ニューライフ
さわさわと風が頬に触れていた。心地好い。私は沈んでいる意識をゆっくりと浮上させ目を開く。やけにスッキリと見える視界に戸惑いながら身体を起こした。
「あの世……かね?」
身体中が軋むように傷んだ。絞り出した声はまるで他人のもののように低く掠れている。
どこもかしこも白い。壁も床も寝ているベッドも。
「病院?」
それはとても見覚えのあった光景だった。個室なのか、ベッドは私が寝ている一つしかない。
「あの世は病院みたいな所だな……」
とりあえずベッドから降りようと思ったが、身体が痛すぎて動かなかった。起こした身体もベッドへ逆戻りだ。おまけに先程より痛みが増している。
どこもかしこもままならない中、視界だけは酷く鮮明で反射する白が目に少し痛い。
個室なのか、辺りは怖いくらい静かだった。私一人だけがこの空間に取り残されたような静寂。
窓から覗く空の青さだけが、変わらずに私を見下ろしている。
「あの世にも空があるのか」
掠れた声は感心したように呟いた。想像とは大分違うあの世。見る景色は現世と変わりない。
「まったく、あの世に来ても身体がままならんとは……これじゃ喜美枝も探しに行けないじゃないか……」
ちなみに、喜美枝とは三年前癌で逝った妻の事だ。
死んだら真っ先に喜美枝に会えると思っていたのだが、やはりそう上手くは出来ていないようだった。
そもそも死んだ後も何かを望むとは、自分の強欲さに笑いしか出ない。
「さて、これからどうなるのかね……」
人が死んだ後どうなるかは当然だが知らない。意識があるという事は何かしら先があるのだろうが、私には検討もつかなかった。
ベッドに力なく沈んでいる身体を動かそうにも死ぬ前のように動かないし、とりあえずこのまま寝ているしかないだろう。
そう思い私が目を瞑ろうとした時、病室の引き戸が開けられた。
「あぁ、やっちゃん、起きたのか」
聞き覚えのあり過ぎる声に閉じかけた瞼を開く。予想と違わぬ人物がそこにいた事に、私は素直に驚いた。
「源ちゃん!? アンタ、また何だってここに……源ちゃんも死んだのか」
「ワシは死んどらんよやっちゃん。身体の具合はどうだい?」
ひょこっと部屋に入ってきた源ちゃんは、人好きのする笑みを浮かべながら手にしていた花瓶を窓際に置いて、ベッドの近くにあったパイプイスに腰掛けた。
「具合? ギシギシ痛いが……まさか私は助かったのか?」
声は相変わらず他人のもののように低く掠れていた。思わず喉に手を当てて咳払いする。
もしかして、あの後──意識を失う直前はあえて思い出すまい──源ちゃんが救急車でも呼んで私を病院へ連れてきてくれたのだろうか。
(だが、私は確実に寿命だった)
どうしてかは解らないが……直感としか言い様がない、死の感覚。冷たくなっていく身体や狭く暗い視野を、私はちゃんと覚えている。
しかし今、私は生きているようだ。痛みでよく解らなかったが体温が徐々に上昇している気がした。視界も良好。
色々と不思議に思い尋ねれば源ちゃんは顎に手を当てて私をじろじろ眺めた後、らしくもなく真剣な顔をして言った。
「ふむ……身体はちゃんと動くみたいだね。やっちゃん、ここは病院で、アンタは死んだよ」
「……はぁ」
じゃあ何か、ここにいる私は幽霊だとでも言うのだろうか。
気のない返事を返しながら、私は源ちゃんを見る。
源ちゃんは何故かおもむろに鏡を取り出すと、私に手渡した。
「とりあえず鏡を覗いてみんさい」
「腕が痛くて上がらんのだが」
言えば源ちゃんは軽い調子ですまんすまんと謝りながら、寝ている私の顔の上に鏡を持ってきた。
「……あ?」
「びっくりした? びっくりした?」
源ちゃんが悪戯が成功した子供のような顔で鏡を退けて私を覗き込むが、私は軋む腕を無理矢理動かして鏡を奪い返し、もう一度じっくりと眺めた。
「……英司君か?」
「うちの孫だな」
「……いやいやいやいや」
頭を振れば、鏡の中の源ちゃんの孫も顔を振る。私は試しに頬を摘まんでみたが、やはり鏡の中の英司君も頬を摘まんだ。
「なんでっ!?」
どうして私が源ちゃんの孫である英司君になっているのだ。何がどうしたらこんな摩訶不思議な事になるんだ。
「源ちゃん!?」
