椅子を持ってきてゆっくりと私を座らせた。

 そうして、入り口でニヤニヤと待っていた源ちゃんの所まで運ばれる。


「こんにちは、邑守のおじいちゃん。今日もお見舞いですか?」

「ええ、どうも先生、お世話になっとります」


 二人は私を挟んでペコペコと頭を下げる。前後から頭を下げられてる私は妙な気分だ。


「英司の具合はどうですかな」


 源ちゃんが私の肩に手を置いて尋ねた。コンビニの袋がガサリと擦れた音を立てる。労るように撫でられやはり妙な気分になった。慣れないというか。


「驚くほど順調ですよ。ただどうにも無理をしがちなので、勝手に歩行訓練や筋肉トレーニングをしているのを見つけたら止めて下さいね」

「だってよ、英司」


 二人の世間話の合間、急に水を向けられた私は憮然と呟いた。心外であると。


「……私は無理など」

「しちょるんだと。頑張るのもいいがゆっくりやろうな、なぁ英司」

「……」


 色々と口にしたい事はあったが、ここで言うべきではないと思い私は口を閉ざす。源ちゃんが面白そうにニヤニヤ笑うのを見て、私はこっそり源ちゃんの脚を踏んだ。力が入らないので痛くもないだろうが。


「拗ねるな拗ねるな」

「……」

「まぁ後でのんびり話そうな」

「……」


 後ろで様子を見守っていた理学療法士がクスクスと声を漏らした。生暖かい目で見られて私はやたらに恥ずかしくなり俯く。

 あぁ、妙な気分だ。


「仲がとても良いんですね。邑守さん、英司君は若いから焦るし無理もしがちなんですが、下手をすると筋を痛めたりしますから、くれぐれも気を付けてあげて下さい。英司君、病室に帰ってもストレッチ程度で止めておくんだよ? 昨日みたいにスクワットや腕立てなんかしちゃ駄目だからね」

「この爺がしっかり見張っておくとしよう」

「……」

「よろしくお願いします。じゃあ、僕はこれで。また明日ね、英司君」


 しっかり釘を刺して、理学療法士の彼は手を軽く振りながらリハビリセンターの中へ戻って行った。しっかりした若者である。

 その後ろ姿を見送り、私はニヤニヤと表情を崩す源ちゃんを見上げる。


「アンタ、病室でスクワットやら腕立て伏せをしとるんか」

「……キチッと鍛えておかんと英司君が困るだろう」


 視線が合った途端、からかうように言う源ちゃんに私は言い訳のように呟いた。

 これでムキになってやっていたら看護士に抑え込まれて止められたなどと知れれば、この爺は鳶の鳴き声のように高く笑うに違いない。


「く、ははっ。ワシ、やっちゃんのそーいうトコ好きよ」

「……私は源ちゃんのそう言う所が嫌いだ」

「拗ねるなって」

「拗ねてなどないよ」


 私の後ろに回った源ちゃんはゆっくりとした動作で車椅子を押していく。それに身を任せた私はそっぽを向いて答えた。

 いかん、これでは拗ねているようではないか。

 私の言動が可笑しかったのか、また低く笑った源ちゃんはそれきり何も言わず、院内の中庭に腰を落ち着けるまでずっと肩を震わせていた。



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