訳知り顔でにやにやする源ちゃんを、私は出来るならば掴みかかりたい気持ちで振り返る。源ちゃんはまぁまぁと言いながら何処から出したのか、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを私に差し出して「落ち着きなさい」と宣った。
「これが落ち着いていられる状況か!?」
「ちゃあんと全部説明してあげるから、まずは水を飲みなよやっちゃん。酷い声だ」
介護なんかでよく見る自動ベッドだったのか、源ちゃんが壁に付いていたスイッチの一つを押すと静かなモーター音と共にベッドヘッドがゆっくりと起き上がる。
ズキリと身体が痛んだが、私は身を任せてそのまま身体を起こした。既に蓋の開けてあったペットボトルを受け取って水を飲めば、渇いていたのか一気に飲み干してしまう。
「半年ぶりの水だ。染み渡るだろう」
「やっぱりこの身体は英司君なのか……」
私は顎に垂れた水滴を拭って空になったペットボトルを源ちゃんに渡した。源ちゃんはベッドの横にあったゴミ箱にペットボトルを放り込むと、一つ頷いて私を見る。
「まぁ混乱するだろうが、落ち着いて聴いてくれ。今からワシが話す事は、全部事実だ」
「……解った」
源ちゃんは何から何まで変な爺だったが、嘘を吐いた事だけは無かった。私は神妙に頷いた。
「医者が来ると厄介だ。英司はまだ目覚めていない事になっとる。ちと長い話で辛いだろうが、辛抱してくれ」
「あぁ」
「端的に言うと、ワシは神様だ」
「あぁ……あ?」
頷きかけて、一瞬思考が止まる。脳が巧く意味を咀嚼出来ず、私は祈るような気持ちで聞き返した。
「パードゥン」
「だから、ワシは神さ」
「パードゥン」
「神様なんだって」
無理矢理付き合わされた英会話が妙な所で役に立った。とてもじゃないがまともに聞き返す内容ではない。
「私、源ちゃんだけは私に嘘を吐かないと思ってたのに……」
「嘘じゃないよ!」
「いやいやいやいや」
神様だって?
そりゃ源ちゃんはちょっと化け物じみた所があるが、言うに事欠いて神様とな。
若者に人気の小説に出てくるとんでも美少女じゃあるまいに。
ちなみにその小説は源ちゃんが読め! と押し付けてきたもので中々面白くはあったが。
「第一アンタ、結婚してて孫までいるじゃあないか! そもそも神様がこんな身近にいるものか!」
「居るんだからしょうがないでしょうよ。ほら、近所の山に廃れたお社があるだろう? 昔連れて行った。もう崩れかけて滅多に人も来ないが、ワシ、あそこに奉られてた神様なの」
源ちゃんの言ってるお社とは、私の家から歩いて十五分程の所にある山中に建っている、崩壊しかけている神社の事だろう。あそこは昔源ちゃんに連れられて見に行った事がある。
昔はそこそこ立派な社だったのだろう。崩れていて雑草が伸びに伸びた、だがしっかりした造りの石階段を上がると、塗装の剥げた大きな鳥居がある。何故廃れたのか解らないぐらいには広い敷地に崩れかけの大きな社が建っていた。稲荷だったのか社の前にあった一対の狐の御使い様には苔が生えていた。
あれは不憫で仕様が無かった。私はたまに運動がてらいなり寿司を持ってその神社を訪れては、軽く掃除をしたりお昼にと持って行ったいなり寿司を半分供えたりしたが。
「源ちゃんが、そこの神様?」
「そうそう。ワシ、そこの神様」
「アンタね、いい加減に」
「だから嘘じゃないよ。アンタ、たまーにふらりと来ては掃除したりいなり寿司供えてくれただろう? ワシ、あれ嬉しくてねぇ。ついついやっちゃんにちょっかいばっかり……ああそうそう、金と銀がやっちゃんにお礼を言っとったぞ」
私は源ちゃんの言葉に眼を剥いた。源ちゃんとその神社を訪れたのは最初の一度きりで、それから私が神社を訪れてる事は源ちゃんには言っていない。しかも、多分源ちゃんの言ってる金と銀は狐の御使い様だ。呼ぶのに困って私が名前を付けたのだ。
「なんで、それ」
私が呆然と呟くと、源ちゃんはいつもの、私を何かに巻き込む時によく見せる悪戯っ子のような笑顔を浮かべて言った。
「知ってるさ。ワシの本体はまだあそこにあるのだから。それに、ワシがただの人間ならやっちゃんに起こってるその"不思議"を、アンタはどう説明するんだい」
そこそこ長い人生だが、私はこんなに驚いた事がなかった。
